冷たい手
(……あたたかい)
カーテンからは、まだ陽が差し込んでいない。
凍えるような朝の気温に迎えられていないのは、きっと家人がすでに起きているからだろう。
ベットから起き上がり、朝陽は階下へと向かった。
「坊ちゃん、おはようございます」
「おはよう、じい」
階段を降りると、後ろからじいのうやうやしい挨拶を受けた。
すでに機敏な動きで庭に洗濯物を干しに行こうとしているところを見ると、一時間以上前からは起きているのだろう。
ただ朝陽がじいより早く起きれたためしはないため、推察の限りである。
庭に向かうじいを見送り、そのままダイニングキッチンに向かう。
部屋を出た時から、すでに美味しそうな香りが鼻をついていた。
「おはよう、朝陽」
朝陽が顔をのぞかせてすぐに、羊一が気付いた。
制服の上にえんじ色のエプロン姿で、りんごの皮をむいているその傍らでは、羊一お気に入りのスープ鍋が湯気を立てている。
美味しそうな香りは、どうやらスープだったようだ。
「どうしました、まだ眠いですか?いつもより起きるの早いですもんね」
朝陽の寝癖を直そうと近づいた羊一の手が、耳に少し触れた。
髪の毛を触るその洗いたての手は、ひどく冷えていた。
(氷みたい)
朝陽はその手に触れられながらも、なされるがままで何か動きが取れるわけでもなかった。
「ん~。ちょっと抑えつけるだけじゃ直りませんね。あとで直しましょう。先に顔洗ってきてください。もうすぐ朝食できますので」
「……わかった」
そのまま洗面所に向かおうとしたが、少し足を止めて、振り返った。
スープ鍋の蓋を開け、味見をした羊一は、コショウを少し振るっていた。
「どうしました?」
朝陽の視線に気づいた羊一は、不思議そうな顔だ。
「……なんでもない。顔洗ってくる」
「はい」
そのまま逃げるように、洗面所に向かった。
(ほんとだ、アンテナみたいんなってる)
歯磨きしながら、自分の頭上にある逆立った毛を凝視した。
(これなおるかなぁ)
歯磨きを終えた朝陽は、自分の手に水道の水に浸した。
「つめたっ」
出した手を引っ込ませるくらいにの冷たさで、急いで蛇口をお湯側に回した。
(毎日、この冷たさのなか羊一は…)
見つめたその手のひらを、朝陽は強く握りしめた。
朝陽の家『東雲家』は、国内有数の名家である。古くは王家に仕えた家でもあるが、今では商家として主に魔力を秘めた鉱石を販売することで事業展開している。
全く魔力を持たない人間が増え、魔力を備える人間が希少価値となってきた昨今、その力の助けとなるこの事業は東雲家の独占事業となっていた。
その東雲家には代々、古くから羊一の家『柊家』が仕えていた。そのため柊家の羊一が朝陽に仕える、それは当たり前。世間はそう思っているだろう。
そこに、イレギュラーが1つ。
羊一は本来は、朝陽の兄に仕えるはずだった。
当初、東雲家も柊家も男子が二人生まれたので、先例通り長男コンビ・次男コンビの主従で揃えようとした。
それが、事情が変わった。
東雲家と柊家はもちろん魔力を、しかも一般の魔力を備える人間よりも強大な魔力を持つ人間が生まれる家で、それに例外はなかった。
ただ、ひとりを除いて。
朝陽は強い魔力を持ち合わせていなかった。そして、今後も持つことはできないだろうと幼いうちに診断を受けている。
その朝陽のそば仕えとなった羊一は、朝陽とは真逆で柊家の歴代で最も多くの魔力を備えて生まれてきた。
そこで、両家の出した答えはこうだ。
より魔力の弱い朝陽に羊一をつけ、羊一の魔力を朝陽に分け与える。そして通常通りの魔力を持つ東雲家の長男に、柊家の次男をつけると。
毎日、羊一がそばで朝陽の面倒を見る。羊一の作った料理を食べ、かいがいしく世話を焼かれる中で、羊一の魔力は朝陽の中に流れ込む。ただし永久にその魔力が朝陽の中に貯蓄されるわけではないため、継続して、ずっと羊一は自身の魔力を朝陽に注ぎ続けなければならない。
なぜ、その必要があるのか。
朝陽が3歳の頃、朝陽の中の魔力量が極端に下がったことがあった。症状は、身体に現れた。
まず体調が悪くなった。なんだかぼーっとするようになり、その後発熱した。数日たってもその熱は下がらず、昏睡状態にまで陥った。
医師も対処法を悩む中、羊一がしばらく朝陽のそばにつくと、その症状が目に見えて改善していった。
羊一の魔力を朝陽が無意識に吸い取っていたのであった。
そしてそれは、今もまだ続いている。
「いただきます」
「はい、召し上がれ。ちょっと髪、触りますね」
「うん」
今日の朝食は、リンゴのサラダ、レンズ豆のスープ、スクランブルエッグとクロワッサン。
クロワッサンは昨日、学校から帰ってから羊一と朝陽で作ったものだ。羊一の魔力が入り込んでいる。