ねんねんころり
「キャン!」
「うう、ん…」
先輩がお泊まりに来てから二日経った日の事。いつものように寝坊しそうなご主人様を起こしたおいらは、いつもと違う様子のご主人様に首を傾げた。眠そうな声とは違う、どっちかっていうと苦しそうなうめき声。
「クゥーン?」
「うん、起きなきゃね…」
ゆっくりと体を起こしたご主人様。やっぱり様子が変だ。顔が赤くて体が熱い。それに、声が掠れている。
ボーッとした顔を手で覆っていたご主人様は、小さな声でやばいと呟いた。
「風邪ひいた…」
体温計を探し出して熱を測ると、三十八度を超えていた。
「───はい、はい、すみません…はい、それは先方の回答待ちなんで今日中じゃなくても大丈夫です。契約書の件は、事務の永田さんにチェックをお願いしてるのでそれで問題なければ発送できます。はい、ありがとうございます。すみません、ご迷惑おかけします。失礼します」
通話を終えた途端、ご主人様は崩れ落ちるようにしてうなだれた。
「うう…頭痛い…喉痛い…風邪薬あったっけ…?」
そう言いながら這うようにしてテレビの横の棚を漁ると、市販薬の風邪薬を見つけたみたいでヨロヨロとキッチンへ向かう。何とかお水で薬を飲んでから、こっちに戻ってきた。
「あ、そうだ…」
何かを思い出したように向かった先は、おいらのご飯が入っている箱。ご主人様はお皿にご飯を入れると、おいらを呼んだ。
「おいで、とむ」
「わふっ」
走り寄ると、頭をよしよししてお皿を目の前に置いてくれた。
「ごめんね。今日は普通にあげるからね」
それだけ言うと、ご主人様はベッドに入って眠りについた。
*
どれくらい時間が経ったんだろう。ご飯を食べてうたた寝をしていたおいらは、ご主人様の声で目が覚めた。
「うぅ…すみません…ごめんなさい…次はちゃんと頑張ります…」
ベッドに上ると、ご主人様は眉間にシワを寄せて寝言で誰かに謝っていた。よく見ると、うっすら涙が流れている。
ご主人様のこの姿を見ていると、まだおいらを拾ってくれたばかりの頃を思い出す。長い転職活動の末にやっと内定を貰えたご主人様は、次こそ頑張るぞって意気込んでいた。というのも、最初に入った会社ではなかなか仕事を覚えられないご主人様をバカにしていつもイライラのはけ口にする上司がいたらしい。いわゆるパワハラを受け続けたご主人様は、心の病気になって辞めざるを得なくなったそうだ。
お医者さんや周りの人達からは休んだ方がいいって言われていたのに、悪いのは出来が悪い自分なんだって自分を責めて無理やり働こうと転職先を探していた。だから今の会社に採用してもらえた時は、今度は絶対一人前になるんだってずっと言っていた。
正直なところ、おいらを引き取る余裕だって本当はなかったんだ。でも、ご主人様はおいらを大事に大事にしてくれた。動物を飼った事がなかったから、一生懸命色んな事を調べておいらが元気で安心できるようにたくさんたくさんできる事を探してくれた。今思えば、守るものがある事でいつ切れてもおかしくない糸をギリギリ保っていたんだと思う。
今の会社で働き始めた頃も、やっぱり物覚えが悪くてみんなに迷惑をかけては泣きながら帰ってきていた。他の人ができる事をどうして自分はできないんだろう、どうしてみんなの当たり前が自分にとっては当たり前じゃないんだろうっていっぱいいっぱい泣いていた。本当はすごく明るくて笑顔が素敵なのに、この頃のご主人様を思い出して浮かぶのはいつも辛そうに泣く姿だった。
ご主人様は必死に頑張ってた。契約を取るために人一倍商品の勉強をしたり、営業部の先輩や課長から教えてもらったコツを実践したり、お得意先の担当の人がどうしたら満足してくれるか考えたり、少しでも他の人と同じお仕事がこなせるようにできる事は全部やっていた。それでも前の会社の上司に言われた事がずっと頭から離れなくて、自分は迷惑をかける事しかできないダメ人間なんだっていつも言っていた。自分に自信が持てないから、余計におどおどしちゃってミスをくり返してはまた自分を責めていた。
おいらはそんなご主人様を見るのが辛かった。一人ぼっちになりそうだったおいらを助けてくれたご主人様だから、おいらもご主人様を助けてあげたかった。無理に作った笑顔なんかより、心から笑ってほしかった。泣きながら帰ってきたご主人様のほっぺを舐めては大丈夫だよ、おいらがいるよって伝えて、緊張で顔が真っ青な中出勤しようとしているご主人様に尻尾を振って頑張れって応援して送り出した。
─もう、疲れちゃったな…
ある日、ご主人様はお散歩の途中でそう呟くと、いつもの道を逸れて踏切に向かった。踏切の前に静かに立ったご主人様は、ぼんやりした目で踏切が下りていくのを見つめていた。上手く言えないけど、おいらはこの時とても怖かった。最初においらを飼ってくれたおじいさんが遠くに行ってしまったみたいに、ご主人様もどこかに消えてしまうような気がした。
電車が走ってくる音が随分大きく聞こえた。一歩前へ踏み出そうとするご主人様に向かって、おいらは思いっきり吠えた。
─いかないで!
人間の言葉を話せない筈なのに、この時だけおいらはそう叫ぶ事ができた気がした。ピタッと足を止めておいらを見たご主人様は、くしゃくしゃの顔で泣いておいらを抱きしめた。おいらはご主人様をいじめた元の上司が許せなかった。こんなに優しくてあったかい人なのに、自信を奪って自分を責めて責めて会社を辞めてからもここまで追い詰められなきゃならないほど傷つけたそいつだけは、何があっても許すつもりはなかった。
ご主人様は本当に頑張った。上手にできなくても、みんなに迷惑がかかっても、一生懸命頑張り続ける姿は、課長を始めたくさんの人に認めてもらえた。ちょっとずつ、でも確実に成長していくにつれて、ご主人様はだんだん本来のご主人様に戻っていった。笑う事が増えた。辛そうな涙は見なくなった。やっぱりやらかす事はいっぱいあって、ぐうたらでどうしようもないところもあるけど、今のご主人様の方がずっと輝いて見えた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
うなされているご主人様のほっぺを舐める。大丈夫だよ、ご主人様。おいらがいるよ。泣かないで。
おいらには人間がするような看病はできないけど、こうやって側にいる事はできる。今度はおいらがご主人様を助けてあげる番だ。
「うぅ、ん…とむ…」
「クゥーン」
ここにいるよってご主人様の顔の側で丸くなると、ご主人様の眉間のシワがちょっとだけ和らいだ。おいらがいて安心してくれてるのかなって思ったら、嬉しくなった。
そのままおいら達は、二人仲良く夢の中に落ちていった。
*
「やばいやばい、遅刻する!」
焦った様子のご主人様を見つめる。あれから一晩経って、ご主人様は元気いっぱいに戻った。そして、早速寝坊した。
バタバタと部屋の中を走り回る姿を見て、半分呆れながらも安心する。ご主人様は夢を見ていた事を覚えていないみたいだった。おいらが側にいてあげたお陰だね。
「とむ、おいで!ご飯あげる!」
「キャン!」
急いでご飯を用意してくれたご主人様は、いつもより速いテンポでおいらに芸をさせるとはい!とお皿を置いてくれた。
「よし!じゃあ、行ってくるね!」
慌てて靴を履いて部屋を出ていくご主人様を見送りながら、おいらは今日も頑張れって尻尾を振った。
ねんねんころり、元気な君が好き。




