第九話 君と逃げた先に(1)
三日後、サフィラス王子が病に倒れたという知らせが入った。
うつるといけないので、カーティスも私も王子の部屋には行かないように、という通達が出された。
せっかくなら実家に戻っていたらどうだ、とカーティスに言われたので、私は一旦王都にある別邸に向かった。
そうだ、私は家族とも別れないといけないんだ。
計画を言うわけにはいかなかったけれど、密かに別れを惜しむぐらいは、いいだろう。
私が帰ると、玄関で母が迎えてくれた。執事から娘が帰ったと聞いて、すっ飛んで来たらしい。
「まあ、アリシア。すっかり、家に寄りつかなくなったと思ったら……どうしたの? 休暇?」
「サフィラス王子殿下が不調で。しばらく護衛任務はなさそうだから、休暇を取った」
病気、とまでは言わずに少し濁しておいた。
「あらあら。大変ね。アリシア、いい機会だから、今度ある夜会に出たらどうかしら。あなたも、もう十三なのよ。そろそろ縁談の話があっても、いい頃だわ。……その愛想のない制服を脱げば、そこそこきれいなんだから」
母は、私をけなしつつ褒めていた。器用な御仁だ。
「とにかく、入りなさいな。おいしいお茶でも、一緒に飲みましょう」
「はい、母上」
彼女のあとについて、私は久しぶりの別邸を見渡した。
もうここに来ることもないのかと思えば、寂しかった。
夕方ごろ、兄上が帰ってきた。
「これは驚いた! アリシア、帰ってきたのか」
晩餐の席に私がいたものだから、兄上はたいそう驚いていた。
「おかえりなさい、兄上。久々に休暇を取りまして」
「ああ……そういえば、サフィラス王子の具合が悪いんだっけ」
ひやりとした。騎士団にも、うわさが届いているらしい。
「そうなんです。私も、面会していないので詳しくは知らないのですが」
「ふーん。早く治るといいな」
無難な言葉を口にして、兄上は席に着く。
父上は、領地に帰っていて不在だった。父上の顔を最後に見られないのは寂しいが、仕方ない。
家族三人そろっての夕食は、楽しかった。
兄上は、話がうまい。場を盛り上げ、私と母上を笑わせてくれた。兄上がいてくれて、よかった。私と母上だけだと、母上の説教だけで夕食の時間が過ぎそうだ。
夕食を終えたあと、ハーブティーを飲みながら私は兄上と語らった。
語らった、といっても、兄上の騎士団面白話を私がもっぱら聞くだけだったが。
……つい、兄上に真実を言いたくなったが、すんでのところでこらえる。
兄上が善人なのは知ってる。私を大切にしてくれていることも。
でも、兄上がサフィラス王子より国王に忠誠心を抱いていたら――密告する可能性は、ある。亡命を阻止し、王子に加担としたとして処断を免れえない私を助ける手段を探るかもしれない。
ありえない話ではない。兄上はサフィラス王子と接する機会なんてほとんどないだろうし、兄上の所属している王立騎士団は王直属の部隊ということになっている。王が騎士団を視察することも、あるだろう。
「アリシア?」
声をかけられ、ハッとする。喉が渇き、カップに口をつける。カモミールティーは、ぬるいを通り越して冷たくなっていた。
「……悪い、兄上。ボーッとしてた」
「はは。別に、いいけどな。何か、悩みごとでもあるのか?」
「いや、ない。私は憧れのサフィラス王子に第二護衛騎士とはいえ、仕えることができて本当に幸せな毎日を送っている」
「それなら、いいけど。カーティスに、いびられてないか?」
「カーティスは親切だよ。いいひとだ」
私がカーティスを庇うと、兄上はにこにこ笑っていた。
「なら、カーティスと結婚したらどうだ?」
ぶっ、と思わず茶をふきだしかける。
「な、なんでカーティスなんだ!」
「え? いや、結構いい男だろ。それに、お前もいいひとだと言っていたじゃないか」
「あくまで同僚として、だ!」
カーティスは見た目は人間でも、中身は天使だ。彼と結婚なんて、考えたこともなかった。
「なんだ、つまらん。早く、お前の結婚相手を決めて安心したいのだが」
まるで父親のようなことを言う。今回は四歳も離れているからか、親気分なのかもしれない。
「私はまだ、十三だ。結婚なんて早い」
「十三までに婚約者が決まっている者は、少なくないぞ。アリシア」
「……もう寝る」
「おいおい、待てよ。もうちょっと話そうぜ。結婚のことは言わないから」
兄上に引き留められたが、私はためらいなく立ち上がった。
これ以上話していると、ぼろが出ないとも限らない。それに、あまり長く話していると名残惜しくなってしまう。
「すまない。……眠いんだ。おやすみ、兄上」
「――ああ、おやすみアリシア」
そして、さよなら兄上。
亡命後、ヴィア侯爵家に、処分が下らないかどうか――それだけが心配だった。父上なら、うまく立ち回ってくれると信じているけれど。
翌朝、私は王城の部屋に帰った。
それから、王子の呼び出しのない日々が続く。
カーティスも、顔を見せなかった。王子の呼び出しもないのに、私たちが話し込んでいると怪しまれる、と思ったのだろうか。
気忙しい割に、退屈な日々が過ぎていった。
ある朝、カーティスが扉越しに私を呼んだ。
「アリシア。起きているか」
「……ああ!」
それまで寝椅子に寝転んでいた私はガバッと起き上がって、扉まで走った。鍵を開けて扉を開くと、カーティスが真面目な顔で見下ろしてきた。
「殿下が、療養のために保養地に行くことになった。お前も同行しろ」
「あいわかった。殿下の具合は?」
「まだ、俺には知らされていない。同行のときに、医師から説明されるだろう」
茶番だとわかっていて、私たちは真剣に会話を続けた。
どこで誰が聞いているか、わからないからだ。
「出発は、明日だ。荷造りしろ。長期滞在になる。保養地はイルス。かなり遠いから、そのつもりで」
「了解。準備する」
私たちは、うなずき合う。カーティスは踵を返し、去っていった。
扉が、ぱたんという音と共に閉まる。
……いよいよ、亡命だ。
緊張で、心臓がどくどくと早鐘を打つ。
もう、失敗したくない。どうかうまくいきますように。
神々に祈りを捧げ、私は準備を始めることにした。