第十話 君が君でいられる世界(3)
それから一ヶ月ほど、私と王子はペルナの王城に滞在した。
王は忙しいのか、私たちとは週に一回顔を合わせるぐらいだった。
しかし、そんなことは気にならない。
命の危険がないところに来た、という安堵でいっぱいだった。
私はあてがわれた部屋で、くつろいでいた。窓の傍に椅子を持ってきて、そこに座って王都の風景を眺める。
みんな、元気だろうか。父上、母上、兄上……。
幸い王子や私は「誰かに連れ去られた」ことになっているらしい。それなら、私の実家のひとたちが尋問されることはあるまい。
王妃殿下も、胸を撫で下ろしているのではあるまいか。
やはり、カーティスは騎士ふたりを道連れにしたのだろうか。あのふたりが生きていれば、私たちが逃亡したことを知らせていそうなものだ。それがない、ということは……カーティスの手によって殺されたのだろう。
カーティスはおそらく戦いで致命傷を負い、手当てをしても無駄だと悟って人目につかないところで体から出ていったのだろう。通行証は落としてしまったに違いない。ペルナに入れたら、どんな状態でも私たちに顔を見せてくれたはずだ。
すまない、カーティス。本当に世話になった。
空を見て、私は指を組んで運命の女神フォルティナとその使いに祈る。
カーティスの本当の名前を、聞いておけばよかったな。
「アリシア。今、いい?」
扉がノックされて、王子の声が響いた。
「はっ、はい。どうぞ。開いてますので」
促すと、王子が部屋に入ってきた。
ペルナの貴族がよく着るという、袖なしの長い上衣は水色。上着の下に来ているシャツは白。ズボンは紺色だった。
サフィラス王子の、銀髪碧眼という色素によく似合い、涼しげだった。
思わず王子のペルナ風の装いに見とれていると、彼は首を傾げた。
「アリシア?」
「はっ、すみません。起立もせず! 今、立ちます!」
「ああ、いいよ。座っていて。さっき、陛下が私の部屋に来たんだ」
王子は、ペルナ王を伯父とは呼ばない。念のためだろう。
「いよいよ、準備が全て整ったらしい。明後日、ラクリマに出発ということになった」
「明後日……ですか」
急な話だったが、旅の荷物は既にまとめてあるので、出立に問題はなかった。
「うん。君の養父も決まった。あくまで書類上のことだから、対面もないけどね。……アリシア。今更聞くけど、本当にこのまま私の婚約者になり、妻になっても問題ないんだよね?」
「も、もちろんです……。問題どころか、身に余る光栄で」
「それなら、よかった。君がどうしても戻りたいなら、シルウァに戻すこともできるから……と思って」
さらわれたけれど、命からがら戻ってきたという体で……ということだろう。
「たしかに、家族が恋しくないと言えば嘘になります。でも、私はそれ以上に――王子の傍にいたくて、ずっと頑張ってきたんです」
初めは試験を受けて。次は、時をさかのぼって。何度もやり直して。
「だから、お傍にいさせてください」
私が小さな声で請うと、王子はこちらに近づき私の頭を抱きしめた。
嗚咽が、自然に漏れる。
どうか、これで終わりになりますように。もう、やり直したくなかった。
「泣かないで、アリシア。今まで、よく頑張ってくれた」
「……すみません。ありがとうございます」
王子から体を離し、私は拳で涙を拭った。
苦笑した王子が、懐から取り出したハンカチで涙を拭ってくれる。
「ところで。もう私は王子じゃないし、婚約者になるわけだ。殿下と呼ぶのはもちろん、敬語も止めてほしい」
「ええっ!?」
殿下呼びはともかく、敬語を止められるだろうか……。
不安だったので、私は「努力します」と答えておいた。
翌々日、私たちを乗せた馬車が王城を発った。
警護のために、王の近衛騎士が五人ほど付き添ってくれた。
私は今回騎乗せず、王子……いやサフィラスと共に馬車に乗っている。
見下ろせば、青いドレスが視界に入る。いつも高い位置でくくっていたダークブロンドの髪も今は、下ろされていた。
あくまで今の私は伯爵令嬢で、もう護衛騎士ではない。だから帯剣していては不自然、ということで、私の剣帯と剣は馬車のなかの荷物に紛れていた。
ペルナの王城でもドレスを着せられて帯剣していなかったので慣れたと思いきや、こうして移動しているときに帯剣していないと、どうにも落ち着かなかった。
「アリシア? どうしたの、ぼうっとして」
サフィラスに声をかけられ、私はハッとする。
「いえ……いや、落ち着かないと思って。私は、剣と共にあるのが普通だったので」
敬語なしでも、なんとか話せるようになっていた。まだ少々ぎこちないが。
油断すると、つい殿下と呼びそうになるので気をつけないと。
「そう。でも、令嬢というか女性が剣を帯びていると目立つからね。不安かもしれないけど、慣れておいて」
「はい……いや、うん」
そうか、これからも私は剣を帯びることはないのか。伯爵夫人が武装していたら、おかしいもんな。
それに、どこからうわさが漏れるかわからない。武装する女と珍しい女騎士だったアリシアを、結びつける者がいるかもしれない。
私はサフィラス王子を守りたくて、騎士の道を目指したようなものだ。その結果、剣と別れることになるなんて、皮肉な話だった。
ラクリマ領に着くと、私たちは城の者に歓迎された。
前の城主のもとで働いていた家臣や使用人は、そっくりそのまま残っているらしい。
ラクリマ領に来て、あっという間に三日が過ぎた。
サフィラスは、しばらく領主代理を務めていた男に領地管理の仕事を習うのに時間を費やし、私は手持ち無沙汰で私室でのんびりしていた。
伯爵夫人に仕事がないわけではなく、使用人の統括という大事な仕事がある。だが、私はまだ婚約者で夫人ではない。
今は、家臣が夫人に代わって使用人の統括をしているらしい。いずれ、私もその仕事内容を教わるだろう。
そういうわけで、今は私はしばらくのんびりしておいてくれ……と言われたのだ。
「眺めは最高だな」
部屋の窓を開け放つ。窓からは、遠くに海が見えた。潮の匂いがする。
「遠くに来たんだな……」
内陸のシルウァでは、見られない光景だった。
ふと、視界が歪んだ気がした。
何だ? と思って目をこすると、足に力が入らなくなって、私は膝をついた。
混乱して、私は近くのテーブルに置いてあったベルを手に取ろうとしたが、手に力が入らず、それを取り落としてしまった。
りりりりん、とけたたましい音を立ててベルが転がり、私は倒れて意識を失った。
アリシア、と呼ぶ声がする。
嘘だろう……。まさか、また時間をさかのぼったのか……?
でも、おかしい。あそこに、なんの危険があったっていうんだ。
絶望しながら、目を開ける。
すると、目に入ったのはサフィラスの顔だった。彼は心配そうに、こちらをのぞきこんでいる。
手が温かい、と思ったらサフィラスが握ってくれているのだった。
「アリシア、気がついたかい」
彼の外見は、十五に見えた。よかった。時間が戻ったわけではないようだ。
「殿下……じゃなかった、サフィラス……。私、どうなったのですか」
「私が聞きたい。使用人を呼ぶベルが鳴ったからメイドが駆けつけたら、君が倒れていたらしい。大丈夫? 何があったの?」
「わかりません。急に視界が歪んで、体に力が入らなくなったんです……。それで、ベルを鳴らしました」
「そう。医師にも診てもらったんだけど、特に異常はないっていうんだ。精神的なものかな?」
「……だと、思います。あ、しまった。敬語になってた。……ええと、おそらく。ずっと気を張っていたから、疲れたのかも」
「それなら、いいけど。とにかく、ゆっくり休んで。君には苦労をかけたからね。……また、様子を見にくるから」
サフィラスはそう言いながら、手を放さず私のベッドの傍に座ってくれていた。
眠るまで、傍にいてくれるつもりなのかもしれない。
私は目を閉じたが、少し怖かった。また時間がさかのぼりそうな気がして、意識を手放すのを恐れていた。
「おやすみ、アリシア」
声と共に、サフィラスが私の額にキスを落とす。
猛烈な眠気に耐えられず、恥じらう間もなく――私はまた、眠りの世界に引きずり込まれた。