陽子~一~
「吉野くん、どこ帰るん?」
春の風、住宅地の中、ランドセルの向こうから声が聞こえる。振り返ると、後ろにはニコニコと笑うふたりがいる。
「家、こっちやったっけ?」
面倒だから、先に言葉にしようと思う。
「今日から、こっちになった!」
親が家を移しただけだったけど、小学3年生になるときに、僕は転校した。理由は今でもよくわからないが、春休み中の引っ越しはできず、数週間、遠い転校先の学校まで通った。ひとり歩く長い帰り道が、とても心細かった記憶がある。
結局、父の仕事仲間が手伝ってくれる形で、ゴールデンウイークにようやく転居できた。父の知人たちが、引っ越し途中なのに、急いでテレビを設置していたのを記憶している。映ったテレビには、競馬の天皇賞が流れていた。大人たちの反応から、ちょっとした穴馬が勝ったように思う。
そんな大慌ての休日が過ぎた後の、夕方だった。
「吉野君って、歩くの速いんやね」
同じクラスになっていた佐々木陽子がずっと声をかけてくる。横に一緒にいるのは田中恵、だったと思う。こっちを向いて笑っている。
「なんじゃい?」
女の子に声かけられて、上手に答えられるような年齢じゃなかった。だから、困ったら乱暴になる。
「なんじゃい?」
「なんじゃい、だって。仕方ないよねー。私たちも、こっちに帰るんやもん」
陽子はうれしそうに笑っていた。恵はついて歩くのに疲れたのか、誰かの家の壁にランドセルを預けながら、こっちを見ていた。
「なんじゃい!」
僕はそう叫んでスタスタと歩くしかない。後ろから、キレイな笑い声がついてくる。
それ以降、友達というか、仲が良くなった陽子と僕は、気が向けば一緒に過ごすようになる。
「遠足って言うけど、近所のお寺よ」
「いっぱい歩くためやから、だるいとか、しんどいとか、言うたらアカンらしいな」
「吉野君は余計なこと言いそうやから、気をつけないとアカンよ」
そんなことを前日に陽子と話していた。でも、バスを降りるときに出てしまう。
「ああ、しんど」
ちょうど、後ろの席から降車口に向かっていた陽子が気づく。でも、その後ろにいた学級委員らも気づいて叫ぶ。
「吉野君がしんどい、って言いました!」
陽子がすぐに声を出す。
「吉野君、ホンマに車酔いしたみたい! ちょっと一緒に降ります」
そうして、陽子は僕の手を握って引っぱるフリをする。僕は引っぱられた形になって、一生懸命立ち上がったようなフリをする。そして、バスを降りる。早めに離れる。
「だから言うたやん。余計なこと言うたらアカンって」
ふたりで、少し笑う。
「今日は、一緒に歩いて、ごはん食べて、一緒に絵描こうか? アンタ、病気やから、近所の私が付き添ってあげる」
言われたこっちは、もういいやと思った。誰も知らない学校に来て、同じ班でもないのに、ずっと寄り添ってくれるのが彼女だった。背はぜんぜん小さくて、背が高い僕からしたら、頭ひとつ下に顔がある、でも、その顔の中では、ことさら大きな瞳が輝いていた。華やかで、まっすぐで、ドキドキする。
「あ、ありがとう」
陽子がケラケラと笑ってくれた。
「そんなん、気にせんでええやん。一緒にいようよ。吉野君は転校生やから、そうしたらいいやん」
「友達、佐々木くらいしかおらんもんな」
「そうそう。家近いから、仲良しやもん」
笑うしかない僕は、結局、陽子の言うがままに過ごした。本当に班分けでは別だったはずなのに、記念撮影も一緒だった。
帰りのバスに乗り込むとき、陽子は先生にも声をかける。
「先生、知ってた? 吉野君って、めっちゃ絵うまいんよ!」
言われた僕は困ってしまうが、描いた絵を先生がみんなに見せていた。山陽道方面では重要な古刹が、それなりに上手に描けたのは間違いない。一緒にいてくれた女の子が、ずっと親切だったからだ。
「これから、絵描く行事は吉野君が中心になったらいいと思うよ」
「おおー」
陽子はこの学校において、僕を真っ先に助けてくれた存在だった。おかげで、転校生のくせにクラスに溶け込み、その中で楽に生きていけるようになる。
後日、遠足の写真が廊下に貼り出され、自分が写った写真を買う儀式が来る。
「お前な、パンツ丸出しで写るなよ」
僕は陽子と一緒にいた写真を買いたいのだが、そこに気が付いてしまう。だから、ほかのヤツに気付かれないような小さな声で、彼女に言う。気付かれると、アホな男子がギャアギャア言って、陽子が傷つく。
「仕方ないやん。私は吉野君と一緒がうれしかったから、別にいいんよ」
そう言われては仕方ない。ふたりで、その番号を茶封筒に貼られた希望の表に書き込む。一緒に書いたから、なんだかうれしくて、互いにニコニコ笑っていた。
3学期になるころには、クラスの中のポジションもでき、強い調子で自己主張することもできた。いや、僕は口が悪いところがあるので、やりすぎたことも多い。でも、そんなときでも、陽子は近くの席で笑ってくれた。
「ねえ。私って、あのアイドルのダンス、全部できるんよ」
「知らんがな」
「今度、見せてあげるよ」
「知らんがな」
「ええーっ? めっちゃかわいいのに」
陽子はクラスから浮き気味になる僕を、なんとかして止めようとしてくれた。僕は上手に応じることはできなかったけど、陽子が近くにいるときだけは、ずっと穏やかで、仲がいいままだった。