そんなの、ありえない
「ねえマサキ。様子が変だよ。もしかして、『何か』が現れたの?」
車中、アキコはずっと僕の異変に探りをかけていた。
僕は話すのも恐ろしいから黙りこくっていたけど、何度も訊いてくるアキコへのうんざりがやがて勝って、口を割った。
「わからない。でも、聞こえた。変な声が聞こえた」
「聞こえたって、マサキ寝てたじゃん」
「夢の中で聞こえたんだ。『ボクモ、アソビタイヨ』みたいな不気味な声が、嫌だというのに近づいてきて」
「なんだ。ただの夢じゃん」
聞いて損した。
アキコが背もたれに倒れた時には、そんなため息まで聞こえてきそうだった。
「夢じゃんって、じゃあアキコは聞こえなかったのかよ。変な声」
「聞こえるも何も、私寝てないもん」
「寝てない? 嘘だ。ちゃんと寝息立ててたじゃん」
「あれは寝たふりだよ。私寝てるんでちょっかいかけても無意味でーすっていう、『何か』へのメッセージ。まあ、団長の登場には驚いちゃったけど」
「本当かよ。強がらなくたっていいんだぞ」
「本当です。マサキが私を放ってコンビニに行ったこと、ちゃんと見てますから」
「……逃げも隠れもできねえや」
「でも戻ってきた後も、私の手を握ってくれたでしょ? 私を安心させるために。それだけは褒めてあげる」
「は? 戻ってきてからは一度もお前に触ってないけど」
そして再び空気は張り詰める。
信号はちょうど赤に切り替わった。
最悪だ。
早く通り抜けたかったのに。
止まった車の中、直面しているものがあまりにも恐ろしくて、僕は完全に参っていた。
それはおそらく、アキコも同じだった。
「……ねえ。それって悪い冗談だよね。私の手、右手だよ? 私の右手、握ってくれたんだよね」
「握ってないって! 僕はアキコに一触れもしていない!」
自然と語気が強くなっていく。でも、僕をすっぽり覆う恐怖の雲が晴れることはない。
「アキコこそ、悪い冗談じゃないか。ずっと起きてたなんて嘘だろ。眠っていた。夢の中で僕と手を繋ぐ夢を見ていたんだ!」
「起きてたって! 私は起きてた、何しろ、その自覚があったから!」
僕たちは言うだけ言って、黙り込んだ。そして僕は、怯えているくせに挑発的な事を口走った。
「……幽霊だよ」
「……」
アキコから返答は無かった。
「間違いない。合理的な説明がつかない『何か』、つまりは幽霊だよ、これ」
「嘘、信じない……」
アキコは憔悴しきったように下ばかり向いていた。
「信じられないのは非合理的だからだろ? でも、非合理的であることが、幽霊の存在を裏付ける何よりの証拠なんだ。現に僕らの証言は食い違っている。この矛盾は、どうやって説明すればいい?」
怯えているのは確かだ。
でも、僕は自分でもびっくりするくらい冷静になっていた。
それは一重に、当初の目的である「検証」が、望ましい形で終わったためであろう。
だが反対に、いつもは物怖じしないアキコが、珍しく不調をきたしていた。
まるで本当に幽霊に取り憑かれでもしたように、呼吸を乱していた。
「やめ、てよ……。ありえない……、そんなの、ありえない、から……」
「なあアキコ、大丈夫か。すまない。怖がらせるつもりはなかったんだ。ちょっと舞い上がっていただけで。幽霊なんていないよ、やっぱり。あんなの、僕らの娯楽のために生み出された幻想だよ」
それはアキコ本人がよく口にしていたセリフだった。
幽霊なんて、娯楽の産物だ。
おまじないのような頼もしい言葉を、そっくりそのまま返す。
でも、アキコの様子は良くならない。
どうしようかと思いあぐねていた矢先、アキコは急に腕を伸ばして、前方を指さした。
……まさかっ。
冷えた血が一瞬で体を巡った。
僕は弾かれたように前を見た。
だが何もなかった。
変化があるとするならばただ一つ、信号が青に変わっていたことだった。
「……行きなよ」
アキコがぼそりとつぶやいた。
「……あ、ありがとう」
ちょっと拍子抜けして、僕は信号を進んだ。
幽霊なんていない、幽霊なんていない。
初めは盛り上がっていた僕も、今ではアキコの言葉がだんだん染み込んできて、それを信じたくなっていた。
でも、こういう否定したい時こそ、幽霊はふっと現れるものじゃないかと勘付いて、僕はルームミラーで後部座席を確認した。
だけど何も無かった。
安心。
でもそう胸を撫で下ろして前に向き直ったら……。
と思ったけど何も無かった。
結局何も無いまま、僕らは僕の家に到着した。
「ねぇ、今日はマサキの家に泊まっていい?」
怖がる彼女の申し出を跳ね除けられるわけがない。
そもそも僕自身が怖がっていたのだから。
僕らは互いを理解しようと努めて、互いの優しさを交換しようとして、互いの心に巣食う恐怖を分かち合おうとした。
恐怖が色褪せてから、夜はあっさり過ぎ去った。