いつも通りの朝
窓から差し込むお日様の光で目が覚める。大きなあくびを一つして体を思いっきり伸ばすと、すごくスッキリした気分になる。
今日はとてもいいお天気だ。こんな日は優雅にお散歩でもしたくなるけど、生憎それは叶いそうにない。
それよりも、今おいらには大事な使命がある。隣を見ると、ご主人様がスヤスヤ気持ち良さそうに寝ている。おいらはそんなご主人様を起こさないように慎重にベッドの下へ下りる…わけではなく。自慢の肉球を使って力いっぱいご主人様の顔を踏みつけた。
「むぐっ、とむー?痛い痛い、爪刺さってる」
寝ぼけ眼のくぐもった声が聞こえてくるけど、おいらは足をどけない。容赦なくご主人様の顔の上で足踏みをする。
「いだだだ、ちょ、ちょっとタンマ!マジで痛い!そろそろ爪切らなきゃだね⁉だいぶ伸びたね⁉」
悲鳴を上げておいらの体を持ち上げると、ご主人様はガバッと起き上がった。おはようの意味を込めてほっぺをペロッと舐めると、ご主人様の顔がふにゃっとした笑顔に変わる。
「もう、ホントに甘えん坊だなぁ。朝から元気いっぱいだね。朝から…朝……」
「…」
「……………寝坊したぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼」
マンション中に響き渡るくらいの絶叫を上げながら転げ落ちるようにベッドから出ていくご主人様をよそに、おいらはねぼすけのご主人様を起こすという大事な使命をやり遂げた達成感に浸るのだった。
*
「やばいやばい、遅刻する!朝ご飯…は途中のコンビニで買おう!それよりも化粧!今日外回りあるから手ぇ抜けないよぉぉ!」
バタバタと部屋の中をあっちこっち走り回るご主人様。バサッとご主人様の脱ぎ捨てたパジャマがおいらに被さる。起こしてあげたのにひどい仕打ちだ。もぞもぞと外へ抜けて窓の側に避難する。こういう時のご主人様は色んな事をやらかすから、あんまり近づかない方がいいっていうのをおいらは嫌になるほど知っている。
尻尾を踏まれるのは日常茶飯事、ごみ箱を蹴飛ばして中身を全部被せられたり、お気に入りのおもちゃをコーヒーまみれにされた時はしばらく抱っこを拒否してやったものだ。
そんなご主人様は今、猛スピードで化粧をしている。化粧品の匂いはあんまり好きじゃない。人間の女はあんな物を顔に塗りたくって鼻が曲がらないんだろうか。最近じゃ、男も化粧をするようになったらしい。それを女々しいとか軟弱だとかテレビで言っていたタレントは、「こういう奴がいるからハラスメントがなくならないんだよね」「発言が昭和すぎて草生えた」などなどめちゃくちゃ叩かれまくったそうだ。何かを言うだけで草が生えるなんて地球にとってはむしろいい事なんじゃないかと思ったけど、人間の感覚ってやっぱりよくわからない。
「急げ急げ!このペースならギリ間に合う!」
そう言いながら、まつ毛を謎の黒いブラシで梳かしているご主人様。どうして人間は目の化粧をする時に変顔をするんだろうという、初めて見た時から思っていた疑問は未だに解決していない。
手をプルプルさせながら化粧をしていたご主人様だけど、突然体まで震え始めた。
「ふ、ふぇ…ふぇっくしょい!」
勢いよく出たくしゃみ。春になったばかりのこの季節は、花粉がいっぱい飛んでいるからしょうがない。かくいうおいらも花粉症に悩まされている。
でも、このくしゃみがピンチだったご主人様をさらなるピンチに追い込んだ。
「ぎゃああ!目が!目がぁ!」
悶絶するご主人様の目元は、くしゃみをした拍子に手元が狂ってあの謎のブラシの黒いものでべっとり汚れていた。
「嘘でしょ⁉よりによってこんな時間ない時に⁉あああああ、ティッシュだけじゃ落ちない!メイク落とし!ここだけ全部やり直しだよぉぉぉ!」
悲しみに満ちた声が、部屋に空しく響く。何とかしてあげたい気持ちはあるけど、この状況でおいらにできる事は何もない。嘘じゃない。何とかしてあげたいとは思ってる。
半泣きで化粧をやり直すご主人様から目線をテレビに移すと、ちょうど今日のお天気について気象予報士っていう人間が話していた。
《───と、このように午前中は気持ちいい春日和ですが、夕方頃から前線が北上し夜にかけて激しい雨が降るでしょう。今日は傘を持ってお出かけください》
どうやら、このポカポカしたお天気は長く続かないらしい。雨が降ると、毛並みに元気がなくなるんだよなぁ。
外はまだ晴れているのに、天気予報のせいで気がつくとおいらは体をペロペロ舐めていた。
*
「やばいやばい、あと三分!化粧オッケー、スーツもよし!髪は会社着いたらちょっと直そう!とにかく遅刻だけは絶対回避!」
鏡を見て身だしなみをチェックしたご主人様は、カバンを持って玄関に向かう。それを見たおいらは、慌てて駆け寄る。
「キャンキャン!」
「ああ!そうだ、ごめんとむ!」
Uターンしてきたご主人様は、テレビの横の箱からおいらのご飯を取り出す。お皿に入れると、はい!とおいらの目の前に置いた。
「ふふーん、今日は特別だから芸をしなくてもあげちゃうからね!」
さも優しいご主人様を装っているけど、要するに芸をさせる時間がないだけなんだよなぁ。そんなにドヤ顔で胸を張られても、むしろ遅刻しないように起こしてあげたおいらを労っておやつぐらいくれてもいいと思うんだ。
おいらの心の声をよそに、ご主人様はまた玄関に走っていく。歩きにくそうなヒールのある靴を履いて立ち上がったのを見て、おいらはまた駆け寄った。
「キャン!キャン!」
「え、何とむ?悪いけどもう出ないとホントに遅刻しちゃう!」
そんな事はわかっている。でも、これは伝えておかないと困るのはご主人様の方だ。
「クゥーン」
「え?傘?」
玄関の隅にある傘立てを前足で引っ掻いて、ご主人様に一生懸命知らせる。バタバタと忙しくしていたご主人様は、天気予報を見ていない。このまま見送ったら、帰る頃にはびしょ濡れになっちゃう。
「これ?傘を持っていけって言ってるの?」
「キャン!」
「うわあああ、やばい!何この子、天才じゃない⁉テレビとか出れるんじゃない⁉私も一緒に有名人になっちゃうんじゃない⁉」
その場に蹲って悶えているけど、いいのかなぁ。
「キャン!」
「ギャー!こんな時間!ダッシュしなきゃ、電車に間に合わない!」
絶叫を上げながら、部屋を出ていったご主人様。途端にシンと静かになった。毎日の事だけど、この瞬間は何年経ってもちょっと寂しい。
気を取り直して朝ご飯を食べようとくるりと後ろを向いた時だった。
ガチャガチャと鍵が開く音がする。何だ、泥棒⁉警戒態勢で玄関を睨んでいると、バンッとドアが開いた。
「忘れてた!とむ!」
ひょっこりと顔を出したのは、慌てて出ていった筈のご主人様。キョトンとしていると、ご主人様はくしゃっと笑って言った。
「いってきます!傘、ありがとね!」
それだけ言うと、また慌ただしく出ていった。遅刻の危機だっていうのに、そんな事をわざわざ言うために戻ってきたのか。全力で駅まで走るご主人様の姿が目に浮かぶ。ご主人様の事だ。あんな高いヒールで走るんだから、きっと途中で転ぶに違いない。
しょうがないなぁと思いながらも、おいらの心はさっきより軽くなっていた。
いつも通りの朝、バタバタ時々ウキウキ。