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強火聖女は天使様のためだけに頑張ります

 人は与えられた器に応じて成長する。

 それが、厳格な父が日常的に口にしていた座右の銘である。


「聖女様の刻印だ!!」


 手の甲に現れた美しき薔薇の刻印。

 聖水の雫に反応し、淡く輝いたそれを唖然と見詰めた少女は、助けを求めるように後ろを振り返る。

 普段から涙脆い母は泣いて喜び、父は我が子の可能性を信じていたとばかりに深く頷くだけ。

 再び前を向けば、聖水を片付ける大神官の隣、真っ白な装束に身を包んだ金髪の少年が、少女の視線に気づいて優しく微笑む。


「えっと……一緒に頑張ろうね、メルテちゃん」


 ──可愛い。頑張る。


 その日をもって聖女となった伯爵令嬢メルテは、混乱の只中、とりあえず目の前の高貴な少年の可愛さだけに意識を注ぐことにした。



 ◇



「よろしいですか、聖女様。治癒の力を行使する際は、まず国王陛下のお許しを得ること。そして治癒を施す順番についても既定の序列に従っていただきます」


 どっさり机に積まれた分厚い本の山。

 メルテが目をぱちぱちと瞬かせながら一冊手に取ってみれば、それは建国当初から記録が続けられているという貴族名鑑だった。

 てっきり、聖女に備わっている治癒の力をどう使いこなすかとか、辺境の地で出没するという魔物の話などを聞けると思っていたメルテは、想像の斜め上どころか無関係とも思える内容に首を傾げる。


「明日までに全て覚えるように。最低でも王家と傍系の方々のお名前は必ず頭に入れておいてください。いざ治癒を施すとなったとき、陛下を差し置いて下位の者から癒してしまえば目も当てられません」

「えっ……あの、治癒の力って……」

「質問は後ほどまとめて受け付けます。まず本日は聖女としての作法を身に着けていただきます。さ、お立ちください」

「は、はい」


 言われるがまま、既に家庭教師から教わったことのある行儀作法をまた一から復習させられ、ちょっとしたことで厳しく注意を受けながらも何とか合格点を貰う。へとへとになったメルテは、ようやく質問の時間だと思って顔を上げたが、役目を終えたとばかりに教育係は立ち去ってしまった。


「え!? レディ・マドレーヌ! ち、治癒の力はどうやって使うのですか!?」


 急いで外へ出て大声で尋ねても、廊下はもぬけの殻。

 メルテはあまりの衝撃に立ち尽くしてしまった。


 ──聖女の刻印が手の甲に現れたと言えども、メルテはごく平凡な少女であった。


 神から不思議な力を賜った乙女、すなわち聖女。かつてこの国では五十年か百年か、ある一定の周期を経ながら聖女が生まれていた。

 誰かの傷をたちどころに癒したり、人々を災いや魔物から守るための加護を与えたり。史実に記された聖女は皆、大層な力を持っていたそうだ。ゆえに彼女たちをいち早く庇護し、上手く運用できた者こそが、玉座を手に入れられたとも言い伝えられている。

 神秘の存在が次第に政争の道具になりゆくのは仕方のないことだったが、神は人々の愚かな行いを見ていたのか、ここ数百年の間で聖女の出現は激減した。

 そのためメルテは記録上、実に三五十年ぶりに生まれた貴重な聖女だった。

 王をはじめとして、貴族たちはこぞってメルテを称賛したが──悲しいかな、彼らは聖女が「修練によって力を育てる」ことを知らなかった。否、あまりにも久々の誕生ゆえに、聖女の特性を忘れていたと言うべきか。


「聖女様、治癒の力をお早く」

「え、いや、え? 私、使い方が分からなくて」

「何だと? 儂の病を治せないのか!? 聖女の誕生と聞いて遥々王都までやって来たのに!!」

「ひぃっ」


 何の説明もなく高貴な病人の元へ引きずられ、力が使えないと打ち明けて怒鳴り散らされること数十回。

 理不尽な怒りをぶつけられたメルテは、そのつど神殿や教育係に助けを求めたのだが、「自覚がないだけで力は使えるはず」の一点張り。

 怒鳴られ突き放されを繰り返し、メルテの精神は摩耗していくばかりだった。


「うう、治癒の力の使い方なんて分かんないよ……」


 神殿の裏庭でしくしくと蹲るメルテは、それでも語学の教科書を捲っていた。彼女は聖女として各国の要人とも引き合わされるので、何カ国語も勉強をしなければならなかった。

 こんな勉強をしたところで、治癒の力は使えないのに──メルテが溢れる涙を拭いながら、とうとう教科書を草むらにぽいっと投げ捨てたときだった。


「──あ、メルテちゃん見つけた」

「!!」


 茂みを掻き分けて現れたのは、ふわふわとした淡い金髪が特徴的な少年。メルテが聖女と認定された日、大神官の隣に立っていた可愛い少年だった。

 彼はあの日と違って、白いフリルシャツにサスペンダー付きの半ズボンを履いていて、貴族の子供らしさが強調されていた。


 ──きれい。天使様みたい。


 涙をだばだば流しながら頬を赤らめるメルテを見て、少年は心配そうに眉を下げる。


「大丈夫……? 一緒に頑張ろうって言ったのに、ちょっと熱が出ちゃって……なかなか会いに行けなくてごめんね」

「あ、うう、だいじょうぶです、びゃあ」


 答える間によしよしと頭を撫でられ、メルテは奇声を発した。少年はよいしょと隣に腰を下ろすと、ズボンのポケットから小さな包みを取り出し、焼き菓子をひとつメルテに分け与えた。


「はい、美味しいよ」


 メルテは焼き菓子を受け取ろうとして、はっと手を引っ込める。教育係から、ドレスの形が崩れるから間食を控えるよう言われていたのを思い出したのだ。

 決死の想いで首を横に振ったメルテはしかし、突然おでこに柔らかい感触が訪れたことで硬直する。少年がメルテのおでこにキスをしたのだ。


「はぅ!?」


 どデカい声で驚いたメルテの口に、焼き菓子が突っ込まれる。

 そうして頬を優しく両手で押さえられたメルテは、ニコニコと微笑む少年を間近に見詰めたまま咀嚼するしかなかった。


「美味しいね」

「……おいしいです」


 魔性の天使様だ──と相反する単語がメルテの頭に並んだが、それよりも焼き菓子が美味しすぎて考えていたことが全て吹っ飛んだ。

 当然のように次々と差し出される焼き菓子をぱくぱく食べていれば、段々と気持ちも落ち着いて。メルテは最後の焼き菓子を思い出したように半分こにして、少年に返した。


「ご、ごめんなさい、全部食べちゃいました……」

「いいよ。メルテちゃんのために持ってきたんだから」


 くすくすと笑いながら焼き菓子の残りを食べた少年は、ふと目を丸くしてメルテの右手をそうっと掬い上げる。


「メルテちゃん、手が光ってるよ」


 「え、よだれで?」と危機感と共に右手を見てみれば、確かに薔薇の刻印が淡く輝いていた。

 聖水に触れた日以来、こうして輝くところを見るのは初めてだった。


「わ、わっ、もう光らないと思ってたのに」

「綺麗だね。お腹いっぱいになったからかな」

「ええ!?」

「違うかな?」


 そんな食い意地を張ったような言い方、と涙目で少年を見たメルテはしかし、不思議そうに首をかしげる少年のとんでもない可愛さを直視したことで撃沈した。


「大丈夫?」


 草むらに横転し動かなくなったメルテの背後、少年がそっと肩を揺する。その優しい手つきに悶絶しながらも、メルテは天啓を受けたような気分だった。


 ──私はきっと、この天使様を守るために聖女になったのだと。


 人は与えられた器に応じて成長する。

 聖女という器を与えられたメルテは、これからそれに見合う者にならなければならない。分からない分からないと彷徨うばかりではダメなのだ。

 周りの大人だって、きっと聖女の力について何も分からないから、メルテに何も教えてくれない。教えることが出来ない。

 ならば──。


「わ、私……頑張ります。あなたの、あなたのために、立派な聖女になります!」


 がばりと起き上がって少年の手を握ったメルテは、大きな声でそう宣言した。

 あまりの勢いに尻もちをついてしまった少年は、ぽかんと口を半開きにして固まった後、嬉しそうにはにかんだのだった。


「うん。僕と一緒にたくさんの人を助けよう、メルテちゃん」

「はい!」



 ◇



 メルテがめそめそと泣くのを止め、聖女の道を本気で歩むことを決めた日から、早十年。

 その日、王都では王太子の誕生祭が開かれ、貴族たちが優雅にワインを酌み交わしていた。


「いやはや、聖女ベス様のおかげで我が国は今日も平穏ですなぁ」

「王太子殿下との仲も睦まじいようですし、ご結婚も間近でしょうな」


 聖女ベス──それは五年前、新たに聖女として認められた平民出身の聖女の名だった。

 ベスは元々、敬虔なシスターとして神殿でも人気を集めており、彼女が祈れば雨が降り、穀物が実り、人々に豊かな恵みをもたらすという噂もあったほどだ。

 刻印が現れて以降も可憐なベスの祈りは健在で、今では王太子の妃候補としても持て囃されていた。


「……それに比べて、もう一人の役立たずな聖女は何をしているのやら」

「ああ、伯爵令嬢の……メルテ様でしたかな。最近、とんとお見掛けしませんなぁ」

「十年前は治癒の力が使えないなどと言って王家を困らせて……神殿も愛想を尽かしてしまったと伺いましたぞ」


 貴族らの密やかな噂話は悪意に満ちていた。

 聖女メルテが表舞台に立たなくなってからというものの、彼女がその務めを放棄して逃げ出しただとか、そもそも薔薇の刻印も偽物だったのではないかという陰口は後を絶たない。

 貴族の間では「偽物聖女」と蔑まれ、聖女ベスを称える際に用いられる比較物としてしか認識されていなかった。


「しかし今日は王太子殿下の成人を祝うパーティーですからな。さすがに顔ぐらいは見れるのではないか?」

「ほほ、どの面を下げていらっしゃるのやら」


 彼らが嫌味な笑顔でワインを傾けたなら、華やかな盛装に身を包んだ男女がゆったりと人混みの前に歩み出た。

 鍛え抜かれた体躯に混じりけのない黒髪を持つ青年は、この国の王太子マーティン。そして彼にエスコートされて恍惚とした笑みを浮かべている亜麻色の髪の娘が、話題に上った聖女ベスだ。

 毎日熱心にマナーやダンスのレッスンに勤しんでいる彼女は、平民出身とは思えぬほど優雅な佇まいである。貴族たちは感嘆の溜息を漏らした。

 周囲から注がれる羨望と期待の眼差しに、ベスは頬を紅潮させつつ、ちらりと隣の美丈夫を見上げる。


「マーティン様……」


 そっと呼びかけると、マーティンが彼女の方を静かに一瞥した。


「何か?」

「いいえ、うふふ……何も……」


 ベスは幸せの絶頂にいた。

 五年前から今日に至るまで、ベスは順調すぎるほど幸せな人生を歩んでいる。厳しい教育に耐えかねて逃げ出したという役立たずな聖女メルテの前例もあって、ベスは神殿で大切に扱われた。

 残念ながら聖女のシンボルとも言える治癒の力こそ発現しなかったものの、ベスの祈りは確かに国を豊かにしていると聞いた。

 右手の甲に浮かぶ薔薇の刻印をうっとりと撫でたベスは、さてとマーティンに向き直り、そのほっそりとした手を差し出した。


「マーティン様」


 今日は王太子の誕生祭。この場で彼とファーストダンスを踊ることすなわち、結婚が確定したと言っても過言ではない。

 実はまだ婚約にすら漕ぎ着けていないのだが──でもそれはきっと、マーティンが慎重な性格だからだ。

 国内の勢力図を保つためか、彼は普段から神殿との密な接触を避ける傾向にある。魔物の大量発生など、有事の際には協力関係を結べるよう礼儀を尽くすといった具合に。だからこうしてエスコートをしているのも、ひとえにベスが「聖女だから」だろう。

 しかしそれでも構わない。マーティンだって貴族たちの支持は欲しいはず。ベスと結婚することによって自然な形で神殿の協力も得られるのだから、きっと、いや必ず、ベスを花嫁に選ぶに違いない。


「……」


 違いない、はず。

 ベスは一向に手を取る気配がないマーティンをちらちらと見上げ、美しく磨いた爪を控えめに揺らす。

 しかしマーティンは反応しないばかりか、どこか驚いた表情でそっぽを向いたではないか。これには常におっとりとしたベスも苛立ってしまう。


「マーティン様っ……皆が見ていますわ。どうか私とダンスを……」


 出来うる限りの猫撫で声で囁きかける途中、スッと顔の前に片手を翳された。


「静かに」


 「はぁ!? 私がダンスに誘ってるのに何なのその反応!? さっさと踊って私を王太子妃にして!!」という言葉を辛うじて飲み込んだベスは、引き攣った頬を扇子で隠しながら彼の視線を追う。

 すると、ホールの入口がにわかに騒然となった。


「まあ、あちらは……!」

「もしやアリスター様では……?」

「珍しいことだ。パーティーにいらっしゃるとは」


 アリスター?

 ベスは怪訝な目で入口を見やったが、すぐさま彼女の瞳は爛々と輝いた。


「な、な……何てお美しい人なの……」


 それは白い装束を着た金髪の貴公子だった。

 淡いブルーグレーの瞳を柔らかく細めて微笑む彼は、年配の貴族たちと和やかに言葉を交わしている。そのどれもが神殿に多額の寄付を募っている敬虔な信徒であることから、彼が神殿の関係者ということは明白だった。

 しかし神殿によく出入りするベスは、彼を見たことがない。あれほど美しく、神々しさすら覚える男性、一目見たら忘れないはずなのに──ベスが明るい光に引き寄せられる羽虫よろしく、ふらふらと足を踏み出したとき。


「聖女。ここにいろ」

「え?」


 ぐいとマーティンに肩を引き戻された。

 ポカンとするベスを置いて、彼はスタスタと金髪の貴公子の方へ向かっていくではないか。まるで自分が先だと言わんばかりの、彼らしくない子供っぽい行動にベスは目を瞬かせる。


「……え? いや、何? わ、私も一緒にご挨拶を……!」


 形式上と言えどもパートナーでしょうが、とベスは慌てて後を追おうとしたが、あえなく彼女の歩みは人混みに阻まれてしまった。

 そうして王太子が声を掛ければ、皆の視線が二人へと向けられる。麗しい貴公子はマーティンの方を振り返っては、とても嬉しそうに表情をほころばせた。


「ああ、マーティン。お誕生日おめでとう。……ふふ、久しぶりだね。大きくなって」

「……ありがとう、ございます。体調は……」

「元気だよ、とっても」


 そこでアリスターがおもむろに両手を軽く広げたので、マーティンは逡巡の末、おずおずと抱擁を交わす。普段は毅然と部下たちを率い、自らも戦場に赴いて武器を振るう王太子が、その逞しい体を少しばかり丸めつつ抱擁に応じる姿に、周りからは微笑ましげな視線が注がれた。

 一方、観衆の外から小さく跳ねて様子を窺うしかないベスは、業を煮やして近くの貴族の肩を叩く。


「ね、ねぇあなた、あちらの金髪の殿方はどなたかご存じ?」

「まぁ聖女様。アリスター様とは面識がございませんでしたか? あの御方は──マーティン様のお兄様でいらっしゃいます」

「兄!?」


 ──全然似てなくない!?

 初耳だったベスが思わず驚いてしまえば、その貴族は「神殿の方なのに……」と不思議そうな顔で頷いた。


「幼い頃はお体が弱くて、神殿での静養を余儀なくされていらっしゃいました。そのため陛下は王太子の資格をマーティン様にお与えになって……その後も療養地で過ごしていらっしゃったそうですが、とてもお元気になられたようですね。これも聖女様のお祈りのおかげでしょうか」


 曰く、アリスターは既に王子という身分ではなく、公爵位を賜って王宮を出たらしい。そして現在は何と魔物討伐にも積極的に協力しているそうで、ベスは他人事ながら目を剥いてしまった。

 魔物討伐なんて──そんな危険なこと、屈強なマーティンに一切合切任せた方が良いに決まっている、と。

 何なら厳つくて無愛想極まりないマーティンよりも、線の細いアリスターの方が見るからに王子様という感じがする。可憐な聖女の隣に並ぶのなら、アリスターの方が釣り合いが取れるのではないか?

 そうだ、これからは私と一緒に平和な王宮で優雅に暮らしたら良い──そんな思考の下、ベスはにんまりと笑顔を浮かべて、人混みの中へと飛び込んだが。


「アリスターさ──」

「天使様!!!!」

「ほぶ!?」


 誰かがとんでもない速度でベスの横を走り抜け、その凄まじい風圧でベスは床に転がった。もちろん彼女以外の貴族たちも弾き飛ばされた。無事だったのはのほほんと構えているアリスターと、体幹が強すぎるマーティンぐらいのものである。

 大勢を吹っ飛ばしながら二人の前に勢いよく跪いたのは、神殿騎士の制服を着た年若い娘だった。長い褐色の髪を一本の三つ編みに束ねた彼女を見て、床に倒れ伏した貴族たちが「おや?」と首をかしげる。

 そして彼らと似たような仕草で小首をかしげたアリスターは、すぐさま慈愛に満ち溢れた笑顔で片膝をついた。


「あれ? パーティーは嫌ですって言ってたのに、来てくれたの? ──メルテちゃん」


 時が一瞬、止まり。


「……メルテ!?!?!?」


 皆が一斉に驚愕の声を上げた。

 十年前に逃走したと思われていた聖女メルテの登場に、場が騒然となる。加えて彼女が聖女の装束ではなく神殿騎士の制服を身に着けていることも、彼らの混乱に拍車をかけていた。

 何せ、神殿騎士は単なる騎士とは違う。彼らは魔物討伐のプロと呼んでも差支えがなく、人間を相手にする王宮騎士団とは全く異なる知識や経験を要求されるという。

 長らく魔物に関する調査を続けていたアリスターが、討伐を担う神殿騎士たちにとても感謝されていることは広く知られていたが──よもやそこに「偽物聖女」のメルテが所属していたとは、露知らず。


「どういうこと? メルテ嬢が神殿騎士……?」

「そういえば、アリスター様のお傍にえらく腕の立つ神殿騎士がいると聞いたことが」

「え、それがメルテ嬢だったのか!?」


 騒がしさを増す一方の貴族たちを後目に、深く首を垂れていたメルテはようやく息を整えると、必死の形相でアリスターの顔を見た。


「ホールから魔物の気配を察知しました。今すぐ始末しますので、どうか私の傍から離れないでください天使様……!」

「ふふ、いいよ」


 そう告げるや否や立ち上がったメルテは、その右手に眩い光を迸らせ、白く輝く長槍を出現させる。神々しくも物騒すぎる得物を彼女が大きく振りかぶれば、貴族たちが悲鳴を上げてホールの隅へ走り出した。


「悪霊退散!!」

「え? キャー!?!?」


 メルテの投げた槍が一直線に向かったのは、床に座り込んだままの聖女ベス。

 避ける暇もなかったベスの胸を、ドスッ、と槍が貫く。しかし彼女の体から血が噴き出すようなことは起きず、代わりに背中から真っ黒な霧が噴き出した。

 あまりにも禍々しい光景に皆が怯える中、当のベスも何が起きているのか分からず悲鳴を上げるばかり。その後、ようやく霧の勢いが収まると、ベスは白目を剥いて倒れてしまった。


「わあ。凄かったね。ところであの子は誰なんだい?」

「……聖女のベスです。兄上、今のは一体どういうことですか」


 マーティンが少し圧倒された様子で尋ねれば、相変わらず笑顔のアリスターが聖女ベスを指差す。


「メルテちゃんが退魔の力を込めた槍を突き刺して、あの子の体内に巣食っていた魔物を消し飛ばしたんだよ」

「体内に、魔物……?」

「うん」


 彼の言葉に再びホールがざわつく中、槍を消失させたメルテは急いで聖女ベスの元へ駆け寄った。そしてベスの黒く染まった右手を掬い上げれば、甲にあったはずの薔薇の刻印がドロドロと溶けていく。


「メルテちゃん、それ、魅了の魔物かな?」

「恐らく。薔薇の刻印を真似たようです。彼女の感情を食らって腹を満たしていたようですが……急に気配が濃くなったのは、天使様を狙ったからでしょうか? チッ、薄汚い獣め……」

「ふふ、僕じゃなくてメルテちゃんだと思うけど……あ、聞いてなさそう」


 血走った眼でゴシゴシと執拗にベスの右手を拭い続けるメルテに笑い、アリスターはそこで少し困ったように王太子を振り返った。


「何かに擬態して人間を惑わす魔物自体は珍しくないんだ。でも……まさか聖女の刻印を偽装してくるとは思わなかったよ。気付くのが遅れてごめんね」

「……いえ。俺も彼女の能力を疑問視するだけでなく、もう少し強気に調査すべきでした。神殿騎士だけの過失ではありません。…………それよりも」


 マーティンが再び、未だにベスの右手を布で擦り続けているメルテに視線を遣る。


「聖女メルテは……その、一体何がどうしてああなったのか」

「うん? ああ、王家の元じゃ聖女の修練がちっとも進まなくて。かなり荒療治だけど、魔物討伐で強制的に力を目覚めさせることにしたんだ。もちろん僕も同行して、ふふ、楽しかったよ」

「え……」


 てっきり病弱な兄は、神殿や公爵領の安全な場所で魔物の研究をしているのだと思っていたマーティンは、全く安全じゃない場所にいたことを知って青ざめた。

 そんな弟の衝撃に気付かぬまま、この十年間で更に肌ツヤが良くなったアリスターはほくほくと嬉しそうに語った。


「メルテちゃん、凄いんだよ。怖かったらすぐに止めようねって約束したのに、初日から雄叫び上げて魔物を焼き払ってね。あとで文献で調べてみたら、それが退魔の力ってことが分かったんだ」

「……退魔の力は、初代聖女の権能では」

「そうなんだよ。僕たちもビックリして。それでメルテちゃんが修練を積む間に、僕も彼女が怪我しないように魔物の資料を集めたり研究したり……辺境の地にずっと滞在しててね。気付いたら随分と時間が経ってしまったよ」


 アリスターが書き上げた論文、もとい対魔物用の武器や罠の作成方法などを記した資料は、神殿だけでなく王宮にも共有されている。貴族たちはアリスターが病弱な体を引きずりながら、国民の安全のために筆を執ったのだと解釈していたが、どうやら真相は違ったようだ。

 ──アリスターはただただ、メルテが怪我無く聖女の力を育めるようにサポートしていただけだろう。


「あと……」


 アリスターは自身の手のひらを見詰めると、兄の大冒険を知って倒れそうになっているマーティンに微笑みかけた。


「メルテちゃんと一緒に過ごしていたら、体も丈夫になってね。最近は体調を崩すことも滅多にないよ」

「!」

「心配かけたね」


 マーティンは目を見開き、滲んだ涙を隠すように目元を手で覆う。そして小さく頷いた弟に、アリスターはからりと笑い返し──。


「天使様! お怪我はありませんでしたか!?」

「わぁ、大丈夫だよ。ご苦労さま、お腹空いてない? メルテちゃん」

「いいえ私のことなどはどうでも」

「よくない。ほら、これ美味しそうだよ、あーん」

「え!!」


 忠犬のように駆け寄ってきたメルテを流れで抱き寄せ、腰をしっかりと捕まえた状態で、近くのテーブルから焼き菓子を一枚取る。

 そのまま至極楽しげに菓子を口元まで持って行けば、顔を真っ赤にしたメルテが慌てて首を横に振った。


「い、い、いけません!! 私は招待客でも何でもないので、はァ!!」


 メルテの額にアリスターが唇を寄せると、彼女がどデカい声を上げて固まる。その隙に焼き菓子を口に突っ込んだアリスターは、やはり彼女の頬を両手で押さえて。


「美味しいね」

「……おいしいです」


 メルテがもそもそと咀嚼すれば、アリスターは満足げに頷く。そして彼女が逃げないように腰を抱き寄せ、もう一枚焼き菓子を手に取り──その少しばかり目のやり場に困るやり取りは、聖女ベスが医務室に運ばれるまで続いたのだった。



 ◇



 聖女ベスに憑依、いや、寄生していた魔物は、人間の感情を食べて成長する厄介な種だった。

 平民のベスを聖女に仕立て上げ、周囲の人間を魅了することで、彼女に集まる羨望や嫉妬を餌としていたのだろう、というのがアリスターの見解だ。久々に雨が降っただけでベスのおかげだの、魔物が無事に討伐されたのもベスの祈りのおかげだの、慶事を何でもかんでもベスに繋げていれば反感を買って当然である。

 ベスを始め、魅了されていた者たちは何の違和感もなく聖女を持て囃していたが、元凶が取り除かれたことでようやく正常な感覚を取り戻しつつあった。


「……え、私、聖女じゃ、なかった……の?」


 無論、最たる被害者はベスであろう。医務室で目を覚まし、五年間の幸せな日々が魔物によってもたらされたものと知った彼女は、現実を受け入れられずに再び気を失った。

 まんまと魔物に操られ、聖女メルテを声高に非難していた貴族たちは肩身が狭かったのか、王太子の誕生祭の最中にも関わらず自分の領地に帰る者が続出したという。

 自身の誕生祭が散々な事態になってしまったものの、当のマーティンは気分を害した様子もなく、それどころか今までになく上機嫌に公務に勤しんでいる。大方、さまざまな事情が重なって会いに行けなかった兄が、聖女メルテのおかげで元気になってくれたことが嬉しいのだろうと、彼の側近たちは頬を緩めた。


 して、一連の騒動で聖女メルテの評価がうなぎ上りになったのは言うまでもないのだが、彼女は結局、王宮に戻ることはなかった。

 いくら十年間厳しい環境で魔物と戦っていたと言えども、幼い頃に植え付けられた貴族たちへの苦手意識は拭えず、マーティンを除く王家の人間がどれだけ甘い話をちらつかせても「私は天使様の元にいます」と繰り返した。

 「ていうか天使様って何?」という視線を背中に突き刺したまま、メルテは公爵領へ帰ったのだった。



「──良かったの? メルテちゃん、立派な聖女様になるって言ってたのに」


 眼下に広がる長閑な草原を眺めながら、バルコニーの欄干に凭れたアリスターがのんびりと問う。

 彼の斜め後ろに立つメルテは、ふふんと誇らしげに胸を張って頷いた。


「結局、治癒の力は覚醒しませんでしたもの。私は王都の貴族が求めている聖女ではありませんし、何より騎士の方が天使様を直にお守りできますからね!」

「ふふ、そう」


 くすくすと肩を揺らすアリスターを見詰め、メルテはふと首を傾げる。


「……治癒といえば、天使様。ここ数年、発熱することがなくなりましたね……?」

「あ、気付いてなかったんだ。メルテちゃん、僕が躓いただけで大騒ぎするから逆に分からなかったのかな」

「あっ、ああ、天使様の騎士としてお傍にいたのに、何たる不覚……!! 遅ればせながら快復をお祝いしなくては……!!」

「お祝いしてくれるの?」

「はい! さっそく使用人の皆に声を掛けてまいります!」


 メルテは意気揚々と踵を返したのだが、やわらかな声音で「待って」と言われ、返した踵を同じだけ回転させた。


「何でしょうかっ、はわ」

「捕まえた」


 ふんわりと正面から抱きすくめられ、メルテが言葉どころか正気も失いそうになっていると、彼女の真っ赤な耳に唇を寄せたアリスターが囁く。


「メルテちゃん、いつになったらその『天使様』って止めてくれるの?」

「へ!? て、天使様は天使様なので」

「お祝いしてくれるなら、僕の名前呼んでほしいな」


 ぎゅうぎゅうに抱き締められたまま「お願い」「メルテちゃん」とあざとく強請られてしまったメルテは、致死量の可愛さに息も絶え絶えになりながら葛藤していた。


「で、でも、あの、私は、やっぱり伯爵家のしがない令嬢でして、天使様のお名前を呼べるような身分では……」


 そう、神殿騎士の称号を得たとしても、メルテは彼の友人でも婚約者でもないのだ。いくら誰よりも近い場所にいるからと言って、身の丈に合わぬ思いを抱かぬようメルテは必死に己を律してきた。

 彼は「天使様」で、自分は「天使様」を守るために頑張ってきたのであって、決して、決してそれ以外の邪な心は持ってはいけないと──。


「十年も一緒に過ごしてるのに……? 悲しいな、君と仲良くなれたと思ってたのは僕だけか……」

「!!!!」


 しゅんと落ち込んだ声音にカッと目を見開いたメルテは、自分の今までの行いを猛省した。

 ここまで彼が心を開いてくれているのに、それを頑なに拒絶するとは何事か。取るに足らぬ葛藤など後回しにしろと己を叱咤し、メルテは敬愛して止まないアリスターの背中をがっしと抱き返した。


「ア、ア、アリスター様!!!!」

「なぁに、メルテちゃん」

「へえ!?!?」


 その後の会話についてはまるで何も考えていなかった。メルテが裏返った声を上げれば、アリスターが噴き出すように笑う。


「嬉しいな。今後も名前で呼んでね」

「えっ、う」

「今度また天使様って呼んだら、その日は一日中『僕の可愛い聖女様』って呼ぼうかな」

「ひぃ!? そ、そ、そんな羞恥プレイを、天使さ、アリスター様に、強いるわけには……!!」

「ふふ、別に恥ずかしくないけど」


 頭を抱えてしまったメルテをゆるく抱き寄せ、ゆらゆら左右に揺れるアリスターは──一目見たときから可愛くて堪らない聖女に、嬉しそうに頬をすり寄せたのだった。




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