涙の五号
朝起きると、アキコは左腕の不調を訴えた。
ハネムーン症候群みたいなものだろと僕が茶化したら、「違うの、本当に痛い」と、剣幕で睨んできた。
「痛いって、どの辺が」
「前腕から指先まで。特に、手が痛い」
アキコは痛みを訴えた部位を、なんともない左手で優しくさすっている。
「どのように痛いんだ」
「ぎゅぅっと、締め付けられる感じ。痛いというか、苦しいって言うのが正確かも」
その訴えで真っ先に思い浮かぶのが、昨晩アキコが体験した正体不明の「握手」だった。
それが「何か」の仕業であるならば、「締め付けられる感じ」という感触にも理由がつく。
だが「何か」とはアキコの言う通り「娯楽」に過ぎず、一番に疑うものではない。
まず疑うのは、アキコの腕を痛ぶる病気の存在である。
「そうか。じゃあ、病院に行ってみよう。自律神経失調症とか、その類のものかもしれない。前、テレビで見たような気がする」
けど、近くの内科にかかっても原因は不明と言われた。
ネットの口コミではまあまあ高評価だったから何とかなると思っていたら、首を傾げてわからないとはっきり言われたのでかえって不安になった。
思い切って自律神経失調症じゃないですかと尋ねてみたら、「否定はできませんが、そうとも言えません」と、今まで聞いたことのないくらいの曖昧さで答えられた。
しまいには心療内科にかかってみてはどうかと言われたので、僕は腹を立てて彼女を病室から引き摺り出した。
ふざけるな。
彼女の訴えを精神病の惑い言とでも言うのか。
彼女はいたって健全だ。
「ねえ。私、大丈夫かな……」
アキコは痛む腕をさすりながら、今にも泣きそうな声を出す。
僕は彼女の背中をさすった。
何の足しになるかわからないけど、できるだけ優しくさすった。
夏の昼。
公園の木陰の下で僕らは肩寄せ合った。
じりじりじりと、蝉の声が四方八方から聞こえてくる。
「大丈夫だよ。きっと……、気にしすぎなんだ。気持ちの問題なんだ」
そう言って初めて、僕はあの医者と同じ考えをしていることに気がつき、口がしょっぱくなった。
「……うん。私も、そう思う」
「そうだよ。その通り気のせいさ。どうだい? ちょっとは痛み、和らいだかい?」
だが彼女の左手は右前腕を行き来するままだった。
顔色も悪いまま。
というか、悪化の一途を辿っているようにも見えた。
「……ねえ、マサキ。私、マサキに一つだけ嘘ついてた」
「え?」
あたりに散らばる夏の気配の一才が遮断されて、僕の五感はアキコ一人に集中した。
「マサキと付き合い始めた時、マサキの事、『彼氏第一号』って言ったじゃん」
「うん」
「それ、嘘なの」
「……」
そう言われると覚悟はしたが、いざ言われてみると案外な傷害の大きさに、気が滅入る。
「じゃあ、第何号なんだ、俺は」
「第二号」
「本当? 気を使わなくていいからな。たとえ第四号でも、僕は怒らない」
「じゃあわかった。本当は、第六号」
この時、世の中には知らないことってちゃんとあるんだなって思った。
僕はアキコが彼女第一号だった。
第一号同士、みずみずしい恋愛をコンセプトに楽しんだいたのだが、それは僕だけのようだった。
「でも正直言って第四号まではどうでもいいの。重要なのは第五号で……」
辛いながらも耳を澄ませていると、彼女の声を詰まりを聞き取った。
アキコの目からは涙が溢れていた。
あまりにも突然のことだから、僕はわけが分からず困惑してしまう。
「あ、アキコ!? どうしたんだよ、急に泣き出して」
「……っつ、ごめんなさいっ」
「アキコ!」
そしてアキコは訳を話すことなく、僕の声を振り切って走り去ってしまった。
僕は不穏な胸騒ぎを覚えた。
矢も盾もたまらずに僕は彼女の後を追った。