月明りと深淵
(……静か)
ベットの上に座ったまま、朝陽は壁にもたれ、窓の外を眺めるともなく眺めていた。眼下に広がる銀世界を覆う、深夜の闇の静けさが、朝陽の心に平静をもたらしていた。
どれくらい、そうしていただろうか。ふと、朝陽の耳に足音を殺すようにして階段を登る音が聞こえてきた。
(もうみんな寝たのかと思ってたけど…兄さまかな)
日中は外に出ていることが多い絢斗は、いつも夜中になるまで自分の時間が取れないようだった。朝陽が本家にいた頃、よく夜中に居間でくつろいでいる絢斗を見かけたものだった。
(今日、途中で部屋に戻っちゃったから、明日謝ろう)
通り過ぎるであろうその足音に朝陽は耳を澄ませていたが、どうやら朝陽の部屋の前で止まったようだ。
(部屋、わからなくなったのかな…)
兄さまのことだ、そんなことはないだろう。
そう思いながらも朝陽がドアの方に顔を向けると
(えっ、ちょっとまって…)
小さく軋む音を立てながら、うっすらと廊下の光が差し込んできた。
壁に映るその光の筋を見つめつつ、朝陽は壁とベットの隙間に入り込まんばかりに寝たふりをした。
(僕は寝てるから、寝てるから)
先に休むと言っていたのに、起きているなんて朝陽は知られたくなかった。
しばらくして、ドアがゆっくりと締まると、朝陽はほっとして肩の力が抜けた。
(もしかして、様子を見に来てくれていたのかな…)
ベットの上で朝陽がまた落ち込みそうになっていると、気づけば足音がすぐそばまで来ていた。
(あれ、出て行ったんじゃなくて…...どうしよう…)
迷ったまま寝たふりをやめられずにいると、そっと誰かの手が朝陽の顔に、そして体に添うように触れた。
朝陽は急いで寝たふりをしたため、ベットの上に寝転がっているだけで何も被っていなかった。
しばらくするとその手は朝陽の体の下に移動し、そのまま朝陽は持ち上げられた。どうされるのかと朝陽が体を強張らせていると、ちゃんと枕の位置に寝かされた。そして暖まれるように、ぎゅうぎゅうにブランケットも布団もかけられた。
少し首元がきついなと思いつつ、もうこれで部屋から出ていってくれるだろうと朝陽は思った。しかし──
(なんか、寝かしつけられてる…?)
ぎゅっとまぶたをつむったままの朝陽であったが、布団の上からふんわりと規則正しい振動が伝わってきた。
寝るのを妨げないように、本当に軽く、でも気持ちが和らぐその手を、朝陽は知っていた。
(これ、きっと──)
「眠れませんか?」
自分の肩くらいの位置から聞こえるその声は、普段よりとろみを帯びていた。
薄く目を開けると、眠たげな羊一がベットに肩肘をついて、朝陽を寝かしつけようとしていた。
「……」
一方的に気まずくて、返事もしないまま羊一から目をそらした朝陽は、窓の外へと目をやった。ちょうどさっきまで雲に隠れていた月が、ゆっくりと顔を出そうとしていた。
(このまま暗いままだったらよかったのに…でも、このまま暗かったら、気づけなかった…)
窓の外からの、月明りに照らされていく羊一は、肩肘ついてはいるものの大きく舟をこいでいて、今にも朝陽のベットに倒れて寝てしまいそうだ。
(今日、いつもより疲れたよね…)
そっと朝陽は、羊一の頬に手を伸ばした。
「風邪ひくから、ベットに入りなよ」
「………では、失礼いたします」
「うん」
朝陽は、早く羊一に休んでほしかった。
(こういう意味で言ったわけじゃなかったんだけど…)
羊一は少しびっくりしたような顔をしてたな、と朝陽は小さなため息をついた。
「……あさひ、ほんとに枕いいんですか?」
「うん、いらない」
自分の頭の上から降ってくる声に、朝陽は答えた。
(むしろ、枕がない方が……あったかいし)
羊一に腕枕をされているから、朝陽は枕が必要なかった。
ベットに入りなよ、と朝陽は羊一に言った。朝陽としては『風邪ひくから、自分の部屋に戻って、自分のベットで寝なよ』と言ったつもりだった。だから羊一が言った失礼いたしますも、『部屋に失礼します』の意味だと思った。
けれどそうではなかった。羊一は眠たげなままそっと朝陽の布団をめくって、朝陽のベット中に潜りこみ、朝陽を抱えて眠りに落ちようとしている。
(いつもの羊ならわかったはずなのに…眠たすぎたのかな)
朝陽が軽く上を向くと、羊一からは寝息にも近い呼吸が聞こえてきた。それでも朝陽の背中に手をやって、変わらず寝かしつけようとしている。眠たさが勝っているのであろう、さっきよりも不規則で弱弱しい。
「……羊、眠たいなら寝ていいよ」
「……いえ、あさひが眠るまで……おきてます……」
羊一は眠気に逆らおうと顔を枕に押し付けたり、ん~と小さく声を出した。
(なんだか、羊一が幼く見える)
普段、朝陽が見れない──羊一が見せてくれない一面が垣間見れたような気がした。
朝陽は無意識に、そんな羊一をまじまじと見ようと、さっきよりも羊一にぴったりと近づいて、羊一の服をきゅっと掴んでいた。
「ふふっ」
そうすると、羊一が小さく笑った。
「なに?」
きょとんとした顔の朝陽が自分を見つめていて、羊一はもう少しだけ、朝陽を自分の方へと引き寄せた。
「ひさしぶりですね、こういうの」
「……そうだね」
昔、本当に朝陽が小さかった頃、朝陽が眠れない夜には、羊一がずっと朝陽のそばにいた(羊一も小さかったので先に寝てしまうこともあったけれど)。そばに羊一がいるだけで、朝陽は安心して眠ることができた。こわい夜が、優しい夜になった。
「あさひはいつも……なかなかねてくれなくて……」
羊一はもう、まぶたも開けてられないくらいなのだろう。それでも、朝陽より先に寝るまいとしている。
そっと朝陽が羊一の頬に触れたが、羊一はそれにも気づいていないようだ。
(どうしてこんなに、僕を大切にしてくれるんだろう……『東雲』だから?)
羊一の優しさに触れるたびに、嬉しくて、心が温かくなって、少し切ない。
(僕は羊一に、なにも返せない──だから)
「羊、羊一」
「はい……」
うっすらと目を開けた羊一に、朝陽はささやいた。
「『羊一、もう寝ていいよ』」
朝陽のその一言で、羊一はすっと眠りに落ちていった。
穏やかな羊一の寝顔を見るのは、きっとこれが最後になるだろう。
そう思いながら、朝陽は羊一を一心に見つめていたが、だんだんと朝陽にも眠りの時が訪れようとしていた。
「本当に、羊一のそばが、僕の一番安心できる場所だったよ」
その言葉は、羊一に届かないからこそ、言えた言葉だった。
(おやすみ、そしてさようなら、羊一)
そのまま朝陽は、羊一の腕の中で眠りについた。
(あぁ、またこの夢だ)
夢の中で目を開けると、朝陽はすぐにわかった。
よく見る、夢がある。いつも霧に覆われたような、太陽のない空のような世界。この世界はいつも静けさに満ちていて、何の音さえしない。
(いつもあの人は、僕を待ってくれている)
一歩ずつ、朝陽は奥へ奥へと進む。どこまで続いているのかわからない、この霧の中を進んでいくと、しだいにあの人の背が見えてきた。今日も変わらない、顔も見えないほどの長い髪に、大きな白の装束。
朝陽が後ろに立つと、その人は朝陽を振り向いた。
(…いつも、なにか話したそうなのに、何も聞こえない)
今日も、いつもと同じだと思っていた。
《おかえり、朝陽》
まるで静かな雪が降り積もっていくようなその声を、朝陽は思い出せなくなるほど昔から、本当は知っていた。
「……話せたの?」
驚いた朝陽がそう問うと、なんでもないことのようにその人は言った。
《わたしはいつも、話していたよ。最近の君には、届かなかっただけさ。昔はよく、話していただろう?》
「……そう」
朝陽はいつもと同じように、その人の隣に三角座りをした。
「なにしているの?」
《見守っているんだよ》
その人の前には、いつものように水盤が置かれていた。
「なにを?」
同じように朝陽も覗いてみたけれど、自分の顔が映っているだけで何も見えなかった。
《わたしのかわいい子どもたちを。君も、その一人だね》
そう言ってその人は、無機質な手で朝陽の頭を撫でた。
《また君に会えて、わたしはとてもさみしいよ》
「……さみしいの?」
朝陽が問い返すとその人は、自分を見上げる朝陽を愛おしそうに、でも悲しみを含んだ眼で見つめた。
《あぁ、とてもさみしいよ》
「……そっか」
《あぁ》
そのまま二人とも何も言葉を交わさず、ただ時間だけが流れていった。
《あぁ、君は、こんなところまで来てしまったんだね》
その声に朝陽が膝から顔を上げると、この世界のありようが変わっていた。
(霧が、なくなっている)
今まではうっすらと霧がかかっていて、自分の周辺はかろうじて見える程度だった。
けれど今は霧はなくなり、はっきりとこの世界が見えた。
(まるで、深い海の底みたい)
静かで、暗くて、どこまで続くのかもわからない深淵の世界。
ここは、ほかの誰もいない。息をひそめてなくても、呼吸がしやすい。
ここは、とても落ち着く。
《さぁ、もうお帰り。君を待っている人がいるよ》
その言葉が合図だったかのように、遠く上の方からわずかな光がさした。
「ね、また来てもいい?」
立ち上がった朝陽がそう聞くと、その人は憐れむようなまなざしで、朝陽に応えた。
《いつでも、君が望めばここに来れるよ。わたしはいつも、ここにいる。わたしはいつも、君のそばにいる》
「…わかった」
そうして朝陽はわずかな光へと手を伸ばし、そして夢から覚めていった。