らくちん?ワクチン、
思えば、お休みなのにご主人様が朝から起きていた時点で気づくべきだったんだ。
「とむ~?ほらほら、こっちおいで?」
「ううううう」
おやつをチラつかせてキャリーケースまで誘導しようとするご主人様。いつもならタックルするような勢いで食いつくところだけど、おいらは知ってるんだ。あれは絶望への入り口、恐怖の始まりを意味する生贄だって事を。おいらは大好きなご主人様に向かって、体を低くして唸り続ける。
「ほ~らほらほら、大好きなお芋だよ~?いらないのかなぁ?食べちゃおっかなあ~?」
そう言って口を大きく開けて挑発してくる。でもその手には乗らないぞ。犬用おやつなんてご主人様が食べるわけないんだから。
「仕方ないなぁ。これはあんまり気が乗らないんだけど」
ため息をついて立ち上がったご主人様は、屈伸したり腕を伸ばしたりして体をほぐす。あ、やばいかもしれない。
準備万端整ったご主人様は獲物を見るような目でこっちを見ると、バッとおいらに飛びかかった。
「キャンキャン!」
「待て、こら!観念しなさい!」
決して広くはない部屋の中を走って逃げまくるおいら。よく見ると、ローテーブルは折りたたまれて壁に寄りかからせているし、おいら愛用のクッションもベッドの上にどけられている。くっ、これじゃおいらの小さい体を隠してくれる場所がないじゃないか。ご主人様のくせに用意が周到過ぎるよ。
あっちこっち飛び回ってご主人様の手から逃れようとするけど、体格の差があり過ぎた。ついに体を抱きかかえられて、キャリーケースに押し込まれる。
「キャンキャン!キャン!」
「ほら、踏ん張ってないで入りなさい!」
せめてもの抵抗でキャリーケースの枠の部分に足をかけるけど、無駄な労力だった。扉が閉まる残酷な音が、おいらの耳に響く。
「ふぅ、とりあえず第一関門突破だね」
ああ、ダメだ。もう逃げられない。甘えた声を出してみても、ご主人様は聞こえない振りでキャリーを抱えて家を出る。
マンションの前には、ご主人様の呼んだタクシーが待っている筈だ。今のおいらにとっては、パトカーだと言ってもいいかもしれない。うなだれながら小さい視界を眺めていると、ご主人様はマンションを出てそのまま道を歩き出す。あれ?タクシーは?
ご主人様はお散歩コースを少しだけ歩いて、途中から道を少し逸れる。この先って…
「課長!おはようございます!」
「ああ、じゃあ行こうか」
くそっ、またあんたか。青いシャツにデニム姿の課長が、駐車場に止めた車のドアを開ける。
「課長の言う通り、テーブルとかをどけておくとスムーズに捕まえられました!」
「小型犬は隠れる場所が多いからな。アドバイスが功を奏したなら良かったよ」
あれは課長の入れ知恵だったのか。余計な事をしてくれたな。
エンジンがかかる音に紛れて、おいらは思いっきり鼻を鳴らした。
*
「とむく~ん、どうぞ」
「あ、呼ばれた。行くよとむ」
看護師さんの呼び出しに、ご主人様がキャリーを持ち上げる。
「《怖いよ~、痛いのやだよ~》」
「《帰りたいよ~》」
「《誰か助けて~!》」
ここは動物病院。待合室はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図だ。消毒液の匂いが立ち込めていて、色んな犬や猫が助けを求めて鳴いている。いや、泣いている。
「俺はここで待ってるよ。あんまり部外者がいても邪魔になるだけだからな」
「わかりました」
課長に手を振って見送られて、おいらは診察室に運ばれる。
「はい、矢尾さん。今日は狂犬病のワクチン接種で間違いないですかな?」
「はい、お願いします」
ご主人様と話してるのが、この病院のお医者さん。もうとっくに定年ってやつを過ぎてそうなおじいさん先生だ。ご主人様に拾われてから、ずっとこの人がおいらを診てくれている。一見淡々としてるけど、ご主人様の疑問や不安に丁寧に答えてくれる優しい人だ。
先生が言った通り、今日はおいらが病気にならないようにするためのお薬を注射する日だ。狂犬病って言って、かかったらおいらはもちろん、もしもご主人様にうつったら二人とも死んじゃう怖い病気。おいらだって病気になるのは嫌だけどさ、何も針を使う事ないと思うんだ。医療の発展がすごいんだから、飲むだけで予防できるお薬を誰か一人くらい作ってくれたっていいじゃないか。
「じゃあまず体重を測りますので、とむ君をキャリーから出してください」
「はい」
先生に言われて、ご主人様が扉を開ける。おいらは少しでも奥にいようと縮こまっている。
「とむく~ん。大丈夫だよ。怖くないからね」
ご主人様の代わりに、看護師さんが中を覗き込む。まだ若くて美人だけど、先生と同じくとても優秀な人だ。出会う場所さえ間違えなければ、もっと違う関係になれたのにといつも思う。
抵抗空しくキャリーから引きずり出されて、診察台に乗せられる。看護師さんの慣れた手つきで体重を測られて、いよいよその時が訪れた。
「それじゃ、打ちますよ」
死刑宣告のような言葉においらは震える。何とか見逃してもらえないかな。一回くらい打たなくたって、おいらいつも健康診断の結果もいいし大丈夫だよ?
先生に全力で媚びるつもりで、おいらはゴロンとお腹を見せる。ぎこちないけど笑顔も作って先生を見上げる。ほらほら、可愛いでしょ?今日のところはこれで勘弁してほしいな。ね?お願いだから。
「はい、起き上がろうね」
先生はおいらのおねだりに眉毛一つ動かさなかった。苦笑いの看護師さんが、おいらを抱き上げて立たせる。おいらの可愛さに微動だにしないなんて、この人達に心ってもんはないのか。ご主人様でさえ、こういう時は容赦なく先生達に協力する。
「矢尾さん、とむ君を押さえてあげてくださいね」
「はい!」
ムカつくくらいいいお返事だよ。しっかりと体を押さえられて動けないよ。
「クゥーン」
「とむ君、おやつ食べる?」
看護師さんが、クッキーを小さく砕いて差し出してくれる。恐怖でいっぱいなのに、おやつの事なんか考えられないよ。でもせっかくだから、ありがたく頂いておくよ。
先生が首の辺りをもぞもぞ触ってるのを感じながら、おいらは恐怖を必死にごまかそうと一心不乱におやつを食べ続ける。こんな時に限っておやつがいっぱい貰えるなんて、世の中は一体どうなってるんだ。普通におやつの味を楽しめる時にこれだけの量を食べられたらいいのに。
「はい、終わりましたよ」
先生の言葉に思わずもぐもぐしていた口が止まる。え、今刺した?ホントに?触ってただけじゃないの?
キョトンとしているおいらを見て、看護師さんがクスクス笑う。
「よく頑張ったね。気づかなかったでしょ?」
「クゥーン」
気づかなかった。そういえば、いつも注射する時は怖くて仕方ないけどいつの間にか打たれてて拍子抜けするんだっけ。先生の早業に驚くのも毎年の事だ。終わってから思い出すんだけど、だったら最初から覚えててほしいよおいらの脳みそ。
「えらいね~、とむ。いい子だったね~」
ご主人様に頭を撫でられて、怖がってた自分が何だか恥ずかしい。ふ、ふん。別に最初からそんなに怖くなかったもんね。注射なんて余裕余裕、おやつを食べてたら終わるんだから楽しょ…
「キャン⁉」
突然首が痛くなって、悲鳴を上げる。痛い痛い、何これ何だっけ。
「ありゃりゃ、沁みちゃったかな?」
看護師さんが大丈夫だよ~って言ってくれて、おいらは思い出した。そうだ、注射の怖いところはこれだった。打った瞬間はわからないのに、時間差で攻めてくるんだ。
笑顔で見送られながら病院を後にしたおいらは思った。ああ、きっと来年もこうして痛みを感じるまで記憶が蘇る事はないんだろうな。
らくちん?ワクチン、首ジンジン。




