をかしなりけり
「じゃあ、私はこれで」
「ありがとうございました、先生」
ぼんやりした意識の向こうで、ご主人様の声が聞こえる。さっきまでおいらの体をあちこち触ったりしていたのは誰だったんだろう。最近はずっと眠くて仕方ないや。おいらも年を取ったって事かな。
「パパ、ぼくとむにご飯あげる」
「ん、とむは今あんまりお腹が空いてないからお水にポカリを混ぜたやつを作ろうな」
翔と課長がそう言っておいらから離れていく気配がする。そういえば、ご飯って食べたっけ?もう長いこと食べてない気もするし、昨日いっぱい食べた気もする。お芋のおやつをたらふく食べた夢は幸せだったなぁ。
「とん、さうくない?ゆめのおふとんかけてあげゆ?」
「夢は優しいね。大丈夫だよ。ちゃんととむの毛布があるから」
舌っ足らずなこの声は夢だな。最近何でもご主人様のマネをしたがるんだよなぁ。女の子って男の子より成長早いって言うけど、ホントにご主人様の子供とは思えないくらいおませさんだ。ちゃっかりしてるとこなんか、ママにそっくりだもんな。
夢が生まれた時は、ママはもちろんパパが大喜びだったなぁ。翔の時より遊びに来る回数が多くて、よく翔が拗ねて泣いてたっけ。甘え上手で、パパが自分にメロメロなのをいい事にいつもお菓子を買ってもらってるもんな。いや、あのおねだりの仕方はおいらを見て覚えたのかもしれない。
たくさんの夢を叶えられるようになりますようにっていう願いを込めてご主人様が名付けた通り、もう将来は課長と結婚するんだとか言い出すからご主人様は「パパはダメ!ママのパパなんだよ!」って対抗していた。二歳やそこらの子供相手に大人げないにも程があるよと呆れていたら、課長が思いの外照れていてこの夫婦はどんどんバカップルになるなぁって思った。
「とむ、お水だよ」
「とん、いっぱいのんでね」
翔がお水の入ったお皿を持ってきて、夢がおいらの頭をポンポン叩く。夢はまだ小さいから、おいらの名前がちゃんと言えない。最初に「とん」って呼ばれた時は何の事かわからなくて、無視されたと思った夢がわんわん泣いた事もあった。でも、ごめんねってほっぺを舐めたらふにゃって笑って機嫌を直してくれたんだよね。翔も夢も、笑った顔がご主人様そっくりだから嬉しいな。
少し甘い匂いが混じったお水がおいらの目の前にあるみたいだけど、今は別にいいかな。後で飲みたくなったら飲むよ。また眠くなってきたから、ちょっとお昼寝しよう。そう思って、おいらは静かに目を閉じた。
*
不思議な場所だった。周りは霧みたいにもわもわしててよく見えない。でも、なぜかおいらは迷わず前を向いてトコトコ歩いていく。すると、大きなシャボン玉みたいなものがいくつも見えてきた。おいらはその内の一つに近づいてみる。
シャボン玉はおいらが舐めても弾けない。代わりに、シャボン玉の中から懐かしい人が浮かび上がってきた。
─よし、お前の名前はとむだ。ハイカラでいいだろ
最初においらを飼ってくれたおじいさんだ。これは初めておじいさんの家に来た時の記憶だな。ハイカラな名前だとか言いながら、"トム"じゃなくて"とむ"なのがおじいさんらしくて、でもすごく気に入ったんだよな。
他のシャボン玉にも近づいてみると、おじいさんとの色んな思い出が浮かんでくる。お手を覚えて頭を撫でてもらった事、縁側で干し芋を食べた事、一緒に河川敷の芝生に寝っ転がった事。たくさん、たくさん嬉しくて楽しい思い出達が蘇ってくる。
だんだん周りの景色が見えなくなっていく。あ、目が覚めるのかもしれない。おじいさんがもわもわの向こうに消えていくと同時に、おいらは体がフッと軽くなるのを感じた。
「…」
「とむ?起きた?」
ご主人様の声がする。尻尾を振ったつもりだけど、ちゃんと振れたかな。
何だかすごく寂しい気持ちが込み上げてきて、おいらは前足を動かした。
「クゥー、ン」
「大丈夫だよ~。ちゃんといるからね。大丈夫大丈夫」
あぁ、懐かしいな。ご主人様はおいらが寂しい時、いつもこうやって側にいてくれたっけ。
─私がこの子貰います!なので、餌とかおもちゃとか一式今すぐ持ってきてください!あと、名前教えて!
寒くて怖くて仕方なかったおいらを拾ってくれたご主人様。いつも側にいてくれたご主人様。
─私、頑張るからね。とむのために頑張るからね
おいらを守ろうとして、慣れないお仕事に一生懸命だったご主人様。
─ギャー!寝坊した!
─ああ!おかず焦げてる!
家でも会社でも、色んな事をやらかすのが得意なご主人様。
─っあああ!ビールに枝豆って最強コンボ!
ぐうたらで面倒くさがりで、ちょっとオヤジくさいご主人様。
─とむ、大好きだよ!
そう言って頬ずりをするくせに、なかなかおやつはくれなかったよね。ああ、でもいつだったか福引きをしたいがために片っ端からおやつやおもちゃを買ってくれた事があったな。あの時は本当に恥ずかしかった。だけど、節約の末にクリスマスプレゼントに豪華なチキンとケーキを貰った時は嬉しかったなぁ。
─こら!観念しなさい!
お風呂に入れてくれる時は、お尻を洗おうとするご主人様と激しいバトルをくり広げた。結局いつもおいらの負けだったけど、あれはおいらがわざと負けてやったんだ。本気でやれば、おいらが勝ってたんだからな。
─この間、課長が褒めてくれたんです!あの笑顔見たら、もう失敗しても怖くないですよ!
─いや、ミスする前提かい
先輩やクリスティーナとお泊まり会をする時は、部屋中お酒の匂いでいっぱいでおいらまで酔っ払いそうだった。おいらにはよくわからない恋バナで盛り上がってたなぁ。
─来るなら一言言っといてよ!
─言ったら抜き打ちの意味ないでしょ?
時々ご主人様の暮らしぶりをチェックするために、ママや師匠が突然来る事もあった。ご主人様は嫌がってたけど、おいらはいっぱい遊んでもらったり内緒でおやつを貰えるからいつも大歓迎だった。
─見て見て。今日のおリボンはね、ママとお揃いのショネルの新作なのよ
─やあ、とむ君。元気してるかな?
お散歩に行っては、大金の奥さんやマロンの自慢話に付き合わされたり、パトロール中のすーさんに特製おやつを貰ったり、色んな事があった。
─はい。とむ君お気に入りのスイートポテトよ
みっちゃんさんのカフェで食べるおやつはどれも絶品で大好きだったけど、初めてオシャレトリミングをしてもらった時は衝撃を受けたな。でもあれは、おいらの可愛さが罪だったんだな。
─初めまして。和生怜音、君のご主人様の上司だよ。よろしくな
噂通り爽やかでイケメンな課長と会った時は、ご主人様を取られたくなくてライバル心を持ってたっけ。だけど、ご主人様をいじめた元上司をけちょんけちょんにしてくれた事には感謝してるんだ。
「とむ、大丈夫?苦しくない?」
ご主人様のあったかい手が、頭を撫でてくれる。大丈夫、苦しくなんてないよ。
十七年か。なかなか長生きしたんじゃないかな。
ご主人様。おいらね、ご主人様に拾ってもらえて良かった。ドジでマヌケで、でも一生懸命で笑顔が素敵なご主人様に出会えて、ご主人様が幸せになる姿を見る事ができて良かった。
おいらがご主人様の事を大好きな気持ち、ちゃんと伝わってたかな?伝わってるよね。だって、おいら宇宙一可愛いもん。本音を言うと、翔と夢にもおいらの可愛さをもっと知ってほしかったけど、きっとご主人様がブレブレのおいらの写真を見せながら「とむ可愛いでしょ~」って自慢してくれるから心配ないよね。
ああ、ご主人様に撫でてもらったからまた眠くなってきちゃった。ウトウトしてると、たくさん楽しかった思い出が頭の中に広がる。それを見て思うんだ。
うん、おいら幸せだった。幸せだったよ。
「とむ…?」
ありがとう、ご主人様。
ありがとう─────
をかしなりけり、我が人生。




