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執事の羊くん  作者: 碧瀬まど
第2章

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あの日のこと

過去の記憶、いつまでも色褪せない──そして続く今。

降り立ったのは、蝉の鳴き声が耳をつんざく暑い夏の日だった。

長く続くあぜ道と、山が連なるばかりで、きっと本家から遠く離れた場所だということしかわからなかった。

周りを見回すと、さっきまで作業していたのだろう。農具が無造作に置かれている。いや、というより、急遽この場を離れなくてはいけなくなり、そのまま置き去りにされたと言ってもいいだろう。まるでなにかから逃げるために。

誰もいないあぜ道に立ち、少年は空を見上げた。どこまでも続く夏空を泳ぐ鳥が1羽。


「……いいな、自由で」


どこまでも己の気の向くままに飛んでいくのは、どんな気持ちだろうか。

けれど少年にはひとかけらも想像できなかった。

首が痛くなるほどボーっと見上げていると、どさりと音がした。

ふ、と目を向けると男が二人。

一人は、憲兵服を着た男。もう一人は、元はきっと良いものであっただろう、ボロボロの着流し姿で憲兵を見下ろしている。


(あれだろうか……)


こんなに近くまで来るつもりはなかった。けれど、今更遠ざかるわけにもいかない。逃げたと思われれば、追われることになるかもしれない。

しばらく動かないままでいると、着流し姿の男は顔についた血を袖でぬぐった。


(鮮血を誤魔化せるような色でもないのに)


なんとなく、なににも無断着な人かと思った。


「どうしたの?迷子?」


だから、その目が自分に向くとは思わなかった。

じっと男は少年を見つめる。子どもに向ける、その優し気な笑みは嘘か本当か。

なにか言うべきか。いや、この男に関わってはいけない。では逃げるか──。

逡巡している間に、男は少年の前にしゃがみ込んだ。


「ごめんね。怖がらせた?でも君にはなにもしないから、安心してね」


男は弱々しく笑いかけてきた。

その笑みは、父にも、自分にも似ていない。

だけど確かに、弟が浮かべた笑顔と同じ影を見た。


「……さっきの、あの人は、死んだの?」


だから、話してみたくなった。


「死んでないよ。ただ、少しの間動けなくなっただけ」


首だけ後ろに向けた男は、憲兵を憐れむように見て、また目の前の少年に視線を戻した。


「俺のこと、誰にも言わないでもらえるかな?」

「言わない。言う相手が、僕にはいない」


きっぱりと断言した。

言わない、というより、言えないの方が正しい。

この時代で誰とも関わるつもりはなかった。


「そっか」


少年の返事に安心したのか、男は立ち上がった。

着物を手で払う男は、華奢である様がよくわかる。


「ねぇ、どこにいくの?」

「……さぁ、どこだろうね」


強く吹く風が、男の背を丸くさせる。

悲しみに覆われた男は今にも飛んでいきそうで、でもどこにも飛んでいけない。


「俺にも、わからないよ。どこに行くでもなく、彷徨ってる。ただ、それだけだよ」


もう履き古した雪駄を引きずって、男は少年からゆっくりと離れていく。


(がい)を、探しているの?」


どうして知っているのかと、驚愕とともに振り返った男の目から涙がこぼれ落ちた。

少年も、大の大人が泣いていることに驚きを隠せない。


「……あれ?」


その少年の様子で、男は己が泣いていることに気づいたようだ。


「蓋……、そう、探しているのかもしれない。でも、もうわからない……」


涙を拭うこともない男は、また少年の前に戻って来た。


「君は──、そうか。君の目は、百合枝にそっくりだ。あの子の、子どもかい?」


男はまるでいとし子に触れるように、少年の目元をそっと撫でた。


「違う、孫だ」

「そう……、あの子はどうしてる?」


男は本当に、弟によく似ている。

悲しみや寂しさを押し殺すも、なおも全身で悲鳴を上げるあの子に。


「弟を、継承者を部屋に閉じ込めている。あなたが、こんなことしたせいだ」


少年は目の端に移る憲兵を見た。死んではいない、けれど相当な痛手を負っているはずだ。

少年の頬から手を離した男は、申し訳ない顔をした。


「あの子には、悪かったと思っているよ。俺のところへ来てすぐに、一緒にいられなくなったから」

「だったら、戻って」

「それはない」


それまで弱々しく話していた男が、はっきりと言った。


「家には、戻らないよ」

「どうして……、あなたさえ戻ってくれたら」


きっと弟は、今の境遇に陥らない。


「あの家が、蓋を殺した。見殺しにした。俺の、蓋を……」


そのまま男は、また泣き始めてしまった。

すすり泣く男に、少年はそれでも告げた。


「もう会えないのに探すなんて、意味がない」

「わかってる、でも、そうせずにはいられないんだ」


男はその身を小さくし、震えながら泣いている。

何者をも凌駕する力を持っているのに、ただ一人がいないだけで、世界から取り残されたように。


(みんな、どうして諦めないんだろうか)


ここに来る前に、あの部屋に行った。

外から何重にも錠がされており、扉から入ることはできなかった。

だから試作品の鍵で、初めて中に入った。

ベットのそばにあるランプの光を頼りに部屋を見渡すも、殺風景なものだった。

部屋の四隅には蓋が作った札が、弟が勝手に部屋から出られないように貼られている。

ベットで寝ていた弟は、さっきまで泣いていたんだろう。目元が赤い。

その手には、羊一が幼い頃に使っていたブランケットが握られていた。

弟が今、誰よりも何よりも、頼りにしている羊一。


(羊一は馬鹿だ)


ランプの下には、黒焦げで、形も揃ってない無骨なクッキーが飾られていた。

今日も羊一は弟の部屋に忍び込み、お祖母様にステッキで殴られていた。

すぐに父と玄一が止めに入るも、玄一はお祖母様から羊一への折檻を命じられていた。

きっと今頃羊一は、地下室に閉じ込められているだろう。次はどうやってバレないように忍び込むか、どうすればあの部屋から弟を連れ出せるか考えながら。

真っ直ぐに、弟を救い出そうとする羊一。

それを厄介に思いつつも、羊一の力は利用したいお祖母様。

お祖母様に羊一が突っかかっる度に、止めに入る父と玄一。

もう、何度見たことだろうか。

それを横目に、自分には関係ないことだと言い聞かせてきた。


(お祖母様の、ご機嫌を害さないように生きていれば、面倒なことにはならない)


そう、だからこそ自分は弟を見捨てたはずだったのに──。

淡々と与えられる課題をこなして、偽りの当主候補として過ごしていけばよかった。

けれど、つまらない。なににも心が動かない。いつも周りを見渡して、見下して、その場にあった振る舞いをする。


「君はもう少し、自分の好きなようにしてみてはどうかな?」


温室でひとりで本を読んでいると、管理人さんが隣に腰かけた。

作業がひと段落着いたのだろう、軍手を外してから、麦わら帽子を少年に被せた。


「好きなことなんて、ない」


少年の冷めた言葉に、そうかなぁと管理人さんは首を傾げた。


「例えばその本、好きでしょ?よく読んでる。表紙ももう、取れそうなくらいに」

「これは──」


これはまだ温かな日々を過ごしていた時のもの。

兄弟ともにまだ魔の力の発現はなく、東雲も、柊も、力の継承も、そんなことを気にすることなく無邪気に過ごしていた。

この本を読んでやると、弟は喜んだ。何度も呼んでとせがまれて、もう飽きたのになんて思いながらも何度も読んでやった。


(最後に弟を見たのは、いつだっただろう)


ひと月前?いや、もっと、もう季節が移り変わる前に、羊一が弟に食事をとらせようとしていた。


(“お兄さま“)


まだ小さな弟が、それよりもっと幼いころに持ち合わせていた明るさは、そこにはなかった。


(だからって僕が動く必要はない)


可哀想な弟。力の継承だけでなく、羊一から魔力をもらわないと生きてもいけない。

羊一と久々に会えたと思っても、魔力を吸収すればすぐに引きはがされる。

毎日、ひとりで、あの部屋で暮らすのは、どんな気持ちだろうか。

それに引き換え、自分はこれまで周りの顔色を窺って、表面上はつつがない日々を送っていた。

見たくないものは、見ないようにしてきた。みんな弟ばかり見ているから、自分を見る暇もない。

それが寂しくもあったけど、父や母をこれ以上悲しませたくなかった。『いい子』でいなければいけないと、自分を律してきた。

けれど──


「僕も、好きなようにしていいんでしょうか?」


ずっと誰かに、そう言ってほしかったのかもしれない。


「誰の許しもいらないよ。君は君の好きなようにすればいい。どうしたいのか、一度考えてごらん」

「僕は──」


あの頃に戻りたくて、仕方がない。みんなが笑顔で、なんの枷もない頃に──。

でもそれがどれほど難しいことか、わかっている。

口をつぐんだ少年の肩に、管理人さんがそっと手を乗せた。


「いいんだよ、自分の気持ちに正直になっても。誰も君を責めたりしない。誰も君を怒らない。誰も君のすることに傷つかない」

「でも──」


自分が『いい子』じゃないと、周りをきっと困らせる。自分の言動で誰かを悲しませるくらいなら、自分が我慢すればいい。


「大丈夫。君が君らしくあることは、周りを照らすことになるから」

「……え?」


少年が見上げると、管理人さんが優しく微笑んだ。


「僕は君が、また昔のような笑顔になったところが見たいんだ。君は君らしくいればいい。それだけで、周りを救うことになる。だから、少しずつでいいから、考えてみて?君は、どうしたい?」


管理人さん少年の両手を包むと、少年の目から一粒の涙が零れ落ちた。

零れた涙が、自分の心を縛っていた鎖を溶かしていくようだった。


「……前みたいに、戻りたい。誰かに、なにかに、恐れることなく、ただみんなで笑いながら過ごせるように」

「だったら、そうしていこう?」

「でも、お祖母様が許してくれない。絶対に」


少年が首を振ると、そうだね、と管理人さんは言った。


「もちろん、困難な状況も、心が苦しくなることも起こるかもしれない。そうしたら、その時どうしたらいいか一緒に考えよう。だって君は、叶えたいことがあるんだろう?」

「……はい」

「じゃあ、やってみよう。きっと今より楽しくなる。もし叶わなくても、またやってみればいいさ。時間も方法も、君なら作れるだろう?」


こくりと少年が頷くと、管理人さんは少年の涙を拭ってから、仕事に戻っていった。

もらった麦わら帽子は今も、部屋に飾ってある。この気持ちが色あせないように、いつでも見れるように。


だから、この時代までやって来た。

確かめたかった。どうして今、弟が幽閉されないといけないのか。

先代の”全霊服従”を、なにが狂わせ、なにを犯し、なぜそれが今に繋がっているのか──。


「ねぇ、君。君の、名前は?」


泣きながらも顔を上げた男は、少年に尋ねた。


「………絢斗」






ふっ、と目を開けると、まだ夜明け前らしい。カーテンの隙間から、薄紫の空が見える。


(あぁ、またあの夢か……)


うっかりデスクで眠ってしまっていたらしい。あらかた片づけた書類が床に散乱している。


「お目覚めですか?」


声の方を見やると、ソファに凪がちょこんと座っていた。


「……いつ戻った?」


確か昨晩遅くに仕事が来たと、出て行ったはずだ。


「今、戻ったところです」


ニコリと笑う凪は、昔の自分を見ているようだ。”お人形”だった頃の、自分を。


「もう少し、眠る」

「はい」


寝室に向かう絢斗の後ろを付いてきた凪は、絢斗がベットに入ると扉の横に控えた。多分、起きるまでそうしているつもりだろう。


「凪」

「はい、絢斗様」

「こっちに来なさい」


絢斗は少しだけ起き上がって、自分の隣の空いたスペースを叩いた。




「あの、絢斗様?」

「なんだ?」

「ぼくは今、どうなっているんでしょう?」

「僕の抱き枕になっている」


どうせ自分が起きるまで控えているつもりなら、一緒に寝ろと絢斗は凪をベットに入れた。


「服が皴になってしまいます」

「起きてからどうにかすればいい。お前も寝ていないのだろう、しばらく横になってなさい」


弟よりもまだ幼いこの少年は、羊一に似ているところもあるが、羊一と違って愛らしさがある。


(”君もまた、鳥かごの中でもがいているんだね”)


あの人の言葉が、忘れられない。

あの日以来、何度もあの人に会いに行った。本当はそんなことしてはならないと、わかっていたのに──。

ぽつりぽつりと、昔の話をしてくれた。誰に聞かせるでもなかったけど、それでもあの人にとって自分の存在が、少しの間だけでも慰めになっていたと思いたい。

絢斗も、あの人といると安心した。あの人といると孤独じゃなかった。

けれど、


(”『もう、僕に会いに来てはいけないよ』”)


最後に会ったとき、もう追手から逃げられないとわかっていたんだろう。

力を使われたのはわかっていたのに、受け入れがたくて、会いに行こうとして、業火に身を焼かれた。

過去を変えた報いも、その時一緒に受けた。背中の痕は、一生消えることはないだろう。


(あの人も、随分長く、鳥かごの中にいたのだろう)


そして鳥かごから出て、羽ばたこうとしたとき、壊されてしまったのだろう。


「絢斗様?どうされました?」


腕の中で自分を見上げる少年には、弟とは違う愛おしさも、そして負い目も後悔も、持て余してしまう。


「なんだ?凪」


頭を撫でてやると、少年は甘えるように寄ってくる。


「絢斗様は、お優しいですね」

「お前にはそうかもな」


くすくすと笑いながら、少年は絢斗の背中に手を回した。

こんなこと、自分にしかしてこないことを絢斗自身よくわかっている。

幼い頃から厳しい環境に身を置き、耐えることが”普通”になった少年は、絢斗と二人のときにしか甘えられない。

他の誰をも、信用していないから。


(僕は、この鳥かごから、出ようと思えば出れるかもしれない。けど──)


二人は別邸に行ったから、例えまだ鳥かごの中でも、少しは羽を休めることができるだろう。

だがこの少年はどうだ。今や羊一より、朝陽より、鳥かごの中で自らを傷つけながらもがいているのは、目の前の少年に違いない。


「ぼく、お願いがあるんです」

「なんだ?言ってみろ?」


だからせめて、自分だけは優しくありたかった。少年を救いたかった。例えそれが、自分のためだったとしても。


「兄上のところに、行きたいんです」

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