違うのです!義妹の魔法で操られていたようなのです
伯爵令嬢のマリベルは、少し気が弱いけれど亜麻色の巻き毛と深緑の瞳がとても美しい誠実で真面目な少女だった。
両親の愛情に包まれ、派手ではないけれど穏やかな温かい家庭で育った。
そして十三歳の日に父の親友であるジゼル侯爵家の次男リュークスとの縁談が決まった。
幼い頃から顔を合わせることの多かったリュークスは、マリベルの三歳年上で耳にかかる黒髪と青い瞳が精悍な美しい人だ。
出会った最初から硬派で冷たい印象のリュークスだが、そのクールさがまた素敵だと令嬢達の間でも人気が高かった。
侯爵家の次男で家督の相続権はないのだが、幼い頃から魔法士としての能力がずば抜けていて、王の期待も高く、いずれ国の軍事最高峰といわれる魔法騎士団を率いることになるだろうと言われている将来有望な青年だった。
父同士が仲がいいため顔を合わせることは多かったが、引っ込み思案のマリベルと、クールで無口なリュークスは、会話らしい会話もしたことがない。
けれどマリベルは幼い頃からリュークスにひそかに片思いをしていた。
だから突然舞い込んだ縁談話に戸惑いながらも、夢のようだと嬉しかった。
リュークスは婚約からほどなくして、遠方にある魔法士の士官学校に行くことになっていた。
士官学校は非常に規律が厳しく、三年間は帰って来られないそうだ。
その前に身を固めておこうということで、マリベルとの婚約が決まったのだ。
出立の日、マリベルは許嫁として見送ることになった。
「行ってらっしゃいませ、リュークス様。どうかご無事にお帰りくださいませ。お待ちしています」
少し頬を染めてはにかみながら告げるマリベルに、リュークスはクールな青い瞳を向けた。
「見送りありがとう、マリベル嬢」
士官学校の制服を着たリュークスは、いつも以上にりりしく精悍な顔で短く答えた。
婚約者に対してそっけないようにも思えるが、硬派なリュークスが女性に声をかけることすら珍しい。
答えてもらえただけでマリベルは天に昇るほど幸せだった。
三年後には、戻ってきたリュークスと結婚式を挙げ、夢のような日々が待っているのだと信じて疑わなかった。
しかし、この三年間で、マリベルの生活は激変することになった。
◇
まず、リュークスが旅立って半年後、大好きな母が亡くなった。
それまで元気だったのに、突然体調を崩し、あっという間に死んでしまった。
父とマリベルはとても悲しんだ。
だが、悲しんでいたはずの父は、ある日突然、見知らぬ女性を連れて来た。
緑の髪に赤い瞳をした妖艶な女性は、自分にそっくりな娘を連れていた。
そして父は「今日からお前の母と妹になる。仲良くするのだぞ」と告げた。
まだ母が死んで日も浅いのに、父はどうしてしまったのだろうと青ざめた。
母の死がショックでおかしくなっているのだろうと思った。
「お父様、正気になってください。まだお母様が亡くなったばかりなのよ。再婚されるにしても、もう少しよくお考えになってからにしてはどうでしょうか」
父が連れて来た女性は、どう見ても母と正反対だった。
ドレスは派手で露出が多く、美人だけれどわがままで自分勝手なところがある。
連れ子のイランザもそっくりだった。
どう考えても父の好きなタイプの女性ではない。
しかも素性もはっきりしない。
辺境のギート伯爵夫人だったのだと言うが、聞いたこともない名前だった。
けれど父は「彼女も突然夫を亡くされて辛い思いをしているのだ。冷たいことを言うのではないよ。お前らしくもない」と言ってマリベルを注意した。
マリベルが何を言っても、「お前はいつからそんな冷たい娘になったのだ」とマリベルの方が非難されてしまう。
「妹ができたのだ。お前も嬉しいだろう。姉として仲良くしてあげなさい」
「お前が冷たいからイランザが泣いているだろう。もっと優しくできないのか」
そんな風に言われると、気の弱いマリベルは何も言えなくなってしまった。
そうしてマリベルの忠告も虚しく、イランザ母娘が一緒に暮らすことになった。
◇
それからの日々はまさに地獄だった。
「マリベル! またイランザをいじめたのか! いつからお前はそんな意地悪な娘になったのだ! 私を失望させないでおくれ」
「イランザのドレスを破ったというのは本当か? 私はお前の育て方を間違えてしまったようだ。悲しいよ、マリベル」
継母とイランザの告げ口で毎日のように父に叱られる日々が始まったのだ。
「違うわ、お父様! 私は何もしていないわ!」
「そうです。お嬢様はそんな意地悪などされていませんわ!」
最初の頃は、侍女や使用人達もマリベルを庇ってくれた。
「なんておかわいそうなお嬢様。あの母娘が来てからこの伯爵家はおかしくなってしまいました」
「お父上様は淋しさのあまり、おかしくなってしまわれたのですわ。私達がお嬢様のことはお守りしますわ。大丈夫です」
そんな風に言ってくれる使用人達がほとんどだった。
だからマリベルも辛くとも、なんとかやってこられたのだ。
けれど一年が過ぎた頃から、様子がおかしくなってきた。
ある朝、目覚めると、今までマリベルの味方になってくれていた侍女達が一斉に冷たい態度をとるようになってしまった。
「どうしたの、みんな? 何か私が怒らせるようなことをした?」
マリベルは訳が分からず侍女達に尋ねた。
すると信じられない言葉が返ってきたのだ。
「お、お嬢様。昨日あんなことをしておいて、よくそんなことを……」
「お嬢様を信じていましたのに……」
「私達が間違っていましたわ。本当にお嬢様はイランザ様をいじめていたのですね」
「お嬢様の裏の顔を私達はみんな見てしまったのですよ」
マリベルは何のことかさっぱり分からなかった。
「裏の顔って……。いったいなんのこと?」
マリベルが尋ねると、侍女達はつくづく呆れたように肩をすくめた。
「あれほどのことをしながら、よくしらを切れますわね」
「私達はもうお嬢様を庇うことはできませんわ」
「我らは今日から、お気の毒なイランザ様の味方です」
マリベルは驚いて、再び尋ねた。
「そ、そんな。私は本当に分からないの。ねえ、私が何をしたのか教えて?」
侍女達は顔を見合わせ、ため息をついて答えた。
「そこまでしらを切られるなら、教えて差し上げますわ」
「お嬢様は昨日イランザ様のお部屋に忍び込んで、クロークのドレスに泥水をかけておられました。我々は偶然お部屋の掃除に入って見てしまいました」
「しかも見つかったと分かると、お嬢様はムチを取り出し我々を脅したのです」
「ム、ムチ!? そ、そんな物を持ったことはないわ!」
マリベルは驚いて反論した。
「では、その枕元に置いておられる物はなんでございますか?」
「え?」
マリベルの枕元には、確かにムチが置かれていた。
しかもムチの先には少し赤い血が滲んでいる。
「う、嘘よ! 誰かが私の枕元に置いたのだわ!」
必死に弁解するマリベルだったが、侍女達は呆れたように言った。
「そうやっていつもご自分が被害者のように振る舞っていらしたのですね」
「我々は優しげなお嬢様の姿に、すっかり騙されていました」
「本当はイランザ様の言っていたことがすべて正しかったのですわ」
「ち、違うわ! 騙してなんていないわ!」
けれど、そう反論するマリベルに、一人の侍女が腕まくりをして見せた。
「では、このムチの傷は誰がつけたと言うのですか?」
「紛れもなくお嬢様のムチでしたわ。私達はこの目で見ていたのですもの」
「ドレスに泥水をかけていたことを黙っていろと脅すお嬢様に、そんなことはできないと答えると、そのムチで私を打たれたのではないですか」
「忘れたなんてありえませんわ」
「私達がはっきり見ていたのですもの」
「ま、まさか……」
そんな覚えなんてまったくないのに、侍女達が嘘を言っているようにも思えない。
なにがなんだか訳が分からなかった。
そしてその日から、屋敷の中にマリベルの味方は誰もいなくなってしまった。
おまけに、時々身に覚えのない騒ぎを起こしたと、みんなから責められる。
だいたいが、身勝手なことをしておいて侍女をムチ打っていたというものだ。
ムチは何度捨てても、なぜか朝目覚めるとマリベルの枕元に戻っている。
時にはいら立って、窓ガラスに石を投げて割っていたとか、継母の部屋にあるソファに火を付けたなどという恐ろしいものまであった。
マリベル自身は、聞いただけでも恐ろしいことで、自分がしているとは到底思えないのに、父も侍女達も全員がはっきり見たというのだ。
そう言われてしまうと、もう認めるしかなかった。
「私は無意識にひどいことをしてしまう人間になってしまったのだわ」
マリベルは絶望した。
「お前は母親が亡くなったのが辛くて病気になってしまったのだ」
父は呆れながらも、少し心配して言った。
継母とイランザも同調して言う。
「病気で心に閉じ込めていた黒い闇が出てしまうようになったのですわ、恐ろしい」
「お姉様の病んだ裏の顔が怖いですわ。お母様」
「まあまあ、かわいそうなイランザ。怖がらなくても大丈夫よ。私がついているわ」
マリベルは自分でも気付かぬうちに、心の中にそんな黒い闇を持っていたのかと自分が信じられなくなっていた。
「良い医者に診てもらおう。いや、それよりも空気の綺麗な場所で療養した方がいいかもな」
父は諦めたように言った。
「……はい、お父様。これ以上みんなに迷惑をかけるわけには参りません」
マリベルも、もう反論する気力も残っていなかった。
自分さえいなければ、みんな幸せになるのだと思った。
そうして田舎に療養に行く直前に、リュークスが三年の士官学校を終えて帰ってきた。
◇
「リュークスが帰ってきて、お前に挨拶したいという話だ。どうする?」
父に言われ、マリベルは悩んだ。
もしリュークスに会っている時に病気が出て、ひどいことをしてしまったら……。
そう思うと、恐ろしくなってしまう。
「婚約の話は……お前の病気を考えると、やはり破棄するべきだと思う。親友の大事な息子に迷惑をかけるわけにはいかないからな」
「はい……」
マリベルも覚悟していた。
憧れのリュークスに嫌われ、失望されるぐらいなら破棄した方がいい。
あれほどリュークスとの結婚を夢見ていたけれど、仕方がない。
けれど、もう一生会えないのなら、最後にもう一度だけ会いたい。
きちんと挨拶をしてから去りたい。
「リュークス様に……自分の口から、きちんと病気のことをお伝えしたいと思います。どうか最後に会わせてください、お父様」
父はマリベルの願いを聞き届け、翌日、リュークスと会うことになった。
◇
「え?」
マリベルは朝、目を覚ましてきょとんとした。
「あれ? 私は昨日、リュークス様と会うはずじゃなかったの?」
昨日のことは途中までよく覚えている。
最後にリュークスと会うために、精一杯身だしなみを整えて、ドキドキしながら来訪を待っていた。何を話そうと緊張して待って……それから……。
「え? どういうこと?」
会った記憶がまるでない。
最後だというのに、何も覚えていないのだ。
朝の着替えのために入ってきた侍女に慌てて尋ねた。
「ね、ねえ。私は昨日、リュークス様と会った?」
マリベルが尋ねると、侍女達は心底呆れたように険しい表情になった。
「あんなことをしておいて、覚えていらっしゃらないのですか?」
「誠実なリュークス様に、よくあんなことができましたわね」
「リュークス様もすっかり呆れてすぐに帰ってしまわれましたわ」
「う、うそ……」
何も覚えていない。
まさか、リュークスの前で病気が出てしまったのか。
「ね、ねえ。私は何をしたの? リュークス様に何を言ったの? 教えて」
聞くのも恐ろしいけれど、知らないままでは気が変になりそうだ。
侍女達はため息をついて、信じられないことを言った。
「お嬢様は挨拶に来られたリュークス様を前に、ソファに座って足を組んだまま、ふんぞり返ってこうおっしゃったのですわ」
『三年も待たせておいて気が変わらないとでも思いましたの』
『だいたい家督も継げないような次男坊となぜ私が結婚しなければならないの?』
『それに魔法士なんて野蛮な仕事をする人は好きじゃないの』
『無口でつまらないし、婚約破棄できてせいせいしましたわ』
『ああ。浮気程度なら一度ぐらいしてあげてもよろしくてよ』
侍女達が口真似をして言う言葉を聞いて、マリベルは卒倒しそうになった。
信じられない。
自分の言葉だなんて到底思えない。
いくら自分の中の闇の部分だといっても、考えたことも思いついたこともない言葉ばかりだ。
けれど、確かに言ったらしい。
マリベルは絶望と共に泣き崩れた。
もう世界から消えてしまいたかった。
しばらくして父が継母とイランザを連れて部屋にやってきた。
「お前はリュークスにとんでもないことを言ってくれたものだ」
父も今回ばかりはほとほと呆れたようだ。
「本当に、同じ家族と名乗るのも恥ずかしいですわね」
「あの素敵なリュークス様にあんな言い方をなさるなんて。お姉様って最低だわ」
継母とイランザも辛辣に罵った。
「ご、ごめんなさい……」
全然言った覚えなどないけれど、みんな聞いていたのだ。
リュークスさえ聞いていたのだから、もう反論しようもなかった。
消え入るような声で謝ることしかできない。
「それで話し合ったのだが、お前との婚約を破棄して、イランザと婚約してもらえないかリュークスに頼んでみることにした」
「え?」
マリベルは驚いてイランザを見た。
「イランザも、昨日リュークスを見てずいぶん気に入ったようだしな」
イランザは、ぽっと頬を染めて照れくさそうにしている。
「そんな……。だって……リュークス様は私の許嫁で……」
「だが今のお前ではリュークスにふさわしくないだろう。婚約破棄するなら、イランザが代わりに婚約してもお前が文句を言うことではないじゃないか」
「それはそうですが……」
「そもそもお前が失礼なことをしたのだ。その汚名を返上するために、イランザが婚約すると言ってくれているのだ。お前はイランザに感謝すべきだぞ」
父はマリベルのせいで親友に申し訳ないことをしたと思っているのだろうが、それにしてもあまりに辛い仕打ちだった。
「イランザがリュークス様の妻に……」
気付けば、マリベルが持っていたすべてをいつの間にかイランザが手にしていた。
あまりに辛いことだが、すべてはマリベルの病気のせいなのだ。
諦めるしかなかった。
「分かったな、マリベル」
「……はい。お父様」
そうと決まったら、もうここにいるのは辛すぎる。
リュークスへの輿入れの準備をするイランザを横目に見ながら過ごすのは拷問だ。
マリベルは父に頼んで、すぐに田舎の療養に行かせてもらうことにした。
そうして田舎の療養に旅立つ日になった。
◇
「お父様、行ってまいります。どうかお元気で」
マリベルは屋敷の前でみんなの見送りを受けていた。
いつ帰って来られるか分からない。
病が治らないようなら、一生田舎で療養することになるかもしれない。
父に会えるのも最後かもしれないのだ。
「ああ。必ず病気を治すのだよ、マリベル。待っているから」
父は、最後ぐらいは父らしく心配そうな顔をして、マリベルを抱き締めてくれた。
けれど他の侍女や使用人達は、マリベルの病に辟易していたのか、疫病神がようやく出ていってくれるとほっとしているようにも見える。
でもそれもマリベルのしたことを考えると仕方がないのだろう。
「ねえ、マリベルが出ていったあとは、私がマリベルの部屋を使ってもいい? だってやっぱりあの部屋が一番広くて日当たりがいいのだもの」
「あらあら。そうね。一番いい部屋を空けておくのはもったいないものね。お父様にあとで頼んでみましょうね」
継母とイランザは、聞こえないと思ったのか、そんなことを話し合っている。
でも、そんなことよりも心残りなのは最後にリュークスに会えなかったことだった。
正確には、会ったのだけれどマリベルの記憶にまったく残っていないことだ。
三年経って、どれほど精悍に素敵になったのか目に焼き付けておきたかった。
(でも会ったらまた病気が出てしまうかもしれないものね)
マリベルは肩を落として馬車に乗り込もうとした。しかしその時。
カッカッと馬の蹄の音が遠くから響いてきた。
「?」
驚いてみんなが見つめる中、漆黒の美しい馬がこちらに向かってやってくる。
その馬に乗っているのは……。
「リュークス様?」
魔法騎士の制服を精悍に着こなしたリュークスだった。
リュークスは、マリベルの前できゅっと手綱を引いて馬を止めた。
三年前より背が高くなって、ずいぶん大人びた。
けれどクールな目元は変わってなくて、一層素敵になった。
「リュークス様……」
マリベルは最後にその勇壮な姿を見られただけで涙が溢れるほど嬉しかった。
これでもう心残りはない。
「リュークス。どうしたのだね。ああ。イランザとの婚約の返事を伝えにきてくれたのかね」
父は驚いたようにリュークスに尋ねた。
リュークスは颯爽と馬から飛び降りると、父とマリベルの前に立った。
そして険しい顔でマリベルを見ている。
「リュークス。先日はこの愚かな娘が失礼なことを言って済まない。この通り、病の療養のため今から田舎にいくところだ。腹立ちは分かるが許してやって欲しい」
父はリュークスの様子から、先日の無礼の謝罪を求めてやってきたのかと思った。
そしてマリベルもそうなのだと思った。
「リ、リュークス様……。先日は失礼なことを言ってしまったようで、申し訳ありません。わ、私は妙な病気になってしまったようで、何も覚えていないのです。もう二度と、リュークス様の前に現れないと約束致しますので、どうかお許しください」
マリベルは頭を下げて謝った。
大好きな人に会って、最後にこんな言葉しか言えない自分が情けない。
けれどせめて謝ることができて良かった。
「いや。その約束は了解しかねます。マリベル嬢」
「え?」
マリベルは言葉だけの謝罪では許してもらえないのだろうかと青ざめた。
しかし、リュークスはおもむろにそんなマリベルの左手を掴んだ。
そして懐から取り出した、大きなダイヤの指輪をマリベルの薬指にはめた。
「な!」
マリベル以上に父が驚いた。
「ど、どういうことだね、リュークス? 君はイランザとの婚約の承諾にきたのではなかったのか?」
尋ねる父をリュークスは真っ直ぐに見て答えた。
「申し訳ありませんが、そのお話はお断りさせていただきます」
「な! なんですって?」
リュークスの言葉に憤ったのは継母とイランザだ。
「どういうことですの? イランザでは不満だとおっしゃるの?」
リュークスは眉根を顰めて継母とイランザを見た。
「私は元々、マリベル嬢と婚約していたのだ。それを破棄するつもりはない」
「え……」
マリベルは驚いて隣に立つリュークスを見上げた。
継母とイランザは慌ててリュークスに言い募る。
「あ、あなたは先日、マリベルに散々な悪態をつかれて呆れて帰ったのではないの」
「わ、私よりもあんな失礼なことを言うマリベルがいいと言うの?」
そうだ。マリベルはこの誠実なリュークスにとんでもない言葉を言い放ったのだ。
そして、これからも病気が出たら言ってしまうかもしれない。
リュークスの気持ちはとても嬉しい。
泣きたいほど嬉しいけれど……。
「そ、そうなのです。私は妙な病にかかってしまったのです。私ではリュークス様を不幸にしてしまうのです。リュークス様にはもっとふさわしい方がいらっしゃいます……」
そうまで言ってくれるリュークスだからこそ、変な病で迷惑をかけるわけにはいかない。
「あなたは病になどかかっていない。その証拠に、見てごらんなさい」
「え?」
リュークスが指し示すのは、さっき左手の薬指にはめられたダイヤの指輪だった。
よく見ると、ダイヤの透明な石に赤黒い渦がうねっているのが見える。
「これは……?」
「あなたに向けられた魔力を指輪が身代わりに取り込んでいるのです」
「魔力?」
マリベルは訳が分からず聞き返した。
「先日あなたに会った時、すぐに分かりました。魔法士官学校で真っ先に習うのが、洗脳魔法の防御の仕方ですから」
「洗脳魔法?」
「どんな強力な魔術も敵に心を奪われてしまったら、却って仇となりますからね。今もあなたが思ってもいない言葉をしゃべるように、この瞬間、魔力を向けた者がいます」
「魔力を向けた者……?」
「あなたばかりか、屋敷全体が洗脳魔法で覆われていると気付いたので、急いで家に戻って指輪に強力な防御の魔術を施しました。この指輪があれば、もうあなたが操られることはありません」
「じゃあ……私は……病気ではなく……」
マリベルは信じられない思いでリュークスを見上げた。
「ふ。病気などではありませんよ。むしろおかしいのは周りの人達の方です」
しかし、そのリュークスの言葉を聞いて父が反論する。
「な、何を言うのだね、リュークス。それでは、私も使用人達もみんな洗脳されているというのかね? そんなはずはない。私はこの通り意識もちゃんとしている」
侍女や使用人達も肯いた。
確かにマリベルのようにおかしな行動をする者など誰もいなかった。
「洗脳魔法にもいろいろあって、最初だけ強い魔法で洗脳を完了させれば、もう自ら洗脳の中に堕ちていく場合もあります。それは共通の『敵』を作ることで、より強固に達成することができます。今回はマリベルがその『敵』として標的にされたのでしょう」
「ま、まさか……。だ、誰がそんなことをしたというのだ! そんな忌まわしい魔力を使う者など、この家にはいない!」
父は憤って叫んだ。
自分が洗脳されているなどとまったく思っていない。
「そう答えることこそ、洗脳にかかっている証拠ですよ、伯爵様」
「な、なんだと!」
「あきらかに異質な人物がいることに気付いていない。以前の穏やかな伯爵家だったら違和感しかない二人が入り込んでいるでしょう? それに気付かない段階で、すでに洗脳は完了してしまっているのです」
「な!」
父も使用人達も、本当に分からないという様子で顔を見合わせている。
けれど、防御の指輪をつけたマリベルには、はっきりと分かった。
「では……私に魔法をかけたのは……」
「指輪に教えてもらいましょう」
リュークスは肯いて、マリベルの薬指のダイヤに人差し指でちょんと触れた。
するとダイヤの中に渦巻いていた赤黒い影のようなものが抜け出て、一筋の光となって一人の人物に向かっていった。
それは……。
「イランザ!」
青ざめた顔で立つイランザに、真っ直ぐ向かっている。
それを見て、リュークスは意外そうに呟いた。
「ほう。母親の方かと思ったが、お前の方だったか」
マリベルも継母の方だと思っていた。
赤黒い渦は、イランザの体の周りに螺旋を描いて絡みついていく。
「きゃああ! な、何をするの! やめて! お母様!! 助けて!」
イランザは悲鳴を上げて母親に助けを求めるが、継母は「ひいいい!」と叫んで一人で逃げていく。
「お母様! 置いていかないで! 体が動かないのよっ! 助けて!」
母を追いかけようとするが、赤黒い渦に縛り付けられたようになって、身動きが取れないらしい。そんな娘を置き去りにして、継母は一目散に逃げていく。
「どうやら母親の方は魔法が使えないようだな。こんなこともあるだろうと外に兵士を置いている。彼らが捕縛するだろう」
リュークスは慣れたことのように言って、動けないイランザに視線を戻した。
目が合うと、イランザは「ひっ!」と叫んで、慌てて懇願した。
「ち、違うの。私はお母様に脅されて仕方なくやっていただけなの! 本当よ。私はここでお父様の娘として、本当にあなたと結婚して幸せになりたかっただけなの。ね、そうでしょ? お父様! お父様は私を助けてくれるでしょう?」
イランザは、今度は呆然と立ちすくむ父に懇願した。
しかしリュークスがもう一度マリベルのダイヤをちょんと突くと、イランザに伸びた赤黒い光の筋が弾けるように霧散し、彼女は「ぎゃっ!」と叫び声を上げて、その場に倒れた。
それと同時に父と使用人達は、夢から醒めたように我に返った。
「あれ? 私はなんだって、あんな怪しい者を娘だなどと思っていたのだ」
「私達も、どう見ても品位のかけらもないような、あの娘にどうして従っていたの?」
「ああ、お嬢様! 私はどうしてお嬢様に冷たくしたりしたのかしら」
「どう考えても、あの母娘が怪しいと最初は思っていたはずなのに……」
「どうかお許しください、お嬢様。私達はどうかしていたのです」
嘘のようにみんなが正気に戻った。
「おお。マリベル。大切な私の娘を、私はなぜ田舎に療養に出そうなどと思ったのか。許してくれ。お前は私の一番大切な宝物だったはずなのに……。すまない、マリベル」
「お父様……」
やっと母が生きていた頃の父に戻った。
そして今度こそ、泣きながら本当の愛で抱き締めてくれた。
「もういいの。昔のお父様に戻っただけで、私は嬉しいのだから」
マリベルは父の腕の中で、久しぶりに本当の父に会えたような喜びに涙ぐんだ。
そして、地面に倒れこんだまま動けないらしいイランザをリュークスが見下ろしていた。
「少し前にも、辺境の伯爵が同じような被害に遭ったと聞いていたが、おまえの仕業か。よりにもよって私の大切な婚約者に手を出したのが運の尽きだな」
マリベルはリュークスの意外な言葉にどきりとした。
「彼女の前だから、手加減してやった。この程度の成敗で済んだことに感謝することだな。だが、牢に入った後は、多少手荒なことをしてでも、じっくり話を聞かせてもらうことにしよう。覚悟するがいい」
「く……」
悔しそうに唇を噛みしめるイランザだったが、捕らえられた継母を連れてやってきた兵士達を見て観念したのか、がっくりと肩を落とし、縄で縛られて連れて行かれた。
その様子を横目に見ながら、マリベルはリュークスに心から感謝の言葉を告げる。
「あの……ありがとうございます、リュークス様」
さりげなく『私の大切な婚約者』と言ってくれたリュークスの言葉が、意外なだけに嬉しくて、マリベルの頬が染まる。
「リュークス様が私を信じてくださったからです。本当にありがとうございます」
マリベル自身ですら、自分が信じられなくなっていたというのに、リュークスは会った途端にいつものマリベルではないと気付いてくれたのだ。
「いえ。あなたがどうやっても思いつくはずもない言葉ばかりだったので、すぐに分かりました」
「私に思いつくはずもない言葉?」
確かに自分が言っていたらしい言葉は、考えたこともないものばかりだった。
でもそれをどうしてリュークスが知っているのだろう。
「子どもの頃からあなただけを見ていたのです。あなたの人柄は私が誰より知っているつもりです」
「私だけを……?」
マリベルは目を見開いた。
「ええ。私はずっとあなたに片思いしていました。結婚するのはマリベル以外いないと、ずっと心に決めていたのです。だから、士官学校に行っている三年間に誰かに奪われないよう、父に頼んであなたとの婚約を決めてもらったのです」
「え? まさかそんな……」
片思いして目で追っていたのは、マリベルだけではなかったのだ。
リュークスも同じようにマリベルをひそかに見ていてくれた。
驚きと共に、じわじわと喜びが込みあがる。
「三年後戻った時に言うつもりで父には私の気持ちは黙っていて欲しいと頼みました」
少し照れたように告げるリュークスが新鮮だった。
こんな柔らかい表情のリュークスは初めて見た。
「あなたをずっと想っていました。どうか私と結婚してください、マリベル」
三年前描いていた夢の続きが戻ってきた。
いや、もっと幸せな夢になって戻ってきた。
今度こそ、この夢を現実にしよう。
「ええ。私もずっとお慕いしていました。リュークス様」
嬉しそうに微笑むリュークスは、マリベルを力いっぱい抱き締めていた。
END