襲来
(怒ってるのかな…)
朝陽は少し前を歩く羊一の後ろ姿をじっと見つめた。
さっきから羊一は黙ったままである。茶菓子に買ったチーズケーキの箱を抱え、家への雪道を黙々と二人で歩いている。街の喧騒からも離れ、誰もいない道を家へと向かう中、雪道を踏みしめる二人の足音だけが響く。朝陽は一歩進むごとに、足が重く、焦燥感と不安に襲われていくのを感じていた。
(さっき答えなかったのがいけなかったのかな、それとも他にも何か…今日だけじゃない、もしかしたら昨日までも何か…)
一緒にいるときに四六時中話をしているわけではない。なにも話さなくても、いつもなら心穏やかな時間を過ごせていた。朝陽自身、おかしいと思った。どうして自分は今、こんなに心の中がぐらぐらしているのか。
確かに、昨日じいと羊一が話しているのを聞いて以来、心細くなっている部分はある。でもそれだけでこんなにも、穏やかならぬ心地になるものだろうか。
「羊っ」
今すぐ確かめたくて、もう耐えきれなくて、それを払拭したくて、朝陽は前を歩く羊一のコートを掴んだ。
「はい?」
少しつんのめりそうになりながらも振り返った羊一は、いつも通りに朝陽に返事をした。
ただ今の朝陽には、感情の見えない羊一の外面も、その返事も、冷たくあしらわれたように感じた。
(どうして、こんなことだけで…)
自分でもわからない。羊一はただ、返事をしただけだ。わかってる。でもなぜか、朝陽の胸の中はさっきよりも不安と悲しみと惨めさと、負の感情がぐちゃぐちゃになって自分の中で混ざっていく。
「朝陽?」
羊一が呼ぶも、朝陽は返事もせずコートを強く握ったままうつむいたままだ。
(今日の朝陽は本当に、どうしたというのだろう)
羊一にはまるで、あの部屋から出た頃の朝陽が顔を出してきたように見えた。
「朝陽?」
もう一度羊一は朝陽を呼ぶも、朝陽はこちらを見ようともしない。
「…なんでもない」
それだけ言うと朝陽は、さっきよりもぎゅっと羊一のコートを強く握った。
(迷惑かけちゃいけないって決めたばかりなのに、全然…)
手を離さなくちゃ、早く帰らなくちゃけないと言われていたのに、僕のせいで足を留めさせている。早く、早く──。
そう責め立てる自分と、手を離したくない自分が朝陽の中で戦っていると、しばらく黙っていた羊一が口を開いた。
「朝陽、手を離していただけますか?」
その一言が、朝陽には羊一からの拒絶に聞こえた。
(やっぱり迷惑だった。怒ってたんだ。早く帰らなくちゃいけないのに、自分勝手に羊に甘えて…手を、離さなくちゃ──)
コートから手を離すとき、朝陽は手が震えそうだった。それくらいの心細さに襲われていた。
「ごめん…」
やっとの思いで羊一のコートから手を離した朝陽は、両手でリュックの持ち手を強く握った。そうしていないと、崩れてしまいそうだったから。じわじわと、目の奥がツンとしてくる。
(迷惑でしかない、お荷物でしかない。僕なんて…)
どうして、僕はこんなにも怯えているんだ。でも不安で仕方なくて、今ここから出れない。羊一が怒っているかと思うと、顔を上げることさえできない。
自分の中の不安に、朝陽が深く潜っていこうとしていると
「朝陽」
ふわりと、包まれた。
「謝ることなんてありません。離してくれないと、こうできなかったから」
羊一が、朝陽を抱きしめていた。優しいけれど、痛くならないくらいの力強さで。
「あーさーひ、どうしたのですか?」
「……」
「朝陽、やっぱり普通のチーズケーキの方がよかったですか?洋酒入りは、あまりお好きではないですもんね」
「……」
「今日は本当によく冷えますね。帰ったら温かいもの作ります。ココアにしましょうか?」
朝陽からの返事が返ってこなくとも、羊一は朝陽の頭を撫でながら、ゆっくりと話し続けた。
羊一は普段、こんな声を出さない。きっとほかの人になんて、絶対にしない。朝陽と二人だけのときの、本当に、ごくまれにしか聞けない甘くて、優しくて、胸に溶け込んでいくような温かい声。
(なんか、落ち着いてきた…)
羊一の腕の中は、本当に心が休まる。ただ僕が僕のままでも受け入れてもらえる。僕の居場所。今まではそうだった、けれどこれからはそうじゃなくなるかもしれない。
だからこそ、朝陽は黙ったままでいた。口を開けると、なんだかとても甘えてしまいそうだったから。
朝陽は遠慮がちに羊一の背に手を回し、抱かれたその胸に顔をすりつけた。
(でも、少しだけ。もうしないから、今日だけは許して…)
その様子を見て、羊一はほっとした。
(よかった、少し落ち着かれたようだ)
朝陽が離れるまでと思いそのままでいると、だんだんと朝陽は羊一に体を預けるようになっていった。
次第に羊一は、理性と戦うようになっていた。
(どうしよう、もうだいぶヤバい。これ以上はちょっと…。でもまだこのままでいた方が朝陽にとってはいいだろうし…)
羊一には、この空気の冷たさで自分の頭を冷やそうにも、遠くの街の景色を見て心を平静に戻そうにも、そんなものでは何ほどにもならなかった。羊一の手に伝わる温かさより、羊一に身を預けているその重みより、勝るものなんてあるのだろうか。
(俺は執事なんだから、俺は執事、俺は執事…)
自己暗示のように羊一がそう唱えていたものの、朝陽がもう少しだけ、とさっきよりも遠慮なく羊一の背に手を回すと、あっけなくそれは終わった。
羊一は自分の腕の中にいる朝陽の、自分の手の中で安心しきっている朝陽の、その甘えてくる様子が可愛くて、可愛くて仕方がなくて、心臓の高鳴りが抑えきれなかった。この壊れそうな存在を自分の手で守りたくて、でも壊してみたくもあって、もうどうしようもなかった。
(もう、これで終わり)
朝陽が羊一から離れようとしたが、羊一にがっちりと抱え込まれ、身動きがとれなかった。
「羊、ごめんね……羊?」
羊一を見上げた朝陽は、思わず息をのんだ。熱を帯びた目で、ほのかに赤く染まった頬で朝陽を見つめる羊一は、纏う空気も普段とは全然違っていて、羊一のその様に朝陽は捕えられてしまった。
「朝陽」
羊一は朝陽の髪を撫でていた手を朝陽の顔に添え、そのまま朝陽へと顔を近づけた。
(なんか、羊が近い──)
あともう少し、鼻先がくっつきそうなところで
「…ッわ⁉」
頭上から大量の雪が降って来た。
(…雪解けのせいか?)
羊一が見上げた先の木の枝は、不自然なほどに大きく揺れていた。
「羊、前っ」
「え……っぶ」
朝陽の声に前方を見ると、なにかが羊一の顔にクリーンヒットした。
(……は?雪?)
どうやらどこかからか、雪玉が投げられたようだ。顔にかかった雪を払い、羊一はあたりを見渡した。
(いったいどこから──?)
周りは一面雪道と、道沿いに植わっている木々ばかり。木々の後ろに隠れているとあれば、なかなか見つけるのは困難。加えて、魔力が込められているものであれば元を察知すればよいが、投げ込まれているのは何の変哲もないただの雪。
「朝陽、こちらへ」
警戒しつつ、羊一は朝陽を左わきに抱えた。
「少しの間、静かにしていてくださいね」
周囲から目を離さないままの羊一が、足を軽く踏み鳴らすと、羊一の影大きく膨らみ、あっという間に羊一と朝陽を包んだ。
(すごい、羊。いつもまにこんなことできるようになったんだろう)
それは、今まで朝陽が見たことのない羊一の魔の力であった。
そうしている間も、一定の間合いで雪玉が飛んでくる。投げられるたび、雪玉は大きくなってきているようだ。そして段々と投げ込まれる方向が定まって来た。
「羊、あれ」
朝陽が指さす方を見ると、前方から小さななにかが羊一たちの方へと向かってくる。
「あれは…」
そこには、小さな雪うさぎが二体いた。一歩ずつ、近づきながら羊一たちめがけて雪玉を交互に投げ込んでくる。しかも道や木々に積もった雪を吸収し、どんどんと体を大きくしながら。
「あの方は本当に、おちゃめなことをしてくる」
羊一が誰に言うわけでもなく、ぽそっとつぶやいた声が朝陽には聞こえた。
二足歩行で近づいてくるうさぎ目がけて羊一が火を放つと、うさぎたちは素早く木々の奥の、森の中へと跳んでいった。そして放たれた火が消えるのを待って、また戻ってきては羊一たちに雪玉を投げつけてくる。森に入るたびに、その図体は大きくなっていく。
「朝陽、すみませんがしばらくこちらでお待ちいただけますか。すぐに戻ってまいります」
「あ…」
羊一は朝陽にそう言うと、返事も聞かずに自分の影の中から出ていった。二体のうさぎのうち、森へと入っていったうさぎを追いかけて。
(…いつもこうして、僕は守られているだけ)
影の中から出ようにも、手で押してみても、押した分だけ影が伸び、ここから出ることさえままならない。
もう一体の人を優に超えるほどの大きさまで成長したうさぎは、羊一がいなくなったことで戦意喪失したのか、朝陽が入った影をつついては興味深そうにしている。
けれどこのうさぎに朝陽がなにか干渉できるわけもなく、朝陽はその場にしゃがみこんだ。
(羊、いつ戻ってくるんだろう)
さっきまでの心の温かさが、だんだんと薄れていく中だった。
『おかえり、朝陽』
「──え?」
確かに後ろから、朝陽は誰かにささやかれた。
振り返れど後ろには誰もおらず、前方の巨大なうさぎはただ不思議そうな顔をして朝陽を見下ろしているだけだった。
(今の、何──?)
あたりを見渡せど、人影など全く見られない。
すると横の木々が大きくざわめき、姿を現したのは、羊一が追いかけていったうさぎであった。まるで投げ飛ばされたように、朝陽のそばにいたうさぎに激突し、二体はその衝撃のまま形が保てなくなったようだ。その結果、朝陽のそばには巨大な雪山ができあがった。
「朝陽、お待たせしました」
少し息を切らせた羊一が朝陽の元に戻り、影から朝陽を出した。少し離れた場所に移動して、羊一が指を鳴らすと影は羊一の足元へ戻り、雪山はそのまま道に崩れていった。その様子を確認し、羊一はふっと息を漏らした。
(あの方のお遊びには、毎回骨が折れる)
今回のうさぎもそうだ。ただ魔の力で発生させたもので攻撃しても意味がなかった。在るものと無いものを掛け合わせることで、ようやく対処法となった。
「朝陽、帰りましょか」
(少し遅くなってしまったから、きっとお小言をいわれるだろうな)
朝陽の手を引き家への道を歩む羊一の顔は、さっきよりも暗く見えた。
(苦手なんだろうか?)
朝陽からすると、家柄は違えど、羊一が引け劣るとは思えなかった。
「ただいま」
家に入るといつもじいが待ってましたと言わんばかりに迎えに出てくるが、今日はそれがない。家の中もランプも灯らず、なんだかシンとしている。
「朝陽、コートを」
「うん」
羊一に促されて朝陽は脱いだコートを渡し、リビングに入ろうとしたところだった。
上から金属が擦れ合うような音がして見上げると──朝陽の頭上には数十本のカラトリーが待ち受けていた。
「朝陽ッ‼」
羊一が朝陽を引き寄せ、その身で覆いかぶさると
「はーい、ゲームオーバー」
その声で、朝陽を狙って落ちてきたカラトリーは羊一に突き刺さる直前で動きを止め、紐が切れたかのようにバラバラと床に散らばった。
「家の中だからって気を抜いたな、羊一」
羊一がその声のする方を見ると
「お遊びが過ぎます、絢斗様」
暖炉の前のソファでゆっくりと紅茶と味わう、絢斗がいた。
「なに、可愛い弟を預けているんだ。お前の腕が鈍っていないか確かめるのは当然のことだろう。な、じい?」
もう一杯紅茶を持て、と言わんばかりにティーカップを掲げた絢斗からカップを受け取ると、じいはキッチンへと向かった。
「さて、久しいな。朝陽」
羊一に支えられながら立ち上がると、朝陽は絢斗に向き直った。
「絢斗兄さま、お久しぶりです」
その声に、にっこりとした笑みを絢斗は見せた。