第8話 記録と記憶
けっして広くは無い部屋を、さらに狭くしている存在があった。
(本棚か)
机の横に鎮座する立派な本棚。木の肌は磨かれている。艶も出ていて、丁寧な手作りのそれだ。マリーの家といい、この村にはいい職人がいるのだなとエリクは思う。
本には埃一つ積もっていない。表面には使用感があるものの、大切に扱ってきたことが分かる。
エリクはなぜか感心した。ロランがこの体の年齢だったとき、字など読めなかった。飾りでは無く、本が知識の宝庫として活用されていることに驚きを覚えていたのだ。
本の題名をぼんやりと眺める。サラランヌ大陸史、クレーゼル地誌、どちらも聞き覚えがある固有名詞だ。ロランが生まれ育った地と同じ名である。
モーングローブ学院を志す者へ。これは知らない。初めて聞く名だ。確かにモーングローブという名は聞き覚えがあるが、それは森の名だった。しかも、ロランが生きていた頃に魔王が放った火によって、ほぼ消失した森である。学院とは何なのだろう。
(む?)
エリクの目が、その一冊に止まった。手に取ってみる。使用感はあるものの、綺麗に保たれていた。きっと、大切に扱われたものなのだろう。
しっかりと革が張られたそれは、指にしっとりとなじんだ。特有の香りが鼻に届く。
表紙にはこう書かれている。『英雄の凱歌~勇者アイヴァンに捧ぐ~』、と。
「アイヴァン」
口にした瞬間、なじんだ響きに驚く。何度、この名を呼んだだろうか。ロランの最期のときまで、彼を呼んでいたように思う。
エリクは早くなる鼓動を感じながら、本を開いた。
そこに書かれていたのは勇者アイヴァンと、その仲間達による魔王討伐の記録だ。吟遊詩人の口伝によって受け継がれたそれを、本の形に残したものである。
その仲間の中にロランに関する記述もあった。読んでいると、鮮明な映像が頭に浮かんでくる。アイヴァンとの出会い、他の仲間との協力、そして、魔王の討伐。
その最後を、ロランは知らない。魔王を無事討伐したのか。討伐したからこそ、この本が残されているのだろうが。
先が気になり、はやる気持ちを抑えながら読み進める。しかし、そのところどころでページをめくる指が止まってしまう。
(アイヴァンは言う。『私には使命がある』。娘は嘆くも、その思いをくみ取って、手を振った)
今、読んでいるのはとある村での魔獣討伐の記録だ。そして、その終わりに村を救ったアイヴァンを気に入った領主が娘を嫁がせようとし、それをアイヴァンが固持する場面である。
こんなに格好のいい場面だったろうか。エリクは首を傾げる。
(確か、あの時は娘に『あなたと一緒になれなければ死にます!』とか首元にナイフを突きつけながら脅されて。私が、その刃を奪ったんだったな)
アイヴァンは顔を真っ青にしながら、うろたえていたことを思い出す。純朴すぎて、女性に弱すぎる。他の仲間にも、それを心配されていた。
ロラン本人に関する記述でも引っかかった。本には拳聖ロランは恐れを知らず、どんな困難な局面でも拳で勇者の道を切り開いた、とある。エリクは口端を歪めた。
「恐れを知らない? そんなわけがない」
ロランは常に恐れていた。自分の拳が届かずに負けること、そして、そのせいで罪無き者が命を奪われてしまうことを。
だからこそ、どれだけ難しい局面でも、アイヴァン達より前に出ただけだ。老い先短い老兵が先に死ぬべきだ、と。そう思っただけ。
記録と、記憶の間に生まれる齟齬。
その違いが、エリクに確信を与える。
もしかしたら、自分がロランと思い込んでいるだけかもしれないという疑念があった。しかし、これで理解した。自分の中にある記憶は偽物ではない。この本から、作られたものではない。
ロランとして生きた記憶は、自分だけが持っている本物だ。だから、違いが気になるのだ。
本を閉じ、大きく息を吐く。
「さて、これからどうするか」
おそらく、生まれ変わりというものなのだろう。夢物語としてなら、聞いてことがある。
自分が何のために、とは思うが、それを誰も答えてはくれない。自分ができるのは、これからどうするか、ということだけだ。
未練があるなら、それに生きるのもいい。しかし、ロランは満足して命を散らした。アイヴァンが示した、ロランとしての人生の終着点。そこに、確かにたどり着いた。その先を直接見たかった、という思いはあるが、それは今は叶わない。
「なにせ、百年経っている」
勇者アイヴァンが魔王を倒したのは百年ほど前。先ほどの本にそう書かれていた。アイヴァン達にどのような未来があったのか、それは気になる。
だからといって、歴史の本を見ても、それはただの記録だ。満足できるものではない。
『家族が欲しい』、と願ったこともある。しかし、それはすでに叶っている。なにせ、エリクは愛されている。両親の目を見ても、この部屋のどこを見ても、そう感じる。ここまで幸福な者も少ないだろう。これ以上望むのは、さすがに罰当たりだ。
今日、野盗を相手にしてみて思った。拳は思ったよりも振れる。しかし、それが何だと言うのだろう。拳を振るうたびに、過去の自分の影がちらつく。そこに届いていない自分に苛立つと同時に、届かせようという気力もわかない。
ロランは生前から拳聖と称された。格闘家としては、最高峰へと到達できたと自負できる。ロランとして技を磨く日々は、語弊を恐れずに言えば、楽しかった。徐々に磨かれていく自身を誇りに思った。同じ道を進んでも、何も面白くない。拳そんな人生に、熱は無い。
だったら、今日までのエリクに人生を返せればいいが、そうはうまくいかないだろう。
「ん?」
ふと、何かに呼ばれた気がした。それは、心の奥底から響いてくる声。音は無く、意味は無く。それでも、エリクに訴えかけてくる。
一体何なのか、周りを見渡す。ふと、ベッドに寝かされているそれに、目が奪われた。
「あれは……」
木剣だ。エリクが唯一、エリクとして持っている記憶。そこに映っていたマリーからの贈り物であるそれが、ベッドに寝かされていた。
もしかしたら、毎晩、一緒に寝ているのだろうか。エリクは吸い込まれるように、木剣に近づいていく。
それを手にした瞬間。
「あっ」
声が漏れた。エリクの目が大きく見開かれる。エリクの中を、とても熱い何かが駆け抜けていった。
「これは」
その熱を確かめようと、剣をとった。自分の手に、しっかりと馴染むそれを握ると、エリクの胸の鼓動がさらに高くなる。
エリクはゆっくりと目を閉じる。まぶたの裏に、鮮明によみがえってきたのはロランの記憶ではない。鍛錬に汗を流し、そんな自分をマリーが笑顔で見つめている。
それは確かに、今を生きるエリクの記憶であった。




