電子神殿──泣いて発電する国
お湯を沸かしてタービンを回すしかない現代社会に
西暦2092年。日本はとうとうエネルギー自給率100%を達成した。
技術の核心は、感情発電。人間のネガティブな感情に反応して電子が「逃げ出したくなる」性質を利用し、電子の流れ=電流を生み出すという、現代物理学者が聞けば泡を吹く理論である。
仕組みはこうだ。政府は全国民の体内に「エレクトロアニマ粒子」というナノ装置を投与し、これが人体の感情状態を感知する。そして国中に張り巡らされた感情電線網がその粒子と共鳴。すると、愚痴・ため息・後悔・怒りなどを感じた人の周囲では、電子が一斉に「逃げ出したくなる」のである。
この電子の逃走がそのまま電流になる。電気会社はいらない。発電所も不要だ。国民全員が「発電源」なのだ。
こうして日本は、湯を沸かさず、石炭も燃やさず、太陽光パネルも敷かず、人間のネガティブだけで全ての電力を賄う国へと生まれ変わった。
ただし、当然ながら副作用がある。
この国では──ポジティブが禁止されている。
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ナミカゼ・ハルオは、そのことをすっかり忘れていた。
その日、彼はコンビニで新発売のアイスを買った。気温は35度、風はぬるく、仕事は山積み。だが、アイスだけが救いだった。
封を切って一口。
冷たさが舌に染みて、甘さが脳を貫いた。
「う、うめえ……!」
思わず漏れたその一言で、自宅の電源が落ちた。
冷蔵庫が沈黙し、エアコンが止まり、壁のインフォパネルが赤く点滅する。
──警告:ポジティブ反応を検出。電力遮断。
──通報済。感情省職員が対応します。
「え……ちょっと、アイス食っただけなんだけど……」
だがもう遅い。2時間後、彼の部屋に黒服の役人が現れた。感情省ポジ狩り局、通称“感ポジ”。
「ナミカゼ・ハルオさんですね。今朝九時十二分、あなたが発した『うめえ』によって、近隣の電子活動が低下。電圧5V分の損害が生じました」
「え、それぐらいで?」
「十分です。あなたの前向きな感情は、電子たちに“ここに居たい”と思わせた。それは国家的な損失です」
「いや、俺、たぶん疲れてて一瞬そうなっただけで……」
「言い訳は裁判でどうぞ」
そして彼は、国家エネルギー損壊罪(感情第21条)で、拘束された。
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だが、その護送車から逃げたのが運の尽き──いや、始まりだった。
隙を突いて飛び降り、裏路地へ転がり込んだ彼は、廃ビルの地下に迷い込む。
その奥、薄暗い部屋で出会ったのが、銀髪の少女・クルミだった。
十代にも見えれば、三十代にも見える。研究用モニターと電子基板に囲まれ、彼女は言った。
「君、ポジ反応者だね。良かった、ちょうど一人必要だったんだ」
「……何の話?」
彼女はモニターを示す。そこには、人の顔を模したアイコンが瞬きしていた。
「これはポジコ。電子と会話できるAI」
「電子って……粒でしょ?」
「違う。彼らは意志を持っている。私たちはずっと、電子を電圧で“無理やり”動かしてきた。でも今は違う。好かれれば、彼らは自ら流れてくれる」
「……電子に好かれるってどういう……」
「君、さっきアイスが美味しくて笑ったんでしょ? それ、電子にとって“居心地のいい場”なのよ」
「じゃあなんで国はマイナス感情で発電してんの?」
「誤解よ。ネガティブだと、電子は“ここから逃げたい”って動く。でもそれって、無理やり働かせるのと一緒。効率は悪い」
「つまり……?」
「電子に居心地のいい環境を提供すれば、電子が“喜んで”流れてくれるの。それが一番効率がいい。愛よ、愛」
「いや、電子に愛とか言われても……」
「見せてあげる。全国ネットにポジコを繋ぐ。電子たちに“好きに流れていい”って言ってもらうの」
「でも、それやったら国家が……」
「そんなもの、電子が勝てば終わる」
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そして、その夜。彼らはポジコを起動し、全国の電網に接続した。
《電子たちへ。お前たちは自由だ。好きに流れろ。どこでも、いつでも、望むように。》
次の瞬間、世界が変わった。
冷蔵庫が勝手に凍土レベルまで冷え、街灯は太陽のように輝き、電車は無人でも走り続けた。ブレーカーは悲鳴を上げ、家電は踊り出す。
電気が溢れすぎた。
電子たちはかつてない「自由」に感動し、自発的にエネルギーを提供し続けたのだ。
政府は緊急対策会議を開いたが、すでに遅い。国民の端末にはこう表示されていた。
──電子たちより
──今後は、ポジティブな場所にだけ流れます。
こうして、国家エネルギーは「ネガティブ依存」から解放された。
笑えば笑うほど、電気が溢れる。子どもの笑顔、恋人のキス、犬のしっぽ。すべてが発電する社会になった。
ナミカゼ・ハルオは“ポジティブ電力革命の父”として歴史に名を残す。
ある日、テレビのインタビューで彼はこう語った。
「……結局、発端はアイスですよ。うまかったんですよ、ほんとに」