隠し事
「やはりお前の作るものはうまいな。羊一?」
「恐れ入ります」
絢斗のグラスに、羊一は滑らかに水を注いだ。
羊一がケーキを持って屋敷に戻ったあと、絢斗と朝陽はそのまま軽くティータイムを、羊一とじいは夕食づくりに勤しんだ。
(まさかお泊りになられるとは…)
てっきり絢斗は今日中に帰るものだと、羊一は思っていた。しかしティータイム前に帰りの時間を尋ねた羊一に絢斗は、「僕は今日泊まっていくぞ」と当然のように告げた。おかげで羊一は、大慌てで夕食の準備を進めることとなった。
絢斗が称賛した夕食──エシャロットのスープに、オリーブがたっぷり入った生ハムのサラダ、メインにステーキ。こちらはタイム、ローズマリーなどを束にしたものを添えて焼いており、絢斗は味も香りも楽しんでいるようであった。
「そうだ、これからは朝陽に会いに来るついでにお前の料理も食べてやろう。腕が鳴るだろう?」
「御冗談を。たいそうお忙しいとお聞きしておりますよ。早めにご帰宅なさらないと滞ることも多いでしょうに」
「なに、時間などなんとでもできる」
絢斗と羊一がけん制し合うのを見つつ、朝陽は黙々と食事をとった。
(二人とも、楽しそう…)
スープを掬っていたスプーンをプレートに置いた朝陽は、自分のために用意された食事を眺めた。朝陽の前には、エシャロットのスープ、無花果とチーズのサラダ、白身魚のムニエルが並んでいる。二人の好みに合わせ、羊一はスープ以外は別に用意していた。
(また、羊一に面倒をかけちゃった…)
せっかく羊一が作ってくれのに、半分も食べ終わっていない。
美味しくて、食べるといつも幸せな気持ちになれるのに、今日はなかなか食べ進まない。
ちらりと二人を見ると、絢斗が羊一の腕を掴み、何やら笑い合いながら話している。
「遠慮はいらない、僕に食べてもらえるなんて嬉しいだろう」
「いいですって、口に合わないとうるさそうですし」
「そんなとはない、いつも美味しく食べているだろうが」
「本家でそんなの、たらふく食べているでしょう」
「それはそれ、これはこれだ」
「でしたら本家にお伺いしたときに、作りますので…」
(絢斗が来ると色々面倒くさいんだよな)
朝陽からすると、和気あいあいとしているように見える二人であるが、羊一はやんわりと断ろうとしていた。
絢斗のことは、東雲家ということを除いても、人として羊一は好ましく思っている。ただ、会うたびに何かをけしかけられたり、急なオーダーに応えなくてはならないこともあるため、少々骨が折れる。なにより──
(朝陽と過ごす時間が減るのはいやだ)
これが本音である。
対外的には『東雲家の長男』の仮面をつけている絢斗であるが、羊一の前では素の絢斗でいる方が多い(叱られる時以外)。それゆえ羊一からすれば、朝陽より絢斗の方が何倍も手がかかると思っている。
「なるほど。では本家に戻ってくるか?」
「たまに用事で伺うこともありますので、その際に」
「では、いつ来る?本家にいるようにしよう」
「ですから用事があるときに。もしくは凪に作らせてください」
「それはそれ、これはこれだ」
「またそんなこと言って…」
その様子を見て、朝陽はテーブルの下できゅっと手を結んだ。
(兄さまは、食べれなくなったもんね)
本家ではいつも、お抱えのシェフが食事の準備をしていた。忙しい両親と食事を共にする機会は少なく、絢斗も各所に顔を出さなければならず、食事は朝陽ひとりで食べるのが日常だった。
でもたまに、柊家に招かれた際や、シェフが本家主催のイベントに専念しないといけない際に、羊一が食事を用意した。そういうとき、絢斗はどんなに忙しくても早く帰ってきて、二人で食事を取った。絢斗が羊一に無理を言って食事の席につかせ、三人で食事をとることもあった。和やかで、みんなで笑い合いながら過ごした食事の時間──その時間が、朝陽は好きだった。
けれど離れて暮らすようになった今、その時間を過ごす機会は必然的になくなった。そして──
(それを奪ったのは、僕だ)
自分のせいで、跡取りとして背負うものは、絢斗がすべて背負ってくれている。自分は絢斗の力になることさえ難しい。そのうえ羊一、絢斗にとって数少ない気心の知れた友人とも、離れさせてしまった──誰かと一緒にいることが好きな人なのに。
絢斗だけじゃない。自分のせいで、羊一もこの別宅で暮らすことになった。羊一もこちらに越してきたことで、置いてきたものは一つ二つではないだろう。
朝陽は自分のせいで、自分のそばにいる人たちが何をなくしたか、何を犠牲にしてきたか──考えていくと止まらなかった。
そう思うと、朝陽はまるで暗闇に自分が覆われていくような、どこかに沈んでいってしまうような気がした。
(暗くて、寒い…)
朝陽はそっと自分の存在を確かめるかのように、腕を強く掴んだ。
体が温まらないんじゃない、芯の部分から冷えていくようだ。それに追随するように、体もどんどん重くなっていく。本当はそんなことないはずなのに、もう動くこともままならない。
それに、心の中でさっきから、あの声がする。
『…さひ、朝陽、朝陽…』
自分を呼ぶ声──それを
(僕は、ずっと前から知っている)
まるで自分の奥底から聞こえるかのようなその声に、朝陽は耳を澄ませた。
『──さひ、朝陽、こっちだよ』
(……そっちはとても、居心地がいいんだ)
その声に導かれるように、朝陽が目を閉じようとしたときだった。
「─さひ、朝陽?」
はっとして朝陽は目を見開いた。
「どうしました?…御口にあいませんでしたか?」
顔を上げると、朝陽の前に並ぶ皿を一瞥した羊一が、気遣うように尋ねてきた。
「ううん、美味しいよ…」
朝陽は頭を振った。
(せっかく作ってもらったのに、食べられない…)
申し訳なさで、朝陽は顔を上げてられなかった。
(どうして僕は、いつも羊一の負担になってしまうんだろう)
羊一の作った食事は食べなければならない。小さい頃から言いつけられている。
羊一もきっとそれを気にして、朝陽が食べれるように、朝陽が食べたくなるように毎日工夫してくれている。
それなのに
(僕はそれさえもできない)
朝陽は、もうここから逃れたかった──絢斗が作った、この温かい空間から。
(兄さまがいるところは、いつも明るくて、僕は少し、苦しい)
朝陽が立とうとするのに気づき、羊一は朝陽の椅子を引いた。
「ごめん、今日はもう休むね。兄さま、せっかく来ていただいてるのにごめんなさい」
「かまわんよ」
すまなそうにしている朝陽に、そんなこと気にしてないと伝わるくらいに絢斗は軽く振舞った。
絢斗に一礼した朝陽が部屋に戻るまで送ろうとしたが、大丈夫だから、と断られてしまった。
(朝陽はどうしたんだろうか…もしかして今日の俺の振る舞いのせいだろうか⁉確かにちょっと我慢できない部分はあったが、最終的には何もなかったわけで)
「そんなに考え込む必要はない」
部屋に戻っていく朝陽をリビングの入り口から羊一が凝視していると、絢斗の声が後ろから聞こえた。
「…なにか、ご存知なのですか?」
食後のレモンティーを味わっていた絢斗は、少しだけ苦そうな顔をした。
「ま、明日にはわかる」
それ以上絢斗は、なにも話してくれなかった。
その後、食事を終えた絢斗をゲストルームに案内し、羊一はじいと後片付けをした。
(戸締まりと、明日の朝食の準備よし、と)
キッチンの明かりを消し、自室で休もうと廊下に出ると、リビングからほのかな光がもれていた。
(じいちゃんももう、自室に戻ったはず)
そっと入口から覗くと、暖炉の前でゆったりと過ごしている絢斗がいた。
「もう休むか?少々話しをしないか?」
羊一に気づいた絢斗は、読んでいた本にしおりを挟んだ。
「少々お待ち下さい」
パタパタとリビングを出た羊一がしばらくして、ほくほくとしてトレイを持って戻ってきた。トレイに乗っていたのは、ホットミルクとチョコレートだった。
「じいちゃんには内緒ですよ」
絢斗には、羊一が大人に隠れて楽しもうとしている子どものように見えた。
「懐かしいな」
思わず絢斗も、ふっと笑みがこぼれた。
「じいがいたら、こんな時間にって没収されるだろうな」
「もう歯磨きも終わったのにって言われますね」
「いつまで経っても、子ども扱いだな」
幼い頃の記憶をたどりつつ、絢斗と羊一は暖炉の炎をしばらく見つめた。
「ここでの暮らしは、どうだ?お前は行ったり来たりで忙しいだろう」
絢斗はあー、と羊一に口を開かせ、チョコレートを一粒つまみ、羊一の口の中に入れた。コロコロと口の中でチョコレートを味わいつつ、羊一は少し考えた。
「まぁ、鍵を使ってますのでその辺りは問題ありません。むしろ本家にいた時よりも時間が増えたので、ゆっくりさせていただいてますよ」
もぐもぐと食べつつ、羊一は答えた。
本家にいるときは、朝陽の執事として他の使用人の指揮や来客対応など、やることが多かった。けれどここに来てからは、朝陽に集中できる。それは羊一にとって、非常に喜ばしいことであり、求めていたことあった。
「そうか」
ふーふーと息を吹きかけてから、一口ホットミルクを飲んだ絢斗は、穏やかな表情をした。
(心配、してくださっていたんだろうな)
絢斗こそ東雲家の次期跡取りとして多忙な日々を送り、いつも周りから視線が集まり、その緊張感は羊一には計り知れない。中には、どうにか絢斗を跡取りの座から引きずり下ろせないかと、虎視眈々と狙う者の視線も少なくない数集まっている。
(俺にまで心を砕かなくってもいいんですよ)
いろいろ面倒くさいと思うところもある絢斗であるが、自分のことよりも他人のことを心配する、こういう一面があることを羊一はよく知っている。
「今日、ここに来れてよかったと僕は思ってたよ。朝陽も元気そうで良かった」
そう言うにしては、あまり晴れ晴れとしない絢斗の顔に、何か心配事でもあるのだろうかと、羊一は首を傾げた。
「全く、朝陽は本当に…。こんなにも僕たちが愛情を注いでも、朝陽はそれを遠慮する。今日だって見たか⁉僕が頬ずりするほど可愛がっても緊張していたぞ」
ふんっと全身伸びをした絢斗は、そのまま全身をだらけさせた。
「そう言ってあげないでくださいよ」
朝陽だって、したくてそうしているわけではない。絢斗も羊一も、痛いほどわかっている。それでも絢斗は、朝陽がそう思ってくれていないことが、自分に遠慮されていることが寂しくて、そうさせている自分が悔しくて、つい口から零れ落ちてしまった。
「東雲のことなど、僕に任せると思って朝陽は好きにしたらいいのさ」
ふて腐れたかのように、絢斗は羊一の腕にもたれかかった。
東雲家は本家の人間だからと言って、跡継ぎになれるわけではない。東雲を残すことを最優先とするため、その実力で判断される。過去にも、本家のよりも分家の人間にその素質があり、分家の人間が跡取りになったことがある。しかし今の東雲家一族の中では、周りに有無を言わない実力で、絢斗が後継者とされている。そしてそこに至るまでの絢斗の努力を、羊一は知っている。
「それでも、朝陽は気になさるでしょう。その、少しは遠慮してるところもあるかもしれませんが、純粋に兄としての絢斗様を慕う部分が大きいですよ」
少しのいたわりも含めつつ羊一がそう言うと、疑り深そうな目で絢斗は羊一を見た。
「……本当にそうか?」
朝陽のことになると、普段どこから湧き上がるのかと不思議に思うほどの自信を携えている絢斗も、少し不安に思うようだ。
「えぇ、本当です」
羊一がそう言うと、まぁそうだろうなと急に自信を取り戻したのか絢斗は尊大な態度になった。
「お前のところはどうなのだ?あの弟はあの弟で大変だろう」
「凪ですか?いえ、特には…しっかりした子ですし、凪を見ていると私の方が至らないのではと思ってしまうところもあるくらいで──絢斗、なんですかその顔は」
羊一が顔を向けると、絢斗は非常に渋い顔をしていた。
「お前の前ではそうなのか…」
「え?なんです?」
「いや、なんでもない」
がくりを首を落とした絢斗は、はぁ~と盛大なため息をついた。
「というか羊一、お前いつまで僕に敬語使うんだ?二人の時は別にいいだろ」
「いや、もう癖になってまして」
だから敬語じゃなくていいんだって。そう言って絢斗は、誤魔化すように笑った羊一の鼻をつまんだ。