あの日のこと
過去の記憶、いつまでも色褪せない──そして続く今。
降り立ったのは、蝉の鳴き声が耳をつんざく暑い夏の日だった。
長く続くあぜ道と、山が連なるばかりで、きっと本家から遠く離れた場所だということしかわからなかった。
周りを見回すと、さっきまで作業していたのだろう。農具が無造作に置かれている。いや、というより、急遽この場を離れなくてはいけなくなり、そのまま置き去りにされたと言ってもいいだろう。まるでなにかから逃げるために。
誰もいないあぜ道に立ち、少年は空を見上げた。どこまでも続く夏空を泳ぐ鳥が1羽。
「……いいな、自由で」
どこまでも己の気の向くままに飛んでいくのは、どんな気持ちだろうか。
けれど少年にはひとかけらも想像できなかった。
首が痛くなるほどボーっと見上げていると、どさりと音がした。
ふ、と目を向けると男が二人。
一人は、憲兵服を着た男。もう一人は、元はきっと良いものであっただろう、ボロボロの着流し姿で憲兵を見下ろしている。
(あれだろうか……)
こんなに近くまで来るつもりはなかった。けれど、今更遠ざかるわけにもいかない。逃げたと思われれば、追われることになるかもしれない。
しばらく動かないままでいると、着流し姿の男は顔についた血を袖でぬぐった。
(鮮血を誤魔化せるような色でもないのに)
なんとなく、なににも無断着な人かと思った。
「どうしたの?迷子?」
だから、その目が自分に向くとは思わなかった。
じっと男は少年を見つめる。子どもに向ける、その優し気な笑みは嘘か本当か。
なにか言うべきか。いや、この男に関わってはいけない。では逃げるか──。
逡巡している間に、男は少年の前にしゃがみ込んだ。
「ごめんね。怖がらせた?でも君にはなにもしないから、安心してね」
男は弱々しく笑いかけてきた。
その笑みは、父にも、自分にも似ていない。
だけど確かに、弟が浮かべた笑顔と同じ影を見た。
「……さっきの、あの人は、死んだの?」
だから、話してみたくなった。
「死んでないよ。ただ、少しの間動けなくなっただけ」
首だけ後ろに向けた男は、憲兵を憐れむように見て、また目の前の少年に視線を戻した。
「俺のこと、誰にも言わないでもらえるかな?」
「言わない。言う相手が、僕にはいない」
きっぱりと断言した。
言わない、というより、言えないの方が正しい。
この時代で誰とも関わるつもりはなかった。
「そっか」
少年の返事に安心したのか、男は立ち上がった。
着物を手で払う男は、華奢である様がよくわかる。
「ねぇ、どこにいくの?」
「……さぁ、どこだろうね」
強く吹く風が、男の背を丸くさせる。
悲しみに覆われた男は今にも飛んでいきそうで、でもどこにも飛んでいけない。
「俺にも、わからないよ。どこに行くでもなく、彷徨ってる。ただ、それだけだよ」
もう履き古した雪駄を引きずって、男は少年からゆっくりと離れていく。
「蓋を、探しているの?」
どうして知っているのかと、驚愕とともに振り返った男の目から涙がこぼれ落ちた。
少年も、大の大人が泣いていることに驚きを隠せない。
「……あれ?」
その少年の様子で、男は己が泣いていることに気づいたようだ。
「蓋……、そう、探しているのかもしれない。でも、もうわからない……」
涙を拭うこともない男は、また少年の前に戻って来た。
「君は──、そうか。君の目は、百合枝にそっくりだ。あの子の、子どもかい?」
男はまるでいとし子に触れるように、少年の目元をそっと撫でた。
「違う、孫だ」
「そう……、あの子はどうしてる?」
男は本当に、弟によく似ている。
悲しみや寂しさを押し殺すも、なおも全身で悲鳴を上げるあの子に。
「弟を、継承者を部屋に閉じ込めている。あなたが、こんなことしたせいだ」
少年は目の端に移る憲兵を見た。死んではいない、けれど相当な痛手を負っているはずだ。
少年の頬から手を離した男は、申し訳ない顔をした。
「あの子には、悪かったと思っているよ。俺のところへ来てすぐに、一緒にいられなくなったから」
「だったら、戻って」
「それはない」
それまで弱々しく話していた男が、はっきりと言った。
「家には、戻らないよ」
「どうして……、あなたさえ戻ってくれたら」
きっと弟は、今の境遇に陥らない。
「あの家が、蓋を殺した。見殺しにした。俺の、蓋を……」
そのまま男は、また泣き始めてしまった。
すすり泣く男に、少年はそれでも告げた。
「もう会えないのに探すなんて、意味がない」
「わかってる、でも、そうせずにはいられないんだ」
男はその身を小さくし、震えながら泣いている。
何者をも凌駕する力を持っているのに、ただ一人がいないだけで、世界から取り残されたように。
(みんな、どうして諦めないんだろうか)
ここに来る前に、あの部屋に行った。
外から何重にも錠がされており、扉から入ることはできなかった。
だから試作品の鍵で、初めて中に入った。
ベットのそばにあるランプの光を頼りに部屋を見渡すも、殺風景なものだった。
部屋の四隅には蓋が作った札が、弟が勝手に部屋から出られないように貼られている。
ベットで寝ていた弟は、さっきまで泣いていたんだろう。目元が赤い。
その手には、羊一が幼い頃に使っていたブランケットが握られていた。
弟が今、誰よりも何よりも、頼りにしている羊一。
(羊一は馬鹿だ)
ランプの下には、黒焦げで、形も揃ってない無骨なクッキーが飾られていた。
今日も羊一は弟の部屋に忍び込み、お祖母様にステッキで殴られていた。
すぐに父と玄一が止めに入るも、玄一はお祖母様から羊一への折檻を命じられていた。
きっと今頃羊一は、地下室に閉じ込められているだろう。次はどうやってバレないように忍び込むか、どうすればあの部屋から弟を連れ出せるか考えながら。
真っ直ぐに、弟を救い出そうとする羊一。
それを厄介に思いつつも、羊一の力は利用したいお祖母様。
お祖母様に羊一が突っかかっる度に、止めに入る父と玄一。
もう、何度見たことだろうか。
それを横目に、自分には関係ないことだと言い聞かせてきた。
(お祖母様の、ご機嫌を害さないように生きていれば、面倒なことにはならない)
そう、だからこそ自分は弟を見捨てたはずだったのに──。
淡々と与えられる課題をこなして、偽りの当主候補として過ごしていけばよかった。
けれど、つまらない。なににも心が動かない。いつも周りを見渡して、見下して、その場にあった振る舞いをする。
「君はもう少し、自分の好きなようにしてみてはどうかな?」
温室でひとりで本を読んでいると、管理人さんが隣に腰かけた。
作業がひと段落着いたのだろう、軍手を外してから、麦わら帽子を少年に被せた。
「好きなことなんて、ない」
少年の冷めた言葉に、そうかなぁと管理人さんは首を傾げた。
「例えばその本、好きでしょ?よく読んでる。表紙ももう、取れそうなくらいに」
「これは──」
これはまだ温かな日々を過ごしていた時のもの。
兄弟ともにまだ魔の力の発現はなく、東雲も、柊も、力の継承も、そんなことを気にすることなく無邪気に過ごしていた。
この本を読んでやると、弟は喜んだ。何度も呼んでとせがまれて、もう飽きたのになんて思いながらも何度も読んでやった。
(最後に弟を見たのは、いつだっただろう)
ひと月前?いや、もっと、もう季節が移り変わる前に、羊一が弟に食事をとらせようとしていた。
(“お兄さま“)
まだ小さな弟が、それよりもっと幼いころに持ち合わせていた明るさは、そこにはなかった。
(だからって僕が動く必要はない)
可哀想な弟。力の継承だけでなく、羊一から魔力をもらわないと生きてもいけない。
羊一と久々に会えたと思っても、魔力を吸収すればすぐに引きはがされる。
毎日、ひとりで、あの部屋で暮らすのは、どんな気持ちだろうか。
それに引き換え、自分はこれまで周りの顔色を窺って、表面上はつつがない日々を送っていた。
見たくないものは、見ないようにしてきた。みんな弟ばかり見ているから、自分を見る暇もない。
それが寂しくもあったけど、父や母をこれ以上悲しませたくなかった。『いい子』でいなければいけないと、自分を律してきた。
けれど──
「僕も、好きなようにしていいんでしょうか?」
ずっと誰かに、そう言ってほしかったのかもしれない。
「誰の許しもいらないよ。君は君の好きなようにすればいい。どうしたいのか、一度考えてごらん」
「僕は──」
あの頃に戻りたくて、仕方がない。みんなが笑顔で、なんの枷もない頃に──。
でもそれがどれほど難しいことか、わかっている。
口をつぐんだ少年の肩に、管理人さんがそっと手を乗せた。
「いいんだよ、自分の気持ちに正直になっても。誰も君を責めたりしない。誰も君を怒らない。誰も君のすることに傷つかない」
「でも──」
自分が『いい子』じゃないと、周りをきっと困らせる。自分の言動で誰かを悲しませるくらいなら、自分が我慢すればいい。
「大丈夫。君が君らしくあることは、周りを照らすことになるから」
「……え?」
少年が見上げると、管理人さんが優しく微笑んだ。
「僕は君が、また昔のような笑顔になったところが見たいんだ。君は君らしくいればいい。それだけで、周りを救うことになる。だから、少しずつでいいから、考えてみて?君は、どうしたい?」
管理人さん少年の両手を包むと、少年の目から一粒の涙が零れ落ちた。
零れた涙が、自分の心を縛っていた鎖を溶かしていくようだった。
「……前みたいに、戻りたい。誰かに、なにかに、恐れることなく、ただみんなで笑いながら過ごせるように」
「だったら、そうしていこう?」
「でも、お祖母様が許してくれない。絶対に」
少年が首を振ると、そうだね、と管理人さんは言った。
「もちろん、困難な状況も、心が苦しくなることも起こるかもしれない。そうしたら、その時どうしたらいいか一緒に考えよう。だって君は、叶えたいことがあるんだろう?」
「……はい」
「じゃあ、やってみよう。きっと今より楽しくなる。もし叶わなくても、またやってみればいいさ。時間も方法も、君なら作れるだろう?」
こくりと少年が頷くと、管理人さんは少年の涙を拭ってから、仕事に戻っていった。
もらった麦わら帽子は今も、部屋に飾ってある。この気持ちが色あせないように、いつでも見れるように。
だから、この時代までやって来た。
確かめたかった。どうして今、弟が幽閉されないといけないのか。
先代の”全霊服従”を、なにが狂わせ、なにを犯し、なぜそれが今に繋がっているのか──。
「ねぇ、君。君の、名前は?」
泣きながらも顔を上げた男は、少年に尋ねた。
「………絢斗」
ふっ、と目を開けると、まだ夜明け前らしい。カーテンの隙間から、薄紫の空が見える。
(あぁ、またあの夢か……)
うっかりデスクで眠ってしまっていたらしい。あらかた片づけた書類が床に散乱している。
「お目覚めですか?」
声の方を見やると、ソファに凪がちょこんと座っていた。
「……いつ戻った?」
確か昨晩遅くに仕事が来たと、出て行ったはずだ。
「今、戻ったところです」
ニコリと笑う凪は、昔の自分を見ているようだ。”お人形”だった頃の、自分を。
「もう少し、眠る」
「はい」
寝室に向かう絢斗の後ろを付いてきた凪は、絢斗がベットに入ると扉の横に控えた。多分、起きるまでそうしているつもりだろう。
「凪」
「はい、絢斗様」
「こっちに来なさい」
絢斗は少しだけ起き上がって、自分の隣の空いたスペースを叩いた。
「あの、絢斗様?」
「なんだ?」
「ぼくは今、どうなっているんでしょう?」
「僕の抱き枕になっている」
どうせ自分が起きるまで控えているつもりなら、一緒に寝ろと絢斗は凪をベットに入れた。
「服が皴になってしまいます」
「起きてからどうにかすればいい。お前も寝ていないのだろう、しばらく横になってなさい」
弟よりもまだ幼いこの少年は、羊一に似ているところもあるが、羊一と違って愛らしさがある。
(”君もまた、鳥かごの中でもがいているんだね”)
あの人の言葉が、忘れられない。
あの日以来、何度もあの人に会いに行った。本当はそんなことしてはならないと、わかっていたのに──。
ぽつりぽつりと、昔の話をしてくれた。誰に聞かせるでもなかったけど、それでもあの人にとって自分の存在が、少しの間だけでも慰めになっていたと思いたい。
絢斗も、あの人といると安心した。あの人といると孤独じゃなかった。
けれど、
(”『もう、僕に会いに来てはいけないよ』”)
最後に会ったとき、もう追手から逃げられないとわかっていたんだろう。
力を使われたのはわかっていたのに、受け入れがたくて、会いに行こうとして、業火に身を焼かれた。
過去を変えた報いも、その時一緒に受けた。背中の痕は、一生消えることはないだろう。
(あの人も、随分長く、鳥かごの中にいたのだろう)
そして鳥かごから出て、羽ばたこうとしたとき、壊されてしまったのだろう。
「絢斗様?どうされました?」
腕の中で自分を見上げる少年には、弟とは違う愛おしさも、そして負い目も後悔も、持て余してしまう。
「なんだ?凪」
頭を撫でてやると、少年は甘えるように寄ってくる。
「絢斗様は、お優しいですね」
「お前にはそうかもな」
くすくすと笑いながら、少年は絢斗の背中に手を回した。
こんなこと、自分にしかしてこないことを絢斗自身よくわかっている。
幼い頃から厳しい環境に身を置き、耐えることが”普通”になった少年は、絢斗と二人のときにしか甘えられない。
他の誰をも、信用していないから。
(僕は、この鳥かごから、出ようと思えば出れるかもしれない。けど──)
二人は別邸に行ったから、例えまだ鳥かごの中でも、少しは羽を休めることができるだろう。
だがこの少年はどうだ。今や羊一より、朝陽より、鳥かごの中で自らを傷つけながらもがいているのは、目の前の少年に違いない。
「ぼく、お願いがあるんです」
「なんだ?言ってみろ?」
だからせめて、自分だけは優しくありたかった。少年を救いたかった。例えそれが、自分のためだったとしても。
「兄上のところに、行きたいんです」




