Act.03 現実世界の裏側へ(3)
視界が一気に開けた。
軽い目眩で着地がふらつく。
ビュウッ! っと風が吹き込んで、服の端を巻き上げる。
顔を上げたそこは、先ほどまでと同じようで、やっぱり違う場所だった。
アスファルトとコンクリートが斑に敷かれた地面。
両サイドと後方を囲む校舎の壁。
潜ってきたゲートは背後にそびえ立っている。
しかし―――
――え? ここ、外…?
正面と頭上を覆っていたはずの壁が無い。
辺りに並んでいた機材も無い。
正面には向かいの建物らしき瓦礫がそのまま見え、頭上にはただ、澄んだ黄色い空が広がっている。
植物は紅葉しているかのように赤く染まり、建物も、地面も、どこか違和感のある色彩に変わっていた。
異界。
目の前の景色は、確かにそう呼ぶに相応しいものだった。
「ここが……転界、ですか?」
「ああ。すごいだろ。センナは入ったの初めてか?」
「はい。その、何というか……」
周囲に並ぶ建物は、元の面影こそ残しているものの、ひび割れ、風化し、至るところが崩れている。
廃墟―――現世の方でもそう思ったが、さすがにレベルが違う。
赤い苔の蔓延る壁は何十年も放って置かれたような朽ち果て様だった。
人間の、あるいはあらゆる真っ当な生物の存在を抜き取ったような、形だけを写した世界。
「……脱け殻みたいだよな、ここ。"転写世界"で"転界"って呼び名になったらしいんだけど……『複製』っていうか『模造品』だし………」
響斗は半ば独り言のように呟くと、クルリとゲートの方に向き直って、
「ウツロギ、ちゃんと入れたぞ。そっちは異常ないか?」
『問題ありません。無事に入界出来たようで何よりです』
ゲートから響く洞木の声が答える。
ゲートは現世と繋がっている。
定義そのものとも言える事実に、会音はそっと胸を撫で下ろした。
ノイズ混じりの音声は続けて、
『こちら側の機材ではゲートから数メートルまでしかわかりませんので、この後のサポートはできません。くれぐれもお気をつけて』
「だってさ。本当に危なくなったらすぐゲートのとこまで戻れよ。帰りはこの辺で呼べば開けてもらえるからな」
『はい、お帰りの際はまたお知らせ下さい。頑張って下さいね』
そう言って、オペレーターの声は切れた。
響斗はぐっと伸びをしながら、
「さて、と。頑張りますか。先輩らしくいいとこ見せろってライリーにも言われたしな」
「ライリー?」
「ああ、俺の彼女」
「……えっと………?」
何と答えるべきか迷っていると、急に響斗が声のトーンを落として言った。
「ん。そろそろ始めるか。向こうもやる気みたいだしな」
響斗の声に呼応するかのように、周囲になにかが蠢く気配が立ち上った。
現れたのは、バラバラにした生き物のパーツを適当に接着剤でくっつけてバランスだけ整えたような異形の群。
芋虫で作った簑を纏った簑虫。
嘴の代わりに毒々しい黒と黄色の縞の針をもつ四面の鳥。
針ではなく無数の昆虫の足を生やしたハリネズミ。
等々、いちいち説明していられないほどのバラエティに富んだごった煮の怪物達がこちらを見つめていた。
「数はいるけど、まあなるようになるさ。近くに大きいのはいなさそうだし、落ち着いてやればどうってことねえよ」
言いながら、響斗は空中の何かを掴もうとするかのように、右手を正面に伸ばす。
すると、その手元にどこからともなく光る霧のようなものが現れた。
キキキキキキ! と小さく甲高い音を立てながら、光の粒子は瞬く間に少年の手の中に収束していく。
出来上がったのは、刃も、鍔も、柄も、雪像のように真っ白な、淡い光を放つ諸刃の片手剣。
これが、彼に宿る異能の力。
周囲に展開した粒子から、剣を生成する能力。
特務部だけに許された、ラルヴァを倒すための切り札。
彼らのもつ異能とは、そういうものだ。
故に、戦闘において『使える』能力に目覚めた一部の者だけが、戦場に立つ資格を手にする。
響斗は光剣を携えて、一気に敵陣に斬り込んだ。
鱗の生えたカンガルーのようなラルヴァを袈裟斬りにし、体を捻って勢いを遠心力に変換。地面を削ぐような下段の水平切りで足元のラルヴァを薙ぎ倒す。さらに回転を加えて空中に飛び上がり、嘴を構えていた鳥型を叩き落とした。
次々に動作を繋げながら、響斗は驚くほど正確で素早い動きで敵を屠っていく。
まるで剣舞のようなその動きに新人二人は思わず見とれそうになったが、別方向からも異形の群れが迫っているのに気づいて臨戦態勢に入る。
千奈は持っていた槍を片手に握り直すと、空いた方の手で腰に付けていたボトルの一本を引き抜いた。
そして、ワンタッチで開くタイプの蓋を指で弾いて、中の液体を槍に注ぐ。
液体は何の変哲もないただの水だった。
だが、そこに彼女の異能が作用し、刃から滴る水がピタリと止まる。地面に流れ落ちた水までもが逆再生するように浮かび上がり、ゆっくりと蠢きながら刃の表面を覆っていく。
水はそのまま速度を上げ、特殊合金で出来た刃よりも、さらに鋭く大きな刃を形作った。
「行きます!」
タンッ! と強く踏み込んで、千奈は手にした水刃を振るう。
鋼の重量を包んだ水のチェーンソーが、正面のラルヴァの群れを軽々と刈り取った。
「凄ぇ……」
「おおー! かっけー! ウォーターカッターってやつか、あれ!」
サーカスを観た子供のような、純粋な感想を述べる響斗に、千奈は攻撃の手を休めること無く、
「はい、高速の水を槍に纏わせて攻撃力の底上げを行っています」
そう答えながら、バックステップで距離をとり、また別の集団へと攻撃を仕掛ける。
「水の操作能力か……なるほど。エノンはどんな……」
「うわわわわ!?」
――ちょっ、無理無理無理! 群れとか対処できないって!
わらわらと群がってくる異形の群に追われる会音。
各ラルヴァで移動速度も違うので、追い付いてきたやつから一体ずつ倒していくという路地裏喧嘩スタイルで少しずつ数を削っていく。
手にしている武器は討伐課の装備としてはオーソドックスな剣のタイプ―――気休め程度に軽量化が施されたやや短めのものだ。
「んー……エノンの方はよくわからないなあ」
ヒットアンドウェイを繰り返す会音は特に異能を使っている様には見えなかった。
「身体強化系……か? にしては動きは普通だな」
誰しもが魔法のような派手でわかりやすい能力をもつ訳ではないし、派手なら強いとかそんなこともないので別に何の問題も無いが、強いて言うなら能力がわかっていた方が連係を取りやすい。
訳のわからないまま味方の異能の巻き添えを食うのはごめんである。
いやそもそもメンバーの能力くらいリーダーなら把握しとけよという話だが。
「いや、普通……でもないのか?」
よくよく見ると、だ。
千奈の水刃は確かに強力だが、薙ぎ払ったラルヴァ全てを仕留めきれてはいない。
一方、会音の方は一度に対処できる量は少ないが、どれも一撃で仕留めている。
ラルヴァは体内にある核を破壊しない限り、完全に倒すことはできない。
しかし、形状からして千差万別なラルヴァの核の位置を一発で当てるのは、かなり難易度が高い。
「初めてにしちゃ正確過ぎるよな。まぐれでも無さそうだし……」
と、その時。
「千奈ちゃん、後ろ!!」
悲鳴に近い会音の声。
「え?」
咄嗟に振り返った千奈の足がもつれ、そのままバランスを崩して尻餅をついた。
背後に迫っていたのは、ひび割れ苔むした廃墟の一部―――に見えた。
―――が、次の瞬間、
ギチリ
と軋むような音を立てて、壁の残骸にクモの巣のようにはしっていたひび割れが、一斉に開いた。
割れ目から覗くのは、『眼』。
全く生気を感じない動物や虫の『眼』が、何かの卵のようにびっしりと壁の中に埋まっていた。
廃墟の壁のようだった何かは見る間にその形を変化させ、瓦礫を目玉で繋いだような不定形な姿となった。
「ひッ!?」
嫌悪感に一瞬身がすくんだ千奈の頭上に、瓦礫と目玉で作られた異形の腕が振り下ろされ―――
ドゴンッッ!! という鈍い破壊音が辺りに響いた。
「……え!?」
しかし、予想していた衝撃はやってこなかった。
おそるおそる目を開ける千奈の前には―――『穴』が、開いていた。
千奈に向けて振り下ろされたラルヴァの一撃は、突如空間に開いたその『穴』の中に沈みこみ、彼女の元まで届いてはいなかった。
よくみれば、数メートル先に同じような『穴』があき、瓦礫を纏った目玉の塊がそこから飛び出して地面を抉っていた。
もし攻撃がまともに当たっていたならば、千奈は肉塊にされてしまっていただろう。
しかし、恐怖よりも、千奈の頭を占めていたのは混乱だった。
空間を歪めて空けられた、影も厚みもない平面的な『穴』。
それはまるで―――
――ゲート……!?
呆然とする千奈の横を、大剣を生成した響斗が高速で通り過ぎ、再び攻撃に移ろうとしていた怪物の体を壁際まで吹き飛ばす。
「大丈夫!?」
駆け寄ってきた会音に起こされ、千奈が再度辺りを見回すと、もう先ほどの『穴』は無くなっていた。
「二人とも無事か?」
止めを刺し終わった響斗も二人のほうに駆け寄って来た。
辺りにいた他のラルヴァもあらかた片付いており、まだ動いているものもそそくさと逃げ出していた。
とりあえず脅威は去ったとみていいだろう。
響斗は改めて二人を見るが、怪我らしい怪我は見当たらない。
「ん。大きい怪我はないみたいだな。良かった良かった。それと、さっきはナイスだったな、エノン」
「ああいや、えっと、ありがとうございます」
誉められ慣れていないのか、ぎこちない笑みを浮かべる会音に、千奈が申し訳無さそうに言う。
「……油断しました。すみません」
「あ、謝ることじゃないって!」
わたわたと否定する会音に続いて響斗も、
「そうそう。すぐ気づかなかった俺も悪いしさ。次気をつければ大丈夫だって!」
とフォローする。
「擬態できるやつに当たったのは運が悪かったけどさ、二人ともよく動けてたと思うぞ。ラルヴァ見ただけで腰抜かしてまったく動けないやつとかいるし」
「ですが……」
こんなことをごねても仕方ないことは自分でもわかっている。
それでも、何か言わずにはいられなかった。
今黙ってしまったら、恐怖と後悔に、内側から押し潰されてしまいそうで。
この仕事が命懸けのものだとは理解しているつもりだった。
しかし、足りなかった。
おそらくは、これを普通の仕事として、日常の延長として考えていた時点で。
非日常に足を踏み入れることへの覚悟が―――まったくもって足りていなかった。
「そんな深刻そうな顔するなって」
響斗は提げていた異能の剣を霧散させながら、
「言っとくけど、ここにくる大概のやつはそうだぞ。忘れてるんだ。ここが、普通じゃないってことを。で、最初は油断する」
だから気にするなって、と歯噛みする千奈を宥めるように、黒髪緑メッシュの少年は笑みを含んだ口調で続けた。
楽しそうに、楽しそうに。
力強い笑顔に、自信と、僅かばかりの寂しさをにじませて。
「ようこそ、忘れ去られた戦場へ。まあ、死なない程度に頑張ろうぜ。死なせる気はないけどな」
◇◇◇
「うぅ……やっぱりデスクワークは嫌いだ……」
ぶつぶつと不満を漏らしながら、響斗は一人で廊下を歩いていた。
転界から帰還し、クレイに報告をした帰りである。
とっくに終業時間を過ぎた館内に人の気配はなく、彼の足音と独り言だけが静まり返った廊下に反響している。
後輩の手前クレイに押し付ける訳にもいかず、苦手な書類と格闘していたらこんな時間になってしまった。
当の後輩はさっさと書き上げて定時に帰っているというのにだ。
「にしても何か疲れたなあ……。いきなり教育係にされたし、説明とか俺苦手だし、報告書も苦手だし……」
それもこれもクレイのせいだ、と未だ残業をしているであろう金髪上司に恨み言を吐く響斗。
「………そりゃ他のことよりは戦う方が得意だけどさ。………まあな、とりあえずケガさせずに済んで良かったよ」
やれやれといった調子の苦笑を混ぜながら、淡々と少年の独り言は続く。
しかし、続けて出た言葉は―――
「ありがとな」
独り言―――ではなかった。
明らかに誰か相手を意識した会話としての言葉。
「そうだよなー。聞き忘れたけどエノンの能力って何なんだろうな?」
少年は空中に向けて問う。
視線の先にあるのは、何の変哲もない廊下の壁だけだ。
だが、響斗は笑みすら浮かべて相手の反応を待っていた。
いないはずの誰かの返事を、楽しそうに待っていた。
◇◇◇
「よし、明日聞いてみるか。あいつらは朝からくるよな?」
俺は足を止めないまま、隣に顔を向けて尋ねた。
『そうね。というか、普通は朝から来るのよ?』
透き通った少女の声がそう返す。
俺の目線に合わせて浮かんでいるせいか、ちょうど耳元でささやかれている感じになって、ちょっとくすぐったい気分になった。
「俺だっていつも寝坊してる訳じゃないって」
言われっぱなしもどうかと思って、とりあえずそう言い返すと、
『じゃあ明日は一人で起きられるの?』
彼女はいたずらっ子みたいに笑って、そんなことを訊いてくる。
ひどいなあ、俺が起きるの苦手だって知ってるくせに。
柔らかそうな淡い緑色の髪。
宝石みたいな金色の目。
つやつやした白い肌。
踊り子みたいな白い服は、ちょっと露出度が高くて、見慣れた今でもたまにドキッとする。
廊下の向こうから入ってきた沈みきる寸前の日の光が、半透明の体に透けていた。
なんか神々しいなあ。
すげえきれい。
絵になるって感じだ。
ああ、本当に信じられない。
彼女が、俺以外の誰にも見えてないなんて。
この声も、姿も―――もう俺にしかわからないなんて。
「いや、それは自信ないから起こして下さい」
人がいないのをいいことに、手を合わせる動作付きで頼んでみる。
俺の反応がお気に召したのか、彼女は楽しそうに笑って、くるくると俺の周りを回った。
動きに合わせて、腿くらいまである長い長い髪がふわっと空中に広がる。
どこか甘い香りがした―――気がした。
多分気のせいなんだろうけど。
『なんにせよ、うちに来たってことは、きっと役に立つ能力よね』
俺をからかって気が済んだ彼女は、話題をエノンのほうに戻して言う。
「そうだな……まあ、どんな能力でもいいよ。それでラルヴァの真理に近づけるなら」
俺が言えるのはそれだけだ。
ラルヴァのことを調べて、思念体になってしまった彼女を元に戻す。
それが、今の俺が戦う理由。
彼女が―――ライリーが肉体を失ったのは―――俺のせいだから。
『そうね……。でも、無理は駄目よ?』
「大丈夫。無理なんてしないって」
少し心配そうな顔をするライリーの頬に手を伸ばす。
けれど、ホログラムみたいに実体のない彼女の体は、伸ばした手をあっさりすり抜けていった。
ああ、やっぱり触れられないか。
わかってた。
嫌ってほど。
それでも俺は何度でも、『ない』っていう感触を確かめ続けている。
何度も、
何度でも。
自分の決意の在り処を確認するように。
「………やっぱり俺はもう一度、ライリーに触れたいよ」
気がつくと、もう建物の玄関まで歩いてきていた。
扉を開けて、薄暗くなってきた外に足を踏み出す。
感傷に浸ってなんていられない。
明日も仕事だ。
「……やるしかないよな」
俺にはもう理由があるんだから。