あかね~終~
僕たちはお互いに好きなのだとは理解していた。疑いようもなかった。でも、それを言葉にすることがなかった。いや、できなかった。恥ずかしいからとか、そんなんじゃなかったと思う。必要性がわからなかったのだ。
そして、そんなこともわからないのだから、どうやって愛情を分かち合っていけばいいのかも知らない。
ある日、中島がかわいらしい便せんのような紙に、一生懸命何かを書いているのが目についた。
「何してんの?」
驚いてこっちを見た彼女が、少し恥ずかしそうな顔をして、紙を手で隠した。でも、彼女には不思議な度胸みたいなものがあった。何か思い直したらしく、まっすぐにこっちを見る。
「さて、なんでしょう? って、わかるよね」
彼女は僕に手紙を書いてくれていたのだ。
「でも、ぜんぜん上手に書けない。だから、渡すのは上手になってからでいい?」
隠すことをやめた彼女は、照れずにそう言った。この思い切りのよさが、僕たちの間柄をどんどん詰めてくれたのだと、後になってわかる。
「交換日記、ってあるやん。あんなんは?」
僕なりに考えてもいたのだ。互いに好きなのはわかっていた。でも、好きだという言葉の使い方も使う場所もわからない。一緒にやることもない。デートをしたり、キスをしたり、そんなのは、もっと未来のことだと思っていた。だったら、ノートに書いてみればいい、そう考えた。彼女と共有するものが、ひとつできる。そこならば、好きだという言葉も使えるのかもしれない。
「うん、私も考えた。でも、吉野君みたいに言葉上手じゃないから、これで練習しようと思って……。だから、少しだけ待ってて」
そう言って、書かれた文字を手で見えないようにしながら、目で便せんを示した。彼女はまじめで、どこか完璧主義なところもあった。だから、女の子らしい、上手な手紙を書きたかったのだ。
「そうか。あせってもしょうがないもんな」
僕も急ぐ気はなかった。
「でも、すごく楽しみなんだよ、交換日記するの。だって、吉野君おもしろいもん」
中島がペンを持った手に頬杖をつきながら、僕を見て小さく笑う。
「自分、字めっちゃ汚いけど、書くの好きやし。楽しそう」
笑って返した。ふたりで過ごす時間は、ずっと続くのだ。だから、ゆっくりと進めばいい。
数日後、2学期の終業式だった。
通知表が配られ、クラスのみんながそれを見ながら、大きな声を上げている。
「成績、どうだった?」
中島が自分の通知表を閉じながら、僕に声をかける。チラッと見えた彼女の成績は、十分に優秀だった。でも、僕の成績はもっといい。もともと、授業はよく聞いていた。そんなに勉強しなくても、小学生の学習範囲くらいでは躓かないタイプだった。
「見ていい?」
隠すようなものでもないし、相手は中島だった。
「別にええよ」
そう言って、ぞんざいな感じで渡す。開いて見た中島が驚く。でも、大きな声は出さなかった。いや、むしろ小さな声で言う。
「吉野君って、頭いいんだ」
「別にたいしたことない。中島も成績よさそうやん」
それでも、彼女は不安になったようだ。
「中学、私立とか行くの?」
そんな気はさらさらないし、そんなことすれば彼女と離れてしまう。
「行くわけないやん。みんなと一緒の中学行くよ」
それを聞いて中島がほっとする。心底心配だったらしい。
「よかったあ。でも、私もがんばるね。置いていかれたら大変」
まだ、小さな声で話し続ける中島がかわいい。
「成績なんか、だいたい一緒やったら大丈夫やん」
何と何が一緒なのかわからない言い方だったが、中島は意味を理解してくれた。うれしそうに僕を見た。
周りを見ると、もう、みんな帰りはじめていた。ふたりも荷物を担ぐ。彼女と僕の家は、まったくの逆方向。一緒に帰ることはできない。だから、校舎を出たところで別れた。また来年、とかも言わない。ふたりの間では意味がない言葉だ。
何も言わずに、手を上げて中島を見た。彼女は、とてもうれしそうに笑って、手を振ってくれた。あまりにキレイだったから、景色なんか、おぼえていない。
正月が明けて、3学期の始業式の日。学校に行くと、中島の席が空いていた。変な胸騒ぎがする。それでも、風邪をひいたのだろうな、と思い込んだ。
でも、最初のあいさつの後に先生が容赦ない情報を口にする。
「そうそう、中島さんはご家族のご都合で冬休み中に引っ越しされました。なんか、東京の方らしいです」
それだけだった。クラスの何人かが、僕の方を見ていた気がする。けど、そんなことは気にならない。頭の後ろの方がしびれた感じで、まったく思考できなくなっていた。おちょくられても、聞こえなかったはずだ。
学校が終わると、誰と口を利くこともなく、ひとりで家に向かった。カバンを放り投げると、電話の近くにある連絡網のペーパーを探す。見つけた。
でも、そこには中島の名がなかった。1学期に配られた、彼女がやってくる前のものだったからだ。2階に駆ける。そこの電話の前にも、連絡網があるはずだった。見つけた。中島の名もある2学期のものだった。
ノートを破き、そこに住所をメモした。台所に貼ってある市内の地図を見る。学校の北東。本当にウチとは真逆だった。
自転車を引きずり出す。乗って駆けだした。どの道を進んだのかもおぼえていない。下校中の知人に声をかけられたが、全部、無視した。左側に新幹線の高架橋を見ながら、ただ、走る。
比較的大きな集合住宅が住所の場所だった。複数ある棟のひとつの前に自転車を止めた。1階にある郵便受けの該当箇所を探す。札がはがされた跡がある。そのまま階段を駆け上がる。中島の家、いや、そうだった場所。表札もはがされていた。
もう、何もない。彼女はいないのだ。
下に戻り、自転車を押す。この道を彼女が去っていったことに思いが至る。
中島あかねは、何を思ってここから去ったのだろう。そう考えると同時に、そんなことは、わかっていると思った。僕のことを考えていたのだ。
さみしかっただろうな、と思う。ついこの前、違う中学になるかもしれないと、不安になっていたくらいなのだ。でも、それよりずっと早くに、僕たちは離れてしまった。また、彼女がさみしい顔で、転校先で過ごしているのだと思うと、冷静さなんか残らなかった。
僕たちはお互いに相手が好きだった。でも、好きだという言葉を使えなかった。恥ずかしいんじゃない。使い方を知らなかった。
でも、使わないと、いつか消えてしまう怖さを感じていた。だから、紙の上でしかないけど、互いに使ってみようと約束したのだ。それを実現すれば、もう少し上手に、この好きな思いを続けていける。そんな予感があった。大人まで続く、小さな一歩がほしかったのだ。
それなのに、僕たちは時間の急加速に差し込まれて、置いていかれてしまった。好きだという言葉さえ使えないのに、連絡先を交わすような上手さがあるわけなかった。残ったのは好きだという思いだけ。
新幹線の音も、上空を飛ぶ飛行機もやかましい。1月の空が、腹が立つほどに青く、上を見る気になれなかった。