第7話 知らない背中
「この」
力任せに振り下ろされる斧。何の技量も感じない一撃、それをエリクは体をねじって避けた。頬の近くを凶刃が通過する。空気を裂く音が耳を打つ。その様子を、翠の瞳は瞬きすら一つせずに見送った。
同時にそっと左拳を男の腕の軌道上に置く。
「ごおっ!」
鈍い息が聞こえる。エリクはただそこに拳を固定させただけだ。動かしていない。男は自分の全体重をのせた一撃を止められた。それだけで、彼の手首が音を立てて壊れた。
骨が砕ける音が、空気を一瞬凍らせる。これでもう武器は握れない。悶絶して倒れ込む男に一瞥だけくれて、エリクは周囲を見渡した。
「な、なんだこいつ」
残った野党はすでに腰がひけている。無理もない。戦士なら、こうはならないだろうが、結局は人の道を諦めた者達である。
所詮、楽をするために外道に墜ちた連中だ。得体の知れない恐怖に向き合う覚悟はないのだろう。エリクの予想通りだった。
(そうだ。おまえたちが相手をするには面倒な相手だぞ、私は)
腰を落とす。迎え撃つために、エリクは構え直した。きっ、と力強くにらみつける。鋭い眼光が、突き刺さった。
「ひぃ」
情けない声を出して、残った者達はちりぢりに逃げ去った。昏倒する、元仲間を置いて。その様子を見て、戦闘のために凍り付いていたエリクの表情は、ふっと緩む。しかし、すぐに苦々しいものに変わった。
確かにいたずらに犠牲を増やすのは得策ではない。しかし、仲間を助けようと示唆する態度だけは示して欲しかった。
(こいつらも報われないな……いや、殺しちゃいないが)
足下で壊れた手を持って、未だにうなっている大男を見て、エリクは大きく嘆息した。
しばらくの沈黙。
「た、助かった」
静かになった広場に響いた安堵の声が引き金となった。
わぁっ、と歓声が広がる。そして、中央で立ち尽くしていたエリクの元に村人が殺到した。
「エリク、さっきのは何なんだ。いったい、いつ体術なんて覚えたんだ」
「すごいじゃない、坊や。いつも練習してるの見てたけど、そんなに強かったんだ」
「兄ちゃん、兄ちゃん、オレにも教えてくれよ。さっきの!」
知らない顔が、馴れ馴れしい笑顔と暖かさをまとって迫ってくる。エリクとしての記憶が無い彼にとっては、全員が初対面だ。遠慮の無い祝福に戸惑いながらも、かすかな熱を感じる。
(ここまで喜ばれたことは久しくなかったな)
ロランの記憶がよみがえる。
アイヴァン達と別行動をしていたとき、村を襲う魔獣の声を聞いて拳を振るったことがある。あのときは、間に合わなかった。食い荒らされた、血の臭いが漂う中でロランは魔獣を討伐した。
残った村人の、ロランに向ける目は様々だった。純粋に喜ぶものもいた。しかし、耐えられない悲しみから助けの遅れたロランを責める声もあった。そして、異質な力を持つロランに魔獣相手と同じ怯えを示す者も。
あの頃は、魔王相手に皆が疲弊していた。喜びや感謝も、明日無き世には無駄に思えたのだ。
きっと、魔王を討伐した後であれば、祝福はされたかもしれない。道半ばで散ったロランは、その先を知らない。だから、憶測でしかないのだが。
もみくちゃにされながら、周囲を見渡す。皆が笑顔だ。エリクに集まっている人はもちろん、遠くでこの騒ぎを見ているものも胸をなで下ろしている。
自分よりも幼い子どもが拳を振るうまねをしていた。先ほどのエリクの戦いに感化されたのか。
そんな様を、受け止めきれない気持ちがあった。
得体の知らない戦いを、村の子どもがしたのだ。程度の差はあれど、あの野盗共のように怯えるものがいても無理はない。
不思議に思っている者はいそうだ。それでも、嫌な視線ではない。どうしたんだろうか、という親愛のこもった目だ。
ああ、そうか。急に納得ができた。
(愛されているのだな、エリクは)
どこか、遠い出来事のように、彼は周囲の狂騒をしばらく眺めていた。
視界の隅に、明るい色のスカーフが揺れる。
「あっ」
ピントの合っていない視界が、急に定まった。
「エリク……」
マリーがこちらをじっと見ていた。エリクが贈った、彼女の宝物のスカーフ。それを、彼女はぎゅっと握っている。
視線が合ったことに気づいた彼女は、唇を噛んだ。さっと後ろを振り返って、駆け出してしまった。
そんな彼女を、未だに囲まれているエリクが追うことはできず、ただ伸ばした右手だけが空にとどまっていた。胸の痛みを残して。
(あんなの知らない)
マリーは出てくる涙を拭うこともせず走る。それを見た大人が声をかけようとしていたが、彼女はそのまま駆け抜けた。
(あんなエリク、あたしは知らないっ!)
野盗の襲撃。そのとき、懸けだしたエリクのあとを追うことしかできず、彼女が遅れて広場に着いたときには、怖い人たちの前にエリクは立っていた。
そのあとは、ただ見ているしか無かった。自分と同じ背丈の少年が、武装した男達をたたき伏せる様を。
歓喜に沸く村人達の中にいて、マリーの心はざわめいた。
(エリクじゃない、エリクじゃないっ。あんなの、エリクじゃないっ!)
マリーはただ、エリクが記憶を無くしただけだと思っていた。自分との思い出を無くしていたエリクを見て、マリーは悲しかった。それでも、きっと思い出してもらえると。そう、信じていた。
それなのに、もし、その前提が間違っていたとしたら。一度考えた仮定は、なかなか消えてくれない。マリーの中に真実のように、広がっていく。
今より、もっと幼い頃から一緒に過ごしてきた。彼が語った夢が、まるで自分のものかのように輝いて見えた。この調子では、大人になっても変わらないのだろう。そんなキラキラした目をした大切な幼なじみ。
彼女が好きなエリク・ブレイクスは、すでにこの世に存在しないのではないか。
「あっ」
つまずいた。勢いよく前に転ぶ。それをきっかけに、全てが決壊した。
「う、うわあ……」
そのまま、立ち上がることができず、それに気づいた人が近寄ってくるまで彼女は泣き続けていた。
「ふぅ」
父が来たことで、ようやく解放されたエリクは自宅まで帰っていた。彼の心の中には、あの騒ぎで見失ったマリーが占めている。
「泣いていた、な」
ずきり、と胸が痛む。
これはおそらくエリクの痛みだ。しかし、ロランの記憶がその痛みの理解を遮る。なぜ、彼女が泣いているのか、彼には見当もつかなかった。
「私は、いったい何なんだ」
ふわふらと、自室を歩き回る。見慣れない家具、小さめのベッド。他人の家としか思えない。
(裕福な農家だとは思ったが、子どもに一部屋与えてるのか)
本当に愛されているんだな、とやはり他人事のようにエリクの境遇を思うのであった。




