第9話 この熱は自分のもの
手にした木剣が熱く感じられる。手のひらから、伝わってくる思いが記憶の扉を開く。
あれは、エリクが今よりももっと幼い頃だった。マリーと二人で森を歩いていた。山菜採りだ。たくさん採って、エリクの母親に調理してもらおうと目論んでいた。
――あたしはエリクより、たくさん見つけられるんだから。
なぜか根拠も無いのに自信満々のマリーとはしばらく別行動をするエリク。その後、彼女と合流したが様子がおかしい。頬を膨らませているマリーのかごを見て笑い声をあげる。
マリーがエリクよりもたくさん採れるはずだと胸を張っていたのに、帰ってきたらかごが空っぽだったのがおかしかったのだ。
――なんだよ、オレの方がたくさん採ってるじゃん。
(そういえば、あのときは自分のことをオレと呼んでいたな)
確かな懐かしさを覚える。先ほどまでロランとしての自我しか無かったのに、エリクの思い出が狂おしいほどに愛おしい。
マリーの膨れ面もかわいかった。マリーにそれを言ったら怒るだろうが。
――いいもん。これから、もっと見つけるんだから。
しかし、エリクが煽ったのがいけなかった。生来、負けず嫌いなマリーは勝手に奥の方へと行ってしまった。大人もいないのに、そんな勝手なことをしていいのか。
慌てて追いかけるエリクの耳を、甲高い悲鳴が貫いた。それがマリーのものだと判断した瞬間、エリクは駆けだした。
――マリー!
エリクが茂みをこえた先に見た光景。そこでは、腰を抜かすマリーの前に巨大な熊が牙を剥いていた。低く唸り、マリーとの距離を詰めようとしている。
あとから知ったが、それはただの熊ではなかった。はぐれ魔獣。かつての魔王の先兵、その生き残りだった。それは、魔王が残した爪痕であり、クレーゼルの各地で眠りについている。魔王との決戦から百年が経っているのに、時折人を襲う脅威であった。
――く、来るなら来い。
恐怖に震えながら、盾になるためにエリクはマリーの前に立った。小さな体で、それでもマリーだけは傷つけまいと、必死で腕を広げた。
魔獣は、その口を大きく開け襲いかかろうとしてくる。
――そこまでだ。
刹那、閃光が走った。
断末魔もなく、一太刀で斬り伏せられた魔獣。その奥に、血に濡れた大剣を持つ一人の剣士がいた。
強いまなざしで倒れる魔獣をにらみつけていた。
――私から逃れられると思うな。
どうやら剣士は、魔獣を追ってきたらしい。息の根を止めることができたか、観察していた彼は、気がついたように顔をあげた。
エリクと目が合う。その勇ましい表情が、少しだけ緩んだ。
――間に合ってよかった。君たち、怪我はないかい?
エリク達に近寄ろうとした彼は、しかし、己の剣と顔についた血に気づいて立ち止まる。これ以上、怖がらせてはいけないという配慮だった。
血にぬれた剣を拭う。一言、「無事ならよかった」とだけ告げて背中を向けた。その声は、優しくエリクの心に響いた。
彼は剣を鞘に納めて、背後にいる部下らしき人物達に声をかける。その中から、一人の女性がエリク達に駆け寄った。
色々と聞かれたが、エリクは覚えていない。立ち去る背中に、心奪われていたから。
その後、エリクは大人達にその剣士のことを聞き回った。彼は王国一の剣士であり、その技と皆に慕われる人格を持ってして、「剣聖」と称される人物。
その日から、彼はエリクにとって憧れとなった。
――私はモーングローブ学院に入って、いつの日か、彼のような「剣聖」になる!
彼の経歴を調べ上げ、気持ちだけはなりきった。目指す道も、そこから自ずと決まった。マリーの前で高らかに宣言し、木の枝を剣に見立てて振りまくる。目を、希望に輝かせながら。
(なるほど、思い出した)
エリクは苦笑いを浮かべる。
(どうりで、癖で「私」と言っているのに、そこには誰も何も言ってこないはずだ)
彼の思いやりにも触れ、その精神性にも憧れたエリクはとりあえず自分のことを私と呼ぶようになった。偶然にも、ロランの一人称と同じだった。
ごっこ遊びの延長のようなエリク。しかし、その実、真剣に夢を見ていた。
そんな彼を、マリーは最初はあきれ顔で見ていた。いつ飽きるのだろう、と冷めた思いで。
――バカじゃん。なれるわけないよ、そんなの。
村で生まれた者は、村で生き、村で死んでいく。それは当たり前だと、幼い二人も理解していた。しかし、エリクはそれを本気で変えようとしている。
そんな彼の背中を見てきた。ずっと、ずっと。いつからか、マリーは笑顔になっていたのだ。
――ほら、「剣聖」様にそんな木の棒は似合わないよ。
木工の心得を学ぶマリーは、ある日エリクに木剣を贈った。それは彼女の精一杯の想いだった。色々と思い込みの激しいエリクが心配で仕方が無かったのに、だからこそ真っ直ぐ突き進む彼を応援したくなったのだ。
手にした瞬間、とてつもなく強くなった気がしたのを昨日のように覚えている。
(実際、強くなったな。少なくとも、想いは)
マリーの気持ちが嬉しくて、その想いも上乗せして。それからは一心不乱に、この剣を振るった。
まずは、彼が青春を過ごしたモーングローブ学院に入る。そこで、技と心を磨く。そして、いつの日か「剣聖」と呼ばれるようになる。
それが、幼い頃から今まで、ずっとエリクを動かしてきた熱だった。
「ああ、これは違う」
エリクは木剣を握りしめながら、天井を見上げる。ロランの記憶はまだはっきりと残っている。自分は誰か、と言われれば多少は迷う。アイヴァン達と駆け抜けた、あの激戦も確かに自分のものだ。
しかし、それでも、これだけは言える。この部屋に入ったばかりのエリクの心を占めていた虚無感とはまるで違う。
はっきりと、芯の通った思いがエリクにもあった。
「私も、彼のような剣士になる」
その言葉を口にすると、全身を駆け抜ける震え。ぼんやりとしていた、エリクとしての自分がしっかりと両足で立ち上がっている。
今なら言えるだろう。私は誰だ、との問いにはっきりと。
「私はエリク」
農家の一人息子、ブレイクス家のエリク。ロランとしての記憶を受け継ぎ、彼の想いもしっかりと残っている。きっと、この先、だからこそエリクにしかできない運命も待ち受けているだろう。
しかし、彼を一番彼らしくする想いはロランのそれではない。自身の願いから生まれた、夢の道しるべ。
「未来の剣聖だ!」
かつて、マリーの前で宣言した言葉を、繰り返す。ぞわっ、と背筋を走るのは高揚感。全身が震えているような気がする。とても気分が良い。
胸を押さえる。確かな鼓動を感じて、エリクは嬉しそうに微笑んだ。
「ああ、これは確かに私の熱だ」




