聖女になれなかった聖女
「愛、か……」
愛子は鏡に映った自分の輪郭をなぞりながら、ぽつりと呟いた。
静まり返った部屋のなかで、それは空気に溶けるように消えていったが、愛子自身の中にはいつまでもしこりのように残った。
ここにきて随分と時が流れた。
あっという間でしたね、と笑う人々や、今までよく頑張りましたね、と労わる人々を思い出しながら、愛子は己の心の奥底の、一番深くに沈めた箱の口が一段と硬くなったことがよく分かった。
「アイコ様、そろそろお時間です」
「はい……」
部屋の隅に控えていた侍女から告げられ、愛子は静かに立ち上がった。
控えていた侍女がそっと愛子のドレスの裾を直し、掛けられているベールを確認してそっと手をとった。扉の外では、先日愛子の養父となった男が待っているのだろう。
今日は愛子の結婚式だ。
愛子がこの国、この世界に来たのは今から七年前になる。
当時高校一年生だった愛子は、部活動が終わって帰宅する直前、突然足元に広がった光に驚く間もなくこの世界に連れて来られた。
驚きに瞑った目を開くと、歓声に包まれた大広間。見たこともない衣装をまとった男たちに囲まれ呆然とする愛子を、男たちはあっという間に貴賓室に連れて行き、この国の現状を切実に説明し始めた。
一に、この国はそこかしこで瘴気が溢れ出し、国中の魔物が増えて大変である。
二に、瘴気に汚染された大地は生物が育たず大変である。
三に、瘴気を根絶出来る人間がおらず、苦肉の策で異世界より聖女を召喚した。
おおまかにこの三つを説明した男たちは、その聖女が愛子であると言った。
突然のファンタジーに目を白黒させていた愛子だったが、ひとつだけ、これだけは確認しなければならないことがあった。
『私は、元の世界に帰れるんですか?』
愛子の問いに、男たちは一瞬口をつぐむと、彼らは一様に言い淀んだ。
沈黙が広がるなか、一人の老年の男性が頭を下げた。
男性は高位の人間であったのか、彼が頭を下げただけで周囲はどよめいた。しかし、愛子にとってそんなことは関係なく、ただ男性の言葉は愛子を絶望させるには十分なものだった。
彼は言った。召喚は一方通行で元の世界には帰せないこと、こちらの都合で呼びつけて申し訳ないこと、愛子の身の安全と生活の保障は必ずすること。だからどうか、この国に力を貸して欲しいこと。
当時はあまりのショックでぼんやりとしていたが、はっきりいって脅迫に近いなと、今では思う。
突然問答無用で異世界に連れ去られ、帰れもしない少女に生活の保障と引き換えに助力を乞う。脅迫以外の何物でもないだろう。
現に、当時の愛子には拒否する頭もなく、ショックでぼんやりしていたこともあって流されるように城の一画に居住が決まっていた。
愛子にはベテランの専属侍女がつけられ、分からないことは何でも彼女に聞いた。母よりも年上かと思われる侍女長は、愛子の前では朗らかで気さくな笑顔を絶やさなかった。おかげで、こちらに来た当初の愛子は随分助けられた気がする。
「ああ、アイコ、綺麗だよ」
扉が開くと、養父となった男性が眩しいものを見るように愛子を見つめて囁く。
「ありがとうございます」
愛子がベールを崩さないようにそっと頭を下げると、養父は薄い布の向こうで苦笑した。きっといつまでたっても他人行儀な愛子に困っているのだろう。しかし、彼とは養子になってからまだ三回しか会っていない。実質他人だ。
養父はそれ以上は何も言うことなく、愛子の手を取って教会の入り口に向けてゆっくり歩き出した。後ろからは侍女たちがベールが汚れないよう持ってついてくる。こんな風に愛子が何も言わなくても、周囲は目まぐるしく変わっていく。
教会への道は日が差し込み、今日と言う日を神が祝福しているようだと言ったのは後ろの侍女たちだ。
ふと、全員の足が止まった。
「殿下」
養父の声にどきりとする。
そっとベールの向こうをみると、数歩先の柱の陰にこの国の第一王子が立っていた。
「式の前に少しアイコと話したい。時間をもらえないだろうか」
「恐れながら殿下、神聖な聖女の結婚式の前に、新郎である辺境伯より先にアイコに会いにいらっしゃるのはいかがなものかと。何より、聖女の結婚を」
「聖女の結婚を妨げはしないさ。本当に、少しだけだ」
養父の言葉を遮るように言った王子の声音は切実さが溢れており、養父は少し考えたあと、愛子をエスコートしていた手をそっと放した。
「すまないアイコ、式のためのコサージュを部屋に忘れてきてしまったようだ。少し待っていてくれ。殿下、私が戻るまでアイコをよろしくお願いします」
「ああ、分かった」
わざとらしい養父の言い訳に頷くと、王子は付かず離れずの距離で愛子の横に立った。
養父に言われ、侍女たちも一人残らず彼について行った。人気のない廊下に王子と愛子の二人きりだ。
「アイコ」
名を呼ばれ王子に顔を向けると、彼はとても苦しそうな顔をしていた。
「殿下……」
「もう名前で呼んでくれないのか?」
「殿下との婚約は解消されています。もう私に呼ぶ資格はありません。既に、新しい婚約者の方も内定しているのでしょう?」
「誰に聞いた」
「殿下の叔父である公爵様から。娘さんのようですね」
「あやつか」
恐らく牽制の意味もあったのだろう。婚約解消をした聖女が未練がましく王子を求めないようにと、次の婚約者は自分の娘なのだとわざわざ挨拶にきたのだから、意地が悪い。
「今は私と君の二人だけだ、構わないだろう」
「……殿下のご命令とあれば」
愛子が感情を押し殺して答えると、王子はまるで傷ついたような顔をした。
「もう、以前のように話してはくれないのか?」
「……分かるでしょう」
愛子の言葉に、王子は何かを堪えるようにぎゅっと拳に力を入れた。
七年間、愛子は第一王子の婚約者だった。
召喚された当時の愛子は右も左も分からない赤子同然であり、国の歴史や地理以前に、文字から学ばなければならなかった。そんな愛子の保護を一任されたのが第一王子だ。
世界の知識や魔法の勉強はもちろんのこと、文化の違いに戸惑う愛子を側で親身に支えてくれていた。
そんな王子を愛子が頼りにし、やがて心の支えにするのは可笑しなことではなかった。
周囲に無条件で頼れる人間がいない中、見目が麗しく紳士的な人間が、自分を真綿に包むかのように大切にしてくれる。そこに居心地の良さを感じ、愛子が想いを寄せるのも当然のことだった。
聖女を国に縛りたかった王家は、もろ手を挙げて賛成した。あっという間に聖女と第一王子の婚約は決定され、国も祝福ムードで歓迎した。
当時、愛子の魔法訓練が順調だったことも関係しているだろう。
聖女として召喚されただけあって、愛子には聖女の素質があった。愛子の魔法は訓練すればするほど上達し、半年もするころには、最上位の聖魔法を行使できるまで腕を上げたのだ。それは王国としては何よりも喜ばしいことだった。
しかし、愛子の異世界生活が順調だったのはその最初の年までだった。
この異世界は、どこまでも愛子の心を置き去りにする。
愛子は今日、王子ではなく辺境伯と結婚する。
沈黙が二人の間に落ちた。
何か言おうとしては口を閉じ、悲痛に奥歯を噛み締める王子に、愛子は諦念と共に憐れみを覚えた。
少し傲慢で融通がきかないところもあったが、根が真っ直ぐで素直な人だった。だからこそ、今は罪悪感で押し潰されそうなのかもしれない。
「殿下が気に病む必要はありません」
「何故だ⁉ 君はこの私に、理不尽にも婚約解消されたんだぞ。そのうえ今日は、会ったこともない相手へ嫁がされる。それでも何も恨み言はないとでもいうのか!」
「ないとは言いません。でも、全部仕方のないことです。殿下の責任ではありません」
それに、ここで愛子がいくら叫んでも、現実は変わらない。そのことは、王子が一番よく知っているはずだ。
「私は、君と結婚するつもりだった‼」
感情が高ぶったのか、王子が強く声をあげた。だが、すぐにその勢いをなくしてしまう。
「結婚するつもり、だったんだ……」
力なく項垂れる姿に、愛子は何も言わなかった。
分かっている。この七年の全てが嘘だったとは思わない。多少の打算はあろうとも、王子が愛子を愛しんでくれたことも本当だった。
だから、王子が国と愛子を天秤にかけ、国を選んだことも、決して責めはしない。なにより。
「殿下、貴方は悪くない。誰が悪い悪くないの話ではなく、仕方ないことだったんです」
心とは、それを持つ本人にすら思い通りにならないものだ。だから、本当に仕方なかったのだ。
「待たせたね。殿下もありがとうございました」
「ああ」
すっかり重く気まずい雰囲気となったところで、養父と侍女たちが戻ってきた。気づいているだろうに、素知らぬ顔で再びエスコートしてきた養父にのっかり、愛子はそのまま手をとった。
「では殿下、失礼します。行こうか」
「はい」
教会に向けて再び歩きだす。愛子は振り返らなかった。
◇◇◇
結婚式は滞りなく終了した。
教会で初めて顔を合わせた旦那様は、隣国と面した領地の領主であるため、身にまとっていたのは真っ白な騎士の正装だった。騎士らしくがっちりとした体格に少し濃い顔だ。年齢は三十八だったか。
その旦那様は、今はベッドの上でぐっすり眠っている。相当疲れていたのだろう。眠りの魔法を軽くかけただけで、あっという間に眠ってしまった。
辺境伯領は国境に面しているため、国防を担っていると言える場所だ。その対応に加えて瘴気の問題もあるのだから、さぞ忙しいことだろう。
結婚式と披露宴が終わったあと、愛子は侍女たちに全身を磨かれて寝室に案内された。いわゆる初夜というやつだが、愛子は出会い頭に魔法をかけ、辺境伯を眠らせたのだった。聖魔法は浄化や回復、補助を主とする魔法だ。聖女として最上位の聖魔法をも操る愛子にとって、油断している相手にこの程度はお手のものだ。
(この部屋で過ごすのも、今日が最後ね)
七年間過ごした自室を見渡す。
王城内に用意された聖女のための部屋は、当時十六の小娘にはもったいないくらいで、都内のホテルのスイートルームほどの広さがあった。この広さが寂しかったのを覚えている。部屋は三つあり、侍女によって常に美しく保たれていたが、ほとんど一つの部屋しか使っていなかった。
愛子は寝室に旦那様を置いて居室に行き、愛用していた机の引き出しをあけた。
今晩だけは、侍女も見張りもいない。
愛子は引き出しの二重底の中から二冊の古い本を出した。うち一冊は三百年前に召喚されたという先代の聖女の書いた日記帳であり、中は日本語で書かれたものだ。
(流石にこれの持ち出しは許可されなかったわね)
愛子は辺境伯と結婚し、明日には辺境伯領に向かうため、明日の朝には教会へこの日記帳を返却しなければならない。
貴重な聖女の資料だ。これは、また次に召喚される新たな聖女に渡されるのだろう。
愛子もまた、日々感じたことや魔法の成果を記して欲しいと言われ日記を渡されたが、実はほとんど書いていない。もともと日記を書く習慣がなかったこともあるが、他人に読まれる前提の日記を書く気にはなれなかった。複雑な思いがあるからなおのことだ。
(結局、私は聖女にはなれなかった)
この国の瘴気被害は深刻だ。長年浄化の仕事をして回っていたから良く知っているが、国中で瘴気が噴き出る穴が出来ている。聖魔法でどれだけ瘴気を浄化しても、間欠泉の様に瘴気が噴き出す穴がある限り、焼け石に水だ。
聖女が召喚された最大の理由は、この瘴気の穴を塞ぐことなのだ。
三百年前の聖女が使ったとされる聖女の秘術。それを使えば瘴気の穴をとじることができるらしいが、愛子は七年かけてもこの秘術を会得できなかった。聖魔法とは全くの別物であるらしい秘術を詳しく知るものはおらず、手がかりとなるのはこの日記帳のみ。まるで雲をつかむかのような話は、結局上手くいかなかった。
愛子は聖女として召喚されておきながら、求められた聖女の力を振るえなかった。
だから、来月には新しい聖女を再び求めて、秘密裏に召喚の儀が行われる。
二人の聖女による軋轢を防ぐために、国の期待に応えられなかった愛子は王子との婚約を解消され、辺境伯領へ行かされるのだ。あそこは特に国にとって重要でありながら、瘴気の被害頻度が高い場所だ。愛子はこれからそこで、死ぬまで領地とその周辺地域の浄化をすることになる。
そっと、愛子は先代聖女の日記帳を開いた。
《聖女の力の源は、きっとすごく単純なものなんだと思う。毎日を過ごすなかで、日々の生活を尊く思う気持ちや、身近な人たちへの感謝とか。
私は、この国が好きだ。呼ばれた当初は戸惑うことも多かったけれど、周りのみんなは良い人ばかりで、昔よりも毎日が楽しい。瘴気の浄化や遠征なんかは苦しいときもあるけれど、元いた場所よりもずっと温かく素敵だ。だから、この国の人々を助けたい、幸せを返したい。そんな想いを強く強く思って祈ったとき、胸の奥から白金の光が溢れてきた。とても温かくて、優しい、命の光。この光は瘴気の穴を瞬く間に塞いで見せた。
だからこそ思う。聖女の力の源は、きっと愛情だ。心の底からこの国を愛し、人々を愛することができるなら、きっと誰だって聖女になれるのだ》
日記帳の最後に書かれた先代の言葉は、愛子に真実をつきつけた。
最初から理由は分かっていたのだ。なぜ、愛子は聖女の秘術が使えないのか。
「私ね、この国嫌いなんだ」
ずっと誰にも言えなかった言葉を、誰に言うともなくそっと囁いた。
「だから、この国の聖女にはなれないの」
ずっとずっと、しこりの様に残り続けていた。
この国の人全員が嫌いとか憎いとか、そんなことを思ってはいない。
この国にきてから七年。色々な思惑はあっただろうが、愛子によくしてくれる人はそれなりにいて、言葉も文化も違うこの国でなんとか今日まで生きてこられた。王子のことも、本当に愛していた。
それでも、確かにあったはずの生活を、家族を、友人を、夢を、世界を奪われた瞬間の喪失感を、愛子はとうとう今日まで手放せなかった。
国の救済に忙殺される日々で、親しくなった人々と交流する楽しい日々で、たとえ一時忘れられたとしても、ふとした瞬間にその虚ろを思い出す。
私は、この国を救うために私の世界を奪われた。
だから愛子は、この国が嫌いだ。
そして、その想いを胸の奥底に抱えている限り、愛子が聖女の秘術を使えないことは最初から明白だった。
(王子、貴方は本当に悪くなかった。だって、全部私の心の問題だもの。もしかしたらと、時間が解決してくれることを願っていたけれど)
それもとうとう時間切れだ。国は愛子に期待することをやめ、新たな聖女を求める。その人にとってこの世界が愛せるものになるかどうかは、その人の心しだい。
心一つで国の存亡が決まるなんて、その人にとっても国にとってもとんだ大博打だ。
愛子は日記帳とは別の、もう一冊の古い本を手に取った。こちらの本は、この国の古い言葉で記されており、専門家でもない限り、辞書を使っても読み解くのに苦労する古文書である。愛子はこの本の解読に五年かかった。
本来は持ち出し絶対禁止の禁書であるのだか、愛子はこの本を、厳重に目くらましの魔法をかけた上で、こっそり無断で持ち出していた。開けば、本の最初にはこう書かれている。
《聖女召喚の秘術》
愛子はその本にかけられた強力な保護魔法を解除すると、部屋の暖炉の中に落とした。わずかな炭で小さく揺れていた火は、新たな薪に喜んでパチパチと大きく燃え上がった。
(聖堂の召喚陣も、壊してある。これでもう、聖女召喚は出来ない)
数日後には、きっと大騒ぎになるだろう。バレれば愛子の処分もどうなることやら。下手すれば即刻斬首と言われかねない賭けだったが、不思議と愛子の心は落ち着いていた。
(もう、いいわよね)
ずっとこの国の言い分や願いを聞き入れてきた。そうしなければ、命の保障も生活の保障もないと、心のどこかで恐れていたからだ。
(でも、どうせもう従順にしてても戦地に送られるんだし、最後くらい盛大に好き勝手するわ)
別にこの国に滅んで欲しいわけじゃない。でも、召喚なんて他力本願な方法が、ずっと気持ち悪かった。藁にもすがる気持ちだったとしても、された方はたまったものではなかったから。
(同じく賭けに出るのなら、こっちがいいわ)
この世界の救済には、この世界の人々を。この世界に、真に国を人を愛するものが現れるか否か。
(さぁ、賭けを始めましょう)
窓の外は、昼の宴の盛大さが嘘のように静まりかえっていた。分厚い雲が月を覆い隠して、今日は一段と闇が深い。聖女になれなかった少女の蛮行は、天の月さえも見ていなかった。
聖女の魔法は『愛』って話見かけるんですが、召喚された子ってある日突然世界を奪われたに等しいのに、世界愛せるの?無理じゃない?って思ったら書いてたお話です。前の世界で不遇だったらまあ、分かるんですけどね。
※同じ短編をカクヨムにも掲載しております。