しっとりゆっくり
それはある日のお散歩中の事だった。
「ゲッ、降ってきた」
さっきまでいいお天気だったのに、湿った匂いがしたかと思えばいきなりどしゃ降りの雨に襲われて、ご主人様は慌てておいらを抱っこして近くのおうちの屋根の下に避難する。ご主人様の気まぐれでいつもより少しだけ遠くまで足を延ばしたのが仇になった。
最近はこんな風に天気が急変する事が多い。これがゲリラ豪雨ってやつか。地球温暖化の影響は深刻だ。やっぱり草が生える発言をする人間は必要なんじゃないかな。
「うわー、これ止むかなー?」
どんどん強くなっていく雨に、ご主人様が不安そうに呟く。早く帰りたいご主人様には悪いけど、抱っこをしてもらえておいらはちょっとラッキーだなんて思ってる。抱っこ大好き。抱っこ最高。甘えたいっていう願望に年齢は関係ないよね。
そんな正反対のおいら達が雨やどりをさせてもらっている建物は、シャッターが固く閉まっている。駐車場なのかな?だとしたら、こんな大きな駐車場があるなんて結構持ってるんだろうなぁ。
ちょっと下世話な事を考えていると、突然シャッターがガラガラと音を立てて開いた。
「え?」
「あら?」
中から出てきたのは、小柄な女の人。おいら達を見て、目をパチクリさせている。
「あ、す、すいません。勝手に雨やどりさせてもらってます」
「あらあら、大変。そのままだと風邪をひくんじゃない?良かったら中へどうぞ」
「あ、いや、お構いなく…」
中に招いてくれようとする女の人にご主人様がここで大丈夫だと言おうした瞬間、グウウウウという盛大なお腹の音がその場に響いた。
「あ、いや、今のは、その…」
「…フッ」
真っ赤になったご主人様があたふたするのを見て、女の人は顔を背けて肩を震わせる。それを見たご主人様の顔がさらに赤くなる。おいらまで恥ずかしいじゃないか。ご主人様らしいと言えばらしいけど、よりによって初対面の人の前で何してくれてるんだ。
「フフフッ、ごめんなさいね」
「い、いえ、こちらこそ」
「笑っちゃったお詫びに温かい飲み物でもご馳走するわ。あなたもワンちゃんも、体を冷やすと大変よ」
遠慮しないでどうぞと言われて、おいら達はお言葉に甘える事にした。
*
「散らかっててごめんなさいね」
「い、いえ、全然!」
中は結構広くて、テーブルがたくさん置いてあった。テーブルの上には逆さまになった椅子もあるし、ソファもある。ところどころハシゴやロープが落ちている。
カウンターに案内されたご主人様は、おいらを抱っこしたままキョロキョロしながら恐る恐る席に着く。
「お店、ですか?」
「そう、ドッグカフェなの。来月オープンする予定なんだけど、まだ内装の工事が終わってなくて」
「へぇ、そうなんですね!」
シャッターがあったから駐車場だと思っていたけど、お店だったのか。ドッグカフェって、犬も一緒に入れる所だよね。前に大金の奥さんにご馳走になったカフェもテラス席はペット同伴ができたけど、ここは全部の席がそうらしい。
「とりあえずタオルをどうぞ。すぐに飲み物を入れるわね。カフェオレは飲めるかしら?」
「あ、はい、大丈夫です!すみません!」
差し出されたタオルを受け取ったご主人様は、おいらにタオルを被せるともう一枚の方で軽く自分の顔や髪の毛を拭いていく。タオルからは清潔で上品な香りがする。あの女の人のイメージにピッタリな匂いだ。
カチャカチャと音がしていたかと思うと、コーヒーの匂いがお店の中に漂い始めた。ご主人様が家で飲んでるインスタントより深みがある香りだ。
ご主人様に体を拭いてもらいながら香りを楽しんでいると、女の人がカウンターの向こうから小さいお皿に乗ったカップを置いた。
「どうぞ。お口に合うといいんだけど」
「あ、ありがとうございます」
「ワンちゃんにはこっちをどうぞ」
そう言って出されたのは、白い液体。匂いを嗅ぐと、何となく覚えのある感じがする。
「ミルクですか?」
「ええ。でも牛乳じゃなくて、ヤギのミルクね。少しだけ温めてあるから、身体があったかくなるわよ」
そうだ、ミルクだ。おいら達犬は、お腹を壊しちゃうから牛乳を飲む事はできない。でもヤギのミルクは、ママの母乳に似ているから飲めるそうだ。甘い香りが食欲をそそる。
試しにペロッと舐めてみると、何だか懐かしい気持ちになった。優しい味に安心する。おふくろの味ってこういう事を言うのか。
隣では、ご主人様が両手でカップを持ってカフェオレを一口飲んでいる。ほう、と自然と漏れた息は体があったまった事を教えてくれていた。
「美味しいです。何かホッとしました」
「良かった。もし良かったら、こっちもどうぞ」
出てきたのは、お皿に乗ったサンドイッチ。カリカリに焼けたベーコンとレタスとトマトが入ったやつと、分厚い卵焼きのやつ。そしておいらには…
「うわぁ、すごい。これ、スイートポテトですか?」
「ワンちゃん用メニューのおやつなの。サツマイモ大丈夫かしら」
「キャンキャン!」
むしろ大好物です。思いがけないおやつの登場に、めちゃくちゃテンションが上がる。ご主人様といただきますをして、貪るように食べる。何これ何これ、止まらないよ。魔性の味だ。
「美味しい!でも良かったんですか?こんなご馳走になっちゃって…あ、お金払います!」
慌てて財布を出そうとするご主人様を女の人が笑いながら止める。
「いいのよ。こっちが出したくて出したんだから。本音を言うと、お店のメニューにする予定の味の感想が聞きたかっただけなの。気にしないで食べて。お腹も空いてる事だしね」
「うっ…す、すみません…」
また顔を赤くして縮こまるご主人様を見て、女の人はクスクス笑う。
「お散歩中だったって事は、この近くに住んでるの?」
「あ、はい。お姉さんはこの町の人なんですか?」
「やだ、お姉さんなんて。そんな年じゃないわよ、成人した息子がいるもの」
「成じ…えぇっ⁉」
驚くご主人様に、またクスクス笑う。
「え、え、嘘⁉どう見ても三十代、え、成人、え、若い…!」
「あら嬉しい、ありがとう。ずっと主婦をやってたんだけど、子育てが一段落したから何か新しい事がしてみたくて。ワンちゃん好き仲間でちょっとしたご縁があって、こうしてドッグカフェを開く事にしたの」
「そうだったんですか」
いきさつを聞いてる間もポカンと口が開いたままのご主人様。おいらもビックリだ。お肌ツヤツヤだし、こう言っちゃ何だけど匂いから察するに化粧だって外回りがない時のご主人様くらいしかしてないよ?美魔女って本当に存在したんだな。
「でも、ホントにいいんですか?雨やどりまでさせてもらってるのに…」
「気にしないで。そんなに言うなら、オープンしたらぜひご近所のワンちゃん仲間とランチにでも来てくれたら嬉しいわ」
「わ、わかりました!えっと…」
約束をしたご主人様は、どこか歯切れが悪い。何かを迷ってるみたいなその様子を見て、女の人はああとニッコリ笑った。
「ママ友やワンちゃん好き仲間からはみっちゃんって呼ばれてるから、そう呼んでもらっていいわ。あなたのお名前は?」
「あ、矢尾美奈海です!こっちはとむ!」
「美奈海ちゃんととむ君ね。どうぞよろしく」
その後も、みっちゃんさんとご主人様は雨が止むまでおしゃべりをした。みっちゃんさんの落ち着いた声が心地良くて、おいらはウトウトしながら楽しそうな声を聞いていた。
しっとりゆっくり流れる時間。




