第10話 未来の剣聖
エリクが記憶を失い、野盗が村を襲った。そんな激動の日が過ぎ去って、翌朝。
鳥の声が上から降りてくる道を、マリーは一人で歩いていた。冷たい風が頬を撫でる。朝日が昇ったから大人達はすでに働き始めているが、子どもはまだ寝ていていい時間だ。
「なんで、あたし、今日も来てるんだろう」
ふと、足を止めて、マリーは首を傾げた。
昨日まで、この道を歩くのが楽しみだった。夢を追う、あの瞳を見るのが楽しかった。
しかし、今日はいないだろう。そんな予感がする。それなのに、マリーの足は希望にすがって、いつもの場所に向かおうとしている。
しかも、朝食を忘れて没頭する彼のための食事も持参して、だ。習慣のようになってしまったから、色々と考えながらも体が動いてしまっていた。
(これ、一人で食べきれるかな?)
ずっしりと重く感じられるかごを見て、マリーは大きく息を吐いた。
そんな時だ。
マリーの耳に、風を切る剣の音が聞こえたのは。
「えっ」
うつむいていたマリーは顔をあげた。その視界に、いつもの光景が映る。今日は見れないだろう、そう思っていた景色だった。
赤髪の少年が、剣を振るっている。同じ動作を、何度も、何度も繰り返して。
その様子をぼんやりと見ていると、彼は首を傾げて立ち止まった。
「こう、じゃないな」
傍らに置いた本を読むために、彼はしゃがみ込む。それを見て、止まっていたマリーの足は、ゆっくりと進み出した。
「意外と難しいもんだ」
エリクは本に書かれた記述通りに木剣を握り直してみた。ロランの戦いの知識から、体の使い方はいくつか応用できる。
ただ、基礎が足りない。剣を振ってみると、剣に振られてしまう。下半身の強化が必須かもしれない、とエリクは思った。
「崩すにしても、固めてからだな」
おそらく、ロランの記憶が蘇る前のエリクはただがむしゃらに剣を振るっていたのだろう。子どもの割に体が仕上がっているのは感心する。努力のたまものだ。野盗を討伐できたのも、未熟ではあるものの、ある程度の力を発揮できる体があったからだ。
しかし、そこまでだ。理想はいい指針だが、それだけでは前に進めない。拳闘も型を作ってから。剣術もそれは同じだろう。
――俺は、相棒と一心同体だからな。
かつて、魔王がいた時代、剣術の冴えを賞賛されたアイヴァンは、そうロランの前で自分を誇った。自分の剣を唯一無二の友として、ロランに自慢したこともある。
(相棒具合は、私も負けていないさ)
エリクはにやりと笑った。木剣を握りしめる。さぁ、もうひと踏ん張りだ。木剣から、そんな感情が伝わってくる気がする。
問題は、この剣との別れが来たときだな、とエリクは思う。明らかに子ども向けのそれは、長い付き合いには向かないだろう。
それでも、夢を追う手助けはしてくれる。使わなくなっても、使った記憶がなくなるわけではない。
「それに、どの剣を使っても動けるようにはならないとな」
エリクは本を閉じた。その本は、父がエリクのために買い与えた剣術の指南書だ。農家にとっては安くない本を、都帰りの父は何冊も背負って帰ってきた。特注の本棚も村の職人に依頼してこしらえてくれた。
愛されているな、とエリクは思う。父は、息子の戯言を、本気で応援してくれている。それが嬉しかった。
「それを活かすも殺すも、私次第」
エリクは立ち上がる。そして、大きく伸びをした。
「おや?」
そこで初めて、こちらを見て呆然としている明るい髪色の少女に気づいた。エリクが贈ったというスカーフを、今日も巻いている。
(剣をもらったことは思い出したのに、あれを贈ったことは忘れているんだよな。残念だ)
エリクは、申し訳なさを覚えながら、彼女に声をかけた。
「マリー、おはよう」
マリーは、びくっと体を震わせた。
「お、おはようございます」
なぜかマリーは敬語で返してきた。エリクは思わず吹き出した。
「な、何してるの?」
どことなく緊張した面持ちで、マリーは尋ねてきた。一瞬、どう答えようか迷った。マリーがここに来ることを体が覚えていたように、エリクも体が動いただけだ。
色々あって疲れが出たエリクは、早めに就寝した。そして、目が覚めたエリクを、「急いで向かわねば」と心が急かした。準備は自分の意思でしたが、何かに背中を押されていたような気がする。
そのうえで、何をしているか、と問われれば。
「いつもの日課、だな」
その言葉に、マリーのオレンジ色をした瞳が大きくなる。
「……思い出したの?」
エリクは空いた左手で、ほんの少し、というジェスチャーをした。実際、マリーと過ごした日々を全て思い出したわけではないから、期待させるのはよくないとの判断だった。
それでも、昨日のエリクとは違う。この場所をマリーが「いつもの場所」と言っていたことが、今なら分かる。それだけで、足下がしっかりする気がした。
だから、「私は誰だ」と問えば、今のエリクにならはっきりと答えられる。自分はブレイクス家のエリクだと。百年前の英雄の自我と記憶を受け継いでいる、というおまけ付きだが。
「今日は、来ないと思ってた」
マリーは、近くの岩に腰掛けた。足をぶらぶらとさせている。まだ、表情は暗い。
エリクはそんなマリーを見て、小さく息を吐いた。
マリーの言い分も分かる。なにせ、昨日大けがをして、記憶喪失になって、野盗相手に格闘したのだ。今日くらい休んでも、という意見は至極真っ当である。
ただ、それでもエリクの心はこう言い放つ。
「何言っているんだ。休むわけにはいかないだろう?」
マリーはまっすぐにエリクを見た。彼の翠の瞳は、マリーのよく知る輝きを放っている。
「なにせ、私は未来の『剣聖』なんだから」
力強い宣言に、マリーの目にも輝きが戻る。
「そっか。さすが、未来の『剣聖』様だ」
彼女は、今にも泣き出しそうな顔で、しかし、太陽のように明るい笑顔でエリクを褒め称えた。
ああ、この表情こそ自分が知るエリクだ。失ったと思ったエリクとの思い出が、まだここにあることが嬉しかった。
エリクは修行を再開する。
剣を振るたびに、空気を裂く音が静かな丘に響く。その音は、確実に未来に進むための道をつくる。
目標とするモーングローブ学院に入れるのは十五歳になってから。あと、わずか三年。それほど時間は残されていない。実技試験用の剣技だけではない。知識試験を突破するための座学も足りていない。
しかし、焦りはない。胸に宿った、確かな熱がエリクの背中を押してくれる。
ロランとしての自分は確かにここにいる。その意味を知る未来もあるだろう。しかし、今のエリクには、そんなものは些細なことに思えた。
「私は、剣聖になる」
その呟きは、魔王がいた時代の暗い空とは違う、未来を照らす明るい青空へと溶けていった。




