わちゃわちゃドタバタ
「あー、あー」
「わー!翔、それ触っちゃダメ…熱っつ!ギャー、ミルク零れた!」
「あー」
「あああああ、ちょっと待ってね!すぐ行くからね!」
騒がしいな。おちおちお昼寝もできやしない。あくびをして伸びをしてからリビングに行くと、そこには惨状が広がっていた。
キッチンの床には哺乳瓶が落ちていて、辺り一面ミルクだらけ。いい匂いだけど、おいらは飲まない。あれは翔のミルクだからだ。リビングにあるソファやカーペットには洗濯物が山のように積み上がっている。翔の側にもたたまれていた洗濯物が崩れ落ちている。さっきのご主人様の言葉から察するに、翔が崩しちゃったんだろう。
おいらが来た事に気づいたご主人様は、雑巾を手にしながら救いの神が来たような顔をした。
「とむ!ごめん、ちょっと翔の事見ててくれる?」
「わふっ」
仕方ないなぁ。報酬はお芋のおやつで手を打とうじゃないか。おいらは翔の側に行って、おすわりをする。
目の前にいるこの赤ちゃんが、ご主人様の愛息子の翔だ。翔って名前は、ご主人様が考えた。どこまでも自由にのびのびと羽ばたいてほしいっていう願いが込められている。ご主人様にしては、いい名前をつけたと思っている。
さて、どう相手してやろうかな。
「キャン!」
「あー、あー」
一声鳴くと、翔も手を伸ばしてくる。翔はあんまり人見知りをしない。好奇心も旺盛で、気になったものはとにかく触ってみるのがモットーみたいだ。まだ寝返りができない頃に、顔の近くでお昼寝をしていたおいらの尻尾を思いっきり握られた事があった。子供って力の加減ってものを知らないよね。尻尾が取れちゃうかと思ったよ。おいらの方がしばらく翔に近づけなかったよ。
うつ伏せで顔だけを上げている翔は、おいらを見てニコッて笑った。翔はどっちかって言うと課長似だ。将来は絶対爽やかイケメンになるっていうご主人様の期待をこの小さな背中に背負ってる。でも、こんな風に笑った時の目元はご主人様そっくりだ。チャレンジ精神に溢れているのも、多分ご主人様のDNAから来ていると思う。
おいらはケガをさせないように優しく翔の手を引っ掻く。
「キャッキャ!」
くすぐったかったのか、翔がパシパシ手でカーペットを叩いてはしゃぐ。翔はまだはいはいができない。つまり、ここから動く事はない。だからおいらがここで見ていたら、ご主人様は安心して家事ができ…
「痛ったぁ⁉何でこんなとこにおもちゃ落ちてんの⁉わー、早く次の洗濯機回さなきゃ!あああ、もうこんな時間⁉翔のミルク早くあげなきゃ!何からやればいいかわかんないよぉ!」
そう、そんなわけないよね。知ってた。だってご主人様だよ?普通のママでもパニックになるらしいのに、ご主人様が手際よく家事をこなせるわけなかった。一人暮らしの時とはわけが違うもんね。
あたふたしてるご主人様を見守っていたら、外から知ってる足音が聞こえてきた。
「キャン!」
おいらは真っすぐに玄関に向かう。鍵が開く音がして、課長が帰ってきた。
「キャンキャン!」
「ただいま、とむ。今日も出迎えありがとな」
「キャン!」
「わかったわかった。いつもながら、結婚当初とは真逆の対応だな」
全力で甘えにかかるおいらに、課長は苦笑いで頭を撫でる。そりゃそうだよ。あの頃はおいらも若かったから、ご主人様を奪った課長にライバル意識バシバシだったもんね。でも、今は違う。課長はご主人様と違ってしっかりしてる上に、おいらがちゃんといい子にしてたらおやつをくれるんだ。ご主人様のダメっぷりを分かち合えるし、今ではライバルどころか戦友って感じだ。
「怜音さん、おかえりなさい!」
「ただいま。翔は?」
「今ミルクあげようと用意してたんですけど、ひっくり返しちゃって。洗濯物も溜まってるし片付けも終わってないし、もう何から手をつけていいか…痛ぁ!何するんですか⁉」
半泣きで現状を報告するご主人様に、課長がデコピンをする。
「落ち着け。とりあえず、床は俺が片付けるからお前は翔にミルクをあげてやれ。その後は二人で洗濯物をたたもう。夕飯は?」
「ごめんなさい。できてないです」
「わかった。じゃあ俺が何か適当に作るから、風呂掃除頼んでもいいか?」
「わかりました」
さすが課長。家でも指示をする姿が様になっている。お仕事をしてきて疲れてる筈なのに、「昼間翔の面倒を見てくれてるのは美奈海だからな」って言って家事や翔の世話を自分からやってくれる。よくテレビで家事育児のワンオペについて世のママ達が不満を赤裸々に語っているけど、ウチは全然そんな事はない。ご主人様も、やる事を言ってもらえたお陰でちょっと冷静になれたみたいだ。
それから、ご主人様と課長は二人で片付けをしてご飯とお風呂を済ませた。協力し合う夫婦というよりは上司と部下のお仕事風景って感じだったけど、実際二人はそういう関係だからまあ間違ってはいないよね。おいらはそんな二人の姿を見ながら、もぐもぐとご飯を食べていた。ちゃんと翔の事を見てたご褒美も貰ったよ。おいらにとってはいいアルバイトだった。
*
次の日の朝。課長がご主人様と翔が寝てる部屋にそっと入ってきた。もちろん気づいたおいらは、課長に近づいておはようって尻尾を振る。課長は静かに笑っておいらの頭を撫でる。
「ん…怜音さん?」
「悪い、起こしたか?」
「いえ…もう朝なんですね」
目をこすりながら起き上がろうとするご主人様を大丈夫だって言って止める。
「さっきやっと翔が落ち着いたんだろ?寝てていいよ」
「すみません。うるさかったですよね」
「いや、こっちこそ気を遣ってもらって悪いな」
翔はまだ赤ちゃんだから、夜とか関係なく泣きたい時に泣く。ご主人様は課長のためにわざわざ別の部屋で一晩中翔の面倒を見ている。ロクに眠れなくて大変そうだ。
「朝飯、簡単なものだけど置いてあるから食べろよ。疲れてたら家事はほっといていいから、少しでも休め」
「でも…」
課長の負担が増える事に申し訳なさを感じているんだろう。ショボンと眉毛を下げるご主人様に課長がポンポンと頭を撫でる。
「二人の家の事なんだから二人でやるのは当たり前だ。翔だって、お前だけの子供じゃないだろ。俺は俺、お前はお前でやれる範囲の事をやればいいんだよ」
イケメンだ。顔がっていうか、中身がイケメンだ。世のママ達はこういうのを求めてるんだろうな。おいらでも惚れちゃうよ。
ご主人様は、せめてお見送りしたいって言って玄関までついていく。おいらも後をついていく。
「じゃあ行ってくる。ホントに無理はするなよ」
「大丈夫です。怜音さんもお仕事頑張ってくださいね」
「ん」
課長が家を出る姿をおいらとご主人様で見送る。
「ふぅ」
「クゥーン」
「あ、ごめんごめん。ご飯あげるね」
そう言ってリビングに戻るけど、課長はご主人様の分だけじゃなくておいらのご飯も用意してくれていた。
「もう、イケメンすぎて辛い…」
課長に感謝するのはいいけど、おいらのお皿に向かって手を合わせるのはやめてくれないかな。
「あー、うー、うえええええん!」
「ああ、起きちゃった」
翔の泣き声が聞こえてきて慌てて部屋に戻っていくご主人様。一人暮らしの時も忙しなかったけど、今は今で騒々しい毎日だ。
確実に転んだであろう音と声がしたのを聞きながら、おいらは一人窓から見えるお日様に向かってあくびをした。
わちゃわちゃドタバタ、新たな日常。




