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執事の羊くん  作者: 碧瀬まど
第2章

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23/42

はじまり

第2章、ゆっくりと開始です。

「よーいち…、いっちゃやだぁ…」


その日は、ひどく風が強かったことを覚えている。

おぼつかない足取りで追いかけても、小さくなったその背中には中々追いつかない。

泣いてたって仕方がない。けれど涙は止まらない。

息が上がり、肺が痛むのも差し置いても、目の前を歩くその遠い背中に、振り向いてほしかった。


「よーいち、……よーいちー!」


追いつけないとわかった朝陽はその場で足を止め、今まで出したことないほどの大声で、羊一を呼び止めた。

振り返った羊一は遠くて、そのときどんな顔をしていたのだろうか。けれどきっと、驚いていたことだろう。朝陽が本家近くまで来ていたことを、羊一を追いかけてきていたことを。

そのとき朝陽のもとに駆け寄ってきた羊一が、果たしてなんと言っていたのか、朝陽は思い出せずにいる。




(久々に見た…)


たまに見る夢がいくつかある。中でもこの夢は、起きた時にいつも感傷的な気持ちにさせる。

目を開けるのもおっくうな寒さの中、布団の温かさにくるまった朝陽はより温かい方へと身を寄せた。締めつけられることもなく、かといって緩くもないそのほどよい心地に、朝陽はまた微睡もうとした。


「ふふっ」


けれど、上から降ってきたその声に、薄く目を開いた。てっきりふかふかの布団があると思っていたのに、目の前にあったのは綺麗な鎖骨だった。

不思議に思った朝陽は、ゆっくりと上を向いた。


「あ、すみません朝陽。つい可愛くて」

「………羊、なんでいるの?」


確か昨晩は、一緒に寝ようと枕持参の羊一を、部屋まで追い返したはずだ。


「さぁ、なんででしょう?」


羊一は朝陽の前髪を指でなぞった。


(ごまかそうとしてる)


朝陽がじろりとした目を羊一に向けると、羊一は今にも鼻歌でも歌いはじめそうな様で微笑んだ。

最近、他の人にはわからないかもしれないが、羊一は前より朝陽が感情を表に出すようになった気がしていた。それが羊一には嬉しくてたまらない。


「さ、夜が明けるまではまだ時間があります。おやすみください」


羊一は朝陽に毛布を被せなおすと、朝陽の背中に手をやった。その手がとん、とん、と心地よく触れるから、自分の部屋で休んでと言えぬまま、朝陽はまた眠りについた。




(……いない)


次に朝陽が目を開くと、カーテンの後ろから光が差し込んでいた。

隣には、もう羊一はいなかった。最近は朝陽が起きるまでそばにいることもあるのに、今日は違うようだ。

ふかふかの布団にくるまれ、体もポカポカしているのに、朝陽はわずかな寒さを感じた。

ベットから抜け出し、カーテンを開いた朝陽は入って来た陽光に目を細めた。迎え来る季節を、太陽が楽しみにして輝いているようだ。

窓の外は、降り積もった雪が少しずつ溶けていき、朝陽はもうじきこの地ではじめての春を迎えようとしていた。

ぼんやりと、外の景色を眺めていると、視界の端でなにかが動いた。


(……掃除してる?)


少し曇った窓ガラスを袖で拭いて、じぃっと朝陽が見ていると、どうやら羊一は植木や枯草の剪定をしているようだ。小枝や葉っぱを一か所にまとめ終わった羊一は、立てかけてあったはしごを手に取り、庭を横切っていた。不意に、立ち止まった羊一が顔を上げた。


「朝陽っ」


朝陽の視線に気づいた羊一は、ほころんだ笑顔を朝陽に向けた。


「朝陽、おはよう!」


向けられたその羊一の眩しい笑顔に、朝陽は心の灯火がポッとついた心地がした。

そっと窓を開けた朝陽は、冷えた空気が身に沁みつつも、小さくと羊一に手を振った。いつも、どう返したらいいのか、これでいいのだろうかと考えてしまう。けれど羊一が受けとめて、手を振り返してくれるから、朝陽はいつも与えてもらってばかりだと思う。


(どうしたら、僕は羊一のために、なにができるんだろう)


あれ以来、朝陽はずっと考えていた。朝陽のためにその身をも捧げる羊一。そうさせてしまった自分が情けない、なんて言ってられるわけもなく、羊一にふさわしい主にすぐなれるわけもない。

兄・絢斗に言われた通り、羊一が石にかけた力を解除する方法を考えながらも、朝陽は少しずつできることから始めようとしていた。

それを思えるようになったのは──


(「俺はずっと、朝陽のそばにいます」)


あのときの羊一を思い出すと、朝陽は心臓がぎゅっとするような、むずがゆいような、今まで感じてこなかった感情がこみ上げてくる。

パタパタと顔を冷ましてから朝陽は、階下へと向かった。


「なに、してるの?」


朝陽が庭に出ると、羊一は門近くの木にかけたはしごから降りてきたところだった。


「……朝陽、こちらに」


なぜか羊一を少しだけがっかりさせてしまったようだ。おずおずと近寄ると、呆れ顔をしつつ羊一は上着を脱いで、パジャマ姿の朝陽にかぶせた。


「ごめん」

「いえ」


気にすることはないと伝わるように、羊一は優しく微笑んだ。

呆れたんじゃなく、心配してたのだろう。

そんな羊一に、朝陽も微笑み返すものだから、思わず羊一は朝陽の鼻を軽くつまんだ。


「……なに?」

「いーえ、目に毒なだけです」


わかっていない顔をした朝陽の後ろに回って、羊一は朝陽を腕に抱いた。

羊一の温かさに触れ、朝陽はようやく身体が冷え切っていたことに気がついた。


「巣箱を、架けていたんです」


見えますか、と羊一は木の上を指さした。


「来るの?」

「来るときもある、と言いましょうか」


ふーん、と朝陽は巣箱を見上げつつ、羊一に軽くもたれかかった。

最近の羊一は、前より近い。物理的にも、そうじゃない部分も。前はこれ以上近づかないようにと、羊一が一線を引いているのが朝陽にも伝わるときもあった。それはすごく、朝陽を寂しい気持ちにさせた。

だけど最近は、それが少しだけ緩んだ。

そうなると朝陽も、自分自身の奥底に追いやっていた感情がムクムクと湧き上がってきた。

羊一の迷惑にならないように、主としてちゃんとしないと、と思うのと反対に


(もうちょっとだけ、甘えたい……)


この感情を、朝陽は持て余していた。


「朝陽、冷えるからもう中に入りましょうか?」


すっかり体重を預けて自分を見上げる朝陽の頬に、羊一は手を当てた。


「……うん」


見つめ返す朝陽の顔が赤いのは、寒さのせいだろうけども、自分のせいでもあってほしいと思う羊一であった。


(きゃわい~~~!!もうずっとこうしてたいっ)


デレた表情にならないよう気をつけながら、羊一は朝陽のあご下を撫でた。そんな羊一に懐いてくるような朝陽の素振りに、羊一はまた動けなくなりそうだった。




「朝陽、今日の夜は外で食べましょう」

「……外出するの?」


遅めのブランチは、キャロットジンジャースープ、グリークサラダ、アンチョビとトマトのオムレツをトーストとともに。

スープを飲んだ朝陽は、すっかり体があったまった。


「外出はいたしません。夜まで秘密です。朝陽はごゆるりとおくつろぎください」


気にはなるが、羊一がなにか用意しているんだろう。


「楽しみに、待ってるね」


そう言うと、羊一はうれしそうに微笑んだ。


 今日の夜のことは、羊一は前々から準備していた。朝陽がブランチを終えると、準備に取り掛かるため羊一は皿洗いをし、洗濯物を干し、部屋の掃除へとうつった。コツコツと早歩きで今日の業務をこなしていく羊一の、後ろをてくてく歩く足音が。


「あの、朝陽?どうかしましたか?」


書斎で棚に本をしまっていた羊一は、朝陽に問うた。

最近の朝陽は羊一がどこに行くにもついてきて、うれしい反面、羊一は戸惑っていた。こんな朝陽は幼少期ぶりだったから。


「なんでもないよ」

「そう、ですか」


きっとなんでもなくはないのだろうが、羊一は疑問に思いつつも作業に戻った。


(羊は本当に、よく働いている)


羊一になにができるかと考えていく中、朝陽はそもそも羊一は毎日どう過ごしているんだろうと思うようになった。今までもずっと見てきたけど、見てる部分しか知らない。だからこうして、羊一にくっついていた。羊一を、知りたくて。

しばらくすると、肘まで上げたシャツで額をぬぐった羊一が、部屋の隅に座り込んでいた朝陽の向かいにしゃがみこんだ。


「邪魔?」

「いえ、そんなことはありませんよ。ただ見られていると俺も気になると言いますか」

「ごめん、部屋に戻る」


立ち上がった朝陽の腕を羊一はつかんだ。


「そうではなくて」


(え──)


そのまま羊一は、朝陽を腕の中に閉じ込めた。


「……なに?」

「なんでもないです」


羊一が朝陽に額をすりつけると、朝陽は羊一の胸を軽く押した。

放してほしそうにこちらを見つめる朝陽に、羊一は数秒考えた。


「じゃあ、これでどうですか?」


ふるふると頭を振った羊一の周囲が、淡く銀の粒子に包まれた。それらが消えるころには羊一の頭には角が現れた。


「どうぞ、お好きなように」


朝陽の方へと羊一が顔を伸ばすと、朝陽はためらいながらも羊一へと手を伸ばし、指先で羊一の前髪をもてあそび、そこから羊一の額に、頬に、あごに触れてから、羊一の角を、髪をくしゃくしゃと撫で始めた。


「ふふっ」


朝陽は楽しそうに声を上げた。

角が生えてから、この姿の羊一に朝陽は甘い。この姿を気に入っているのは確実だ。羊一が多少()()()をしても許してくれる。

それに気づいた羊一はこれはチャンス!とばかりに取り上げられないようにしていた。

ただ、朝陽と近づきたい思いだったが、次第に朝陽から羊一に近づいてこれるようにと考えはじめた──昔の、あの部屋で過ごす前の、朝陽のように。

だから本家からこの柊の別宅に戻る日、絢斗が術を解こうとした際に、羊一は絢斗と相談して決めた。この姿が朝陽の、羊一にさえも遠慮する気持ちに蓋をせず、気持ちを出すことにつながるかもしれないから、と。

だから羊一は今も、朝陽に『好きなように振舞っても大丈夫だよ』『誰も迷惑だなんて思わないよ』を示そうとしていた。


「朝陽」


軽く名を呼んだ羊一は、朝陽が羊一に触れた同じところ──前髪に、頬に、あごにキスをした。


「朝陽、可愛い」


もちろん、羊一からの好意も隠すこともなく。


(じいちゃんが帰ってくるまでは、自由にさせてもらおう)


所用につき、じいは本家に戻っていた。長くはないと聞いているが、朝陽としばらくは二人きり。朝陽が前よりも甘えてくるようになったことは、羊一のそばにいようとしていることは、羊一も敏感に察していた。なにもしないでいることは、羊一にとって酷なことだ。


(いや、朝陽が穏やかであることが一番だ。俺は執事として、朝陽を一番に考えられる。己の欲望に打ち勝って見せるんだ、俺!)


そう思う羊一がいる一方で


(そうだろうか?俺が前より朝陽に近づいたことが朝陽に良い影響を与えているのであれば、もっとガンガン攻めるべきだ。朝陽もすでに俺に惹かれているんじゃないか?今朝も着替えもしないで俺を追いかけて来るし、ずっとそばにいるわけで……もう角がなくとも……いや、早計かもしれない。ここはもっとじっくりと──)


一人作戦会議を頭の中で悶々と行いつつ、それでも羊一は朝陽を離そうとはしなかった。

そして打ち勝ったのは


「朝陽」


羊一は朝陽のあごに手をかけた。顔を近づけると、朝陽が己の口に手を当てた。


「……」

「大丈夫だから」


羊一の作ったものを食べ、羊一のそばにいる朝陽は、魔力が十分に補給されていた。羊一から口移しで補充しなくとも、問題はない。

そうすると羊一は、頬を膨らませた。

そして毎回、朝陽は思う。なんで羊一がそんな顔するの、と。





「さぁ、朝陽。ちゃんと着込んできましたか?」

「うん」


朝陽はもこもこのマフラーを羊一に巻きなおされつつ、同じく着込んでいる羊一を見上げた。ニット帽から出ている角が、朝陽は気になって仕方がない。


(すごく可愛い)


遠慮なく寄せられる朝陽の視線に、羊一はハッとした。

朝陽のマフラーを巻きなおした羊一は、そのまま朝陽に顔を近づけて、キスをした。


「どうして、今?」

「外は寒いですから。では、どうぞ」


また羊一に許してしまったと思っていたが、開かれた扉の先の景色に朝陽は目を奪われた。

そこには、満天の星空のもと、庭を照らすランタンと小さなゲルが準備されていた。


「……きれい」

「朝陽、こちらにどうぞ」


羊一に続いて近づいてみると、ゲルの中はラグが敷き詰められ、大きめのクッションもあり、居心地よく過ごせそうだ。外から見るより、中の空間は広い。


「この中は温かくしておりますので、お寒いときはどうぞこちらに。少し趣向を変えてみてもいいかなと思いまして、今夜はこのようにいたしました」


満天の星空も、頬を通る冷たい空気も、ほのかな光に照らされた庭も、朝陽には新鮮で、夢心地だった。

羊一が焚火で調理していた鍋の蓋を開けると、白い湯気が立ち上がり、良い香りが漂ってきた。


「どうぞ、朝陽。熱いから気をつけてくださいね」

「ありがとう」


ゲルの前のチェアーに座った朝陽は、ゆっくりとスープを口の中に入れた。お肉も野菜もとろけるほど柔らかい。


「いかがですか?」


向かいの席に座った羊一も、手にはビーフシチューがあった。


(今日は、一緒に食べてくれるんだ)


羊一は自分は使用人だからと、食事を共にすることはめったにない。だから、それだけで──


「すごく、嬉しい」


久しぶりに見た朝陽の満面の笑みに、羊一は穏やかで、あたたかな気持ちになった。





「ねぇ、どうして今日しようと思ったの?」


食べ終わった朝陽は、ゲルで横になりながら星空を眺めていた。隣では、同じく横になった羊一がコーヒーを味わっていた。じいがいればコホンと咳払いで注意されたことだろう。


「そう、ですね……。月が、きれいだから、ですかね?」


羊一は空を指した。


(なんだか、違う気がする)


腑に落ちないと思いつつ朝陽が羊一を見ると、羊一はくすくすと笑い始めた。


「朝陽、今日は一段と夜空が澄んでますね」


けれど羊一が楽しそうにしているから、それでいいような気もした。


「うん」

「月がきれいですね?」


朝陽の目には、月明りに照らされた羊一が煌々と輝いて見えた。


(羊一の方がきれい)


緑に光るその瞳も、月の光が溶け込みそうなその肌も、朝陽はどれだけ眺めていても飽きないだろう。


「ん?なにかついてます?」

「……頭に角がね」


そうしてまだ自分の気持ちに追いついていない朝陽は、羊一の頭をよしよしと撫でた。自分が今、どんな表情をしているのかも自覚のないまま。


「……勘弁してください」


羊一は、耳まで赤くなった顔を両手で隠した。


「そろそろ、寝ましょうか」


羊一はゆっくりと立ち上がると、周りにあったクッションをかき集め、毛布を準備した。


「……ここで寝るの?」

「はい」


当然、と言わんばかりの返事だった。


「大丈夫ですよ、ちゃんと朝まで温かく過ごせるようにしてありますから」

「そうじゃなくて……」


(寝るとこが狭い)


必然的にくっついて寝ることが目に見えた。

まさかこのために、という考えが朝陽は一瞬脳裏をよぎったが、すぐに打ち消した。労力もかかり、魔力も朝陽に吸収される羊一に、いったいなんのメリットがあるというのか。


「羊……」

「はい?」

「どうしても、ここで寝ないとダメ?」


決して嫌がっているわけではない、ただ困っていることが伝わるように朝陽は言ったつもりだった。


「……お嫌ですか?」


押してだめなら引いてみよう。

寝転がったまま羊一は、悲しそうに朝陽を見上げきたが、さすがにわかってやっていることは明白だ。


「朝陽、おいで」


羊一は両手を広げて、朝陽を待った。そうされると、朝陽はどうしようもない。甘やかされているのがわかって、どうしても抵抗できないのだ。

そうして今日も、朝陽は羊一の腕の中で眠ることとなった。




しばらくして腕の中で規則正しい寝息を立てる朝陽を見つめ、


(朝陽とデートしたかったから、とはまだ言えないな)


そう思いつつ、羊一も眠りについた。

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