けなみが素敵な
「じゃあとむ、行ってくるね!」
バタンとドアが閉まって、部屋の中がシンとする。ご主人様の足音が遠のいていくのを確かめて、おいらはベッドの方へ向かった。おいら専用の台からベッド、そして枕元の出窓に飛び移る。外を見下ろすと、小走りで駅に向かうご主人様の姿が見えた。うん、今日も任務達成だ。満足したおいらは、出窓から下りずにそのままおすわりの体勢で外を見続ける。
スーツを着たサラリーマン、制服姿の女子高生、ママチャリを爆走させるお母さんとその後ろに座る幼児。朝のこの時間は、みんなそれぞれの行き先を目指して急いでる。忙しないけど、ずっと眺めてるとどこかワクワクしてくる。おいらの好きな時間だ。まあ、たまに大雨に打たれたんじゃないかと思うほど暗い顔で歩いている人を見かけては、勝手に心配と同情をする事もあるんだけど。
(そろそろかな)
意味もなく、ソワソワと出窓の端から端まで歩き回る。すると、右側からある人物が歩いてくるのが見えた。途端に、おいらのテンションは急上昇する。
やってきたのは、そこそこ年を取ったおじさん。会社で働いている人間には定年退職って言うのがあるらしいから、多分そんな感じの人。でも、おいらのお目当てはその人じゃない。
おじさんと一緒に歩いているのは、一匹のパピヨン。白と黒の毛並みがとても綺麗な、かなりの美人、いや美犬。もう数ヶ月、同じ時間にここを通っている。飼い主のおじさんは、きっとすごく几帳面な人なんだろう。お陰で、毎日彼女を見る事ができて嬉しい。
今日も可愛いな。センスのいいリボンがついた首輪がよく似合っている。清楚な雰囲気だけど、たまに知り合いの犬にすれ違うと元気よく挨拶をしているみたいだ。マロンみたいなギラギラしてない感じが特にいい。多分年下だと思うんだけど、何ていう名前なのかな。好きな食べ物は何だろう。
話しかけてみたいけどここは三階、それも窓越しだからなかなか難しい。なら、こっちもお散歩を装って直接話しかけようかとも思った。でも、残念ながらせっかく週末にご主人様を起こして出かけてみても、どうやら土日はお散歩はしない主義らしく、会えた事は一度もない。仕方ないよね。飼い主のおじさんにも都合ってものがあるんだから。そうやって自分で自分を納得させながら、トコトコ歩く彼女を見つめていた時だった。
不意に彼女の視線が上に、つまりおいらの方に向けられる。え、こっち見てる?立ち止まって、彼女のくりくりした目は確かに真っすぐにおいらを見てる。あまりに急な事だから、おいらはどうしたらいいのかわからず出窓を行ったり来たりする。自分で言うのも何だけど、すごく挙動不審だ。そろそろと下を見ると、彼女の視線はまだこっちを向いたままだ。ドキドキしながら、挨拶の意味を込めて一声鳴いてみる。
「キャン!」
すると、彼女もその場をクルクル回りながら鳴き返してくれた。
「キャン!」
まさかの反応に、おいらは嬉しくて気づいたら尻尾をちぎれるくらい振り回していた。うわー、うわー、マジか。おいらもまだまだ捨てたもんじゃないな。これワンチャンあるんじゃないかな。
この日以来、彼女はここを通る度に立ち止まっておいらに挨拶してくれるようになった。
*
ある平日の朝、おいらはいつも通りお日様の光で目を覚ました。思いっきり伸びをして、隣を見る。そこには、ヨダレを垂らして幸せそうに眠っているご主人様。また寝坊かと呆れたいところだったけど、今日は違うんだ。昨夜、ご主人様はビールを飲みながら嬉しそうに言っていた。
─明日は会社の創立記念日!貴重な平日の休みだぁ!
そう、今日はご主人様の会社の誕生日。世間は普段通りの平日だけど、ご主人様はお休み。大事な事だからもう一度言う。世間は平日だけど、ご主人様はお休み。つまり、今日はおいらにとって千載一遇の大チャンスの日でもあるわけで。
前足を入念に舐めて、気合いを入れる。よし、やるぞ。おいらはご主人様の顔を力いっぱい踏みつけた。
「うぐっ…とむ~…違う違う、今日はいいんだよ…休みだからもうちょっと寝かせて…」
何かごちゃごちゃ言ってるけど、知ったこっちゃない。
「いだだだだ、ちょっ、とむ、ストップ…今日は休み!会社に行かなくていいの!」
ガンガン足踏みするおいらにご主人様は必死に言い聞かせようとするけど、ご主人様がお休みだからこそこうしてるんだ。いつもより多めに踏んでおります。
「何、どうしたの?ご飯?」
やっと起き上がったご主人様の顔をペロッと舐めて、ベッドから飛び降りる。玄関からリードをくわえて戻り、一生懸命伝えようとする。
「キャン!キャン!」
「え、散歩?こんな時間から?」
「キャン!」
「うう~ん、悪いけどもうちょっと寝かせて。お昼には連れていってあげるから」
それじゃ遅いから言ってるんだよ。早くしないと、あの子が来ちゃう。こうなったら、最終手段だ。もう一度ベッドに上ったおいらは、ご主人様の顔の目の前に自分の顔を近づけた。
「クゥーン」
*
「───あんた、年々自分の武器を活用するの上手くなってない?」
大きなあくびをしながら歩くご主人様を急かすように、周りを走り回る。おいらの必殺、上目遣いでおねだりの術だ。無事に出てこられた事にホッとしつつ、彼女が通るであろう道を迎えに行く形で逆走する。会えるかな?会えるよね?ウキウキした気持ちが自然と足取りに表れる。
やがて、前から彼女が飼い主のおじさんと歩いてくるのが見えた。おいらのテンションは最高潮、でも大人の余裕を見せたいから必死に平静を装うために歩く速度を緩める。彼女の方もおいらに気づいたのか、キョトンと目を瞬かせる。ビックリしたよね。言っておくけど、ストーカーじゃないよ…え、違うよね?
「《おはよう!》」
勇気を出して声をかけてみる。すると、彼女の方も笑顔で挨拶を返してくれた。
「《おはよう!今日はおうちじゃないのね》」
「《うん、ご主人様がお休みだったんだ》」
おいら達がお話をしているのを見て、ご主人様達も必然的に挨拶をする事になる。
「可愛いトイプードルですね」
「ありがとうございます。みんなそうやって褒めてくれるんですよ~」
何かおいら達いい感じなんじゃない?これをきっかけに、もっと仲良くなりた…
「《あ、ゆずたんだ!》」
後ろから聞こえた声に振り返ると、たまに見かける柴犬のコロが駆け寄ってきた。
「《ゆずたん!今日も可愛いね!》」
「《そうかな?ありがとう!コロ君もカッコいいよ!》」
「《あ、ゆずたん!この間言ってたお花、二丁目の市民センターの入り口に咲いてるの見つけたよ!》」
「《わぁ、ホント⁉探してくれたの?ゆず、嬉しい!》」
「《あ、ゆずたん!》」
「《ゆずたん!》」
「《ゆずたーん!》」
次々に現れるご近所の犬達。コテツにロイド、そら。みんな彼女に声をかけては、デレデレした顔で集まってくる。ゆず…でいいのかな?彼女も可愛らしくみんなに笑顔で応えている。何、この光景。
「《とむじゃない!珍しいわね、平日にお散歩なんて》」
「《ゆずたんだー!》」
困惑しているおいらに声をかけるモカと、他のオスと同じように彼女を見るなり笑顔全開のラテ。
「《ラテ、彼女の事知ってるの?》」
「《もちろんだよ!可愛いもんね!》」
「《この辺りのオスはみんなゆずにメロメロよ。あの子、彼氏がいるのに誰にでも思わせぶりな態度取るんだもの》」
大はしゃぎのラテの代わりに、モカが口を尖らせて教えてくれる。
「《え、彼氏?》」
「《ええ。ほら、四丁目のマイク。知ってるでしょ?》」
そう言われて思い浮かんだのは、ご近所でも有名なイケメン犬。えええ、そうだったの?じゃあ、おいらに向けてくれた笑顔にも特別な意味はなかったって事?
一生懸命彼女の気を引こうとアピールするオス達の姿が数分前の自分に重なって、おいらはとてつもない脱力感にうなだれた。
けなみが素敵な小悪魔系。