ひっぱってあげるよ
「ハァ…」
「キャン!」
「あ、ごめん、とむ!」
心ここにあらずのご主人様が手に持っているのは、爪切りバサミ。だいぶ伸びてきたおいらの爪を切ってくれてるんだけど…
「ハァァ…」
怖い。超怖い。想像してみてほしい。凶器を持った人間が、自分の体をしっかり抱えたまま気もそぞろで自分の体の一部を切ろうとしている。そもそも、集中していても失敗して血が滲むなんて事もあるのに、そんなボケーッとした顔でこんな繊細な作業しないでほしい。いくら伸びてるからってさ。おいら死んじゃう。
ご主人様は、お風呂やブラッシングはもちろんこういう爪切りや耳掃除なんかもお医者さんやトリマーさんを頼らずに自分でやってくれる。おいらとしてはプロにお願いする方が確実だし安心なんだけど、ご主人様は自分でできるお世話はなるべく自分でしたい派だ。面倒くさがりのくせに、変なところは責任感が強いんだよなぁ。そりゃ、その気持ちはありがたいよ?ありがたいけどさ。ご主人様は、たまに自分の能力を過信してる気がするんだ。
初めて爪を切った時は、やり過ぎて血がピューッて出た。すごく痛かった。おいらが騒いだのと爪から血が出るっていう人間では馴染みのない事態にパニックになったご主人様は、何を思ったか救急車を呼ぼうとした。オペレーターの人がとても優秀で、半泣きで電話してきたご主人様を宥めて人間の病院じゃなく近くの動物病院を調べて案内してくれた。
そこの先生が爪切りのコツを教えてくれて、ご主人様も熱心にメモを取っていたけど、頭で理解したからっていきなり実践できる人間はそういない。しかもご主人様がやるんだよ?敵意があって、わざと傷つけようとしているわけじゃないのが伝わってくるからおいらも何とか耐えられているけど、未だに爪を切る瞬間は手がプルプル震えていておいらは気が気じゃない。
だから、爪切りを持っている間ぐらいは全集中してほしいんだ。何の柱にもならなくていいからさ。落ち着いて深呼吸だけしてほしい。だけど、今のご主人様は何をするにもボーッとしている。
無理もない。今日は三月の十八日金曜日。十四日だった月曜日、ご主人様は一ヶ月前と同じくらいドキドキしながら出勤していった。三月十四日、そうホワイトデーだ。無事にチョコを渡す事ができたらしいあのバレンタインの夜は、もう誰が見ても夢見心地で今とは別の意味で使い物にならなかった。告白をしたわけじゃないけど、チョコを受け取ってもらえたっていう事実がご主人様にとって大きな意味があった…んだけど。
「ハァ…」
これで何千回目のため息だろう。ホワイトデーだった月曜日に帰ってきた時から、ご主人様はずっとため息ばっかりついている。ちょいちょい呟いてた言葉から話を整理すると、まず課長からお返しがなかったらしい。というか、月曜日は出張でそもそも会社にいなかったらしい。その事をすっかり忘れていたご主人様は、シュンとした顔で帰ってきた。でも、お仕事なんだから仕方ないよねと言って自分を納得させていた。
問題はその後だ。出張から帰ってきた火曜日、課長はお土産と一緒にチョコをくれた社員にお返しを渡していたそうだ。みんなでどうぞっていう義理の二文字の塊みたいなチョコを配った人にも律儀にお返しをしていたのに、どういうわけかご主人様にだけ何もなかった。お土産のお菓子は貰ったけど、他の人が貰ったようなチョコのお返しはもらえなかった。ご主人様はその事にいたくショックを受けた。
─そんなに口に合わなかったのかな。それとも、トラブルメーカーの分際でチョコなんか渡してんじゃねぇっていう無言の返事?
去年までは普通にお返しを貰っていたのも大きかったみたいだ。個人的に渡した途端のこれだから、余計にダメージがあったんだろう。とにかく、今週のご主人様はずっと元気がなかった。
おいらとしても、ご主人様が落ち込んだままでいるのは忍びない。色んな意味で心配している。とりあえず、おいらの命の保証ができるくらいには回復してほしい、切実に。
この際、少しくらいなら血が出てもいいから早く終わらせてほしいと願いながら体中カチンコチンに固まっていると、何とか爪切りは無事に終了した。血を流さず終わる、これが無血開城か。
やれやれと凝り固まった体を伸ばしてストレッチをする。気のせいか、体のあちこちからパキポキっていう音が聞こえた。緊張から解放されたせいで、一気に眠気が込み上げる。ちょっとお昼寝しようと特等席のクッションへ向かおうとしたおいらの体をご主人様がヒョイと抱き上げる。
「よし…次はブラッシングしてあげるね」
助けて神様。
「───気持ちいい、とむ?」
「クゥーン」
丁寧に頭から足の先までブラシで梳いてくれる。爪切りとは違って血が出るような作業じゃないだけマシだけど、これだって一歩間違えたらハゲるんじゃないだろうかってくらいの勢いで毛をむしられるから気は抜けない。
でも今のところはいい感じだ。ご主人様の膝の上で丸くなりながらウトウトするのって最高に気持ちいいよね。このまま真っすぐ夢の世界に飛んでいけたらもう天国…
「ハァァ…」
「…」
仕方ないな。
「ん?どうしたの、とむ?」
突然体を起こしたおいらをご主人様が首を傾げて見つめる。おいらは前足をご主人様の肩に乗っけて、ペロペロとほっぺを舐めまくった。
「うお、ちょ、とむ、くすぐったい、ストップストップ」
ご主人様の制止を無視して、おいらはひたすらほっぺを舐め続ける。最初は戸惑ってたご主人様の顔も、だんだん笑顔になっていった。
「アハハハハ、わかったわかった、元気出せって言ってくれてるの?ありがとね。わかった、わかったから」
またウジウジされたら困るから、もう徹底的に笑顔全開にしてやるぞ。やる気になったおいらは舐めるのをやめない。ご主人様は笑いながら後ろに倒れ込んだ。
「あだぁ⁉」
ゴンッという音と一緒に、ご主人様の声が部屋に響く。両手で頭を押さえて悶絶するご主人様を見て、ちょっとやり過ぎたかもしれないと反省する。
「~~~っ、やったな~!」
ご主人様の目がキランと光って、今度はおいらが羽交い絞めにされる。
「うりゃ~!こちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょ!」
「キャン!キャン!」
お腹を中心にわしゃわしゃされて、おいらは体をクネクネよじる。
「か~わいいなぁ~!とむは世界一可愛いねぇ!」
そう言うご主人様の顔は、とろけそうなくらいデレデレだ。
当たり前でしょ?何なら宇宙一可愛いよ。そんなおいらが一緒にいるんだから、ご主人様は幸せ者だよ?もっともーっと可愛がってくれてもいいんだよ?
「あああ、可愛い!ちょっと犬吸いさせて!」
ギューッて抱きしめられて、頭にご主人様の顔が押しつけられる。スーッていう音がした後になぜか沈黙が続いて、おいらは首を傾げる。
「クゥーン?」
「…とむ。お風呂入ろっか」
そのままおいらはお風呂場に連行されて、隅から隅まできれいに洗われた。そんなに臭かったのかな。ちょっとショックだ。
お風呂から出た後は、またきれいにブラッシングされて耳掃除までやられた。スッキリはしたけど、微妙な気持ちになった。
でも、ご主人様が元気になったからまあいっかって思う事にした。
ひっぱってあげるよ、沈んだ気持ちなんて全部ね。




