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Act.19 追憶世界の夢から醒めて

現代 灯和の執務室


「うーむ……」

 長い回想を終えて、灯和(とうか)が一声(うな)る。

「結局ほぼ全部話したな……」

 悩ましげに眉間に(しわ)を寄せ、完全に巻き込むしかなくなった後輩を見て小さな溜め息をつく。

 一方会音(えのん)はというと、いっぺんに流し込まれた情報によって完全にフリーズしてしまっていた。

「おーい、大丈夫かー?」

 声を掛けても反応のない会音の目の前で、手をヒラヒラさせる響斗(ひびと)

「んー……、なんか重傷? おーい、起ーきーろー」

 再起動をかけるべく肩を持って揺すってみる。

「うわっ!?」

「あ、やっと反応した。やっぱりお前肩にスイッチあるんじゃ……」

「ないですよ!」

 ようやく現実世界に戻ってきた会音が叫ぶ。

「あー、その……話ついてこれとるか?」

「えっと………はい」

 軽く頬を掻いて確認をとる灯和。煮え切らない返事が心配だが、今さら後戻りは出来ないので気にしないことにした。

 カップに僅かに残っている冷めきったコーヒーを喉の奥に流し込んで、ひとまず話をまとめにかかる。

「色々話したが、最初の話に戻るぞ」

 ――……何だったっけ?

 色々詰め込まれたせいでよくわからなくなってしまった。

「何の話だっけ?」

 話しているうちに自分でもわからなくなっていた響斗が隣の灯和に尋ねる。

「ライリーは何か、じゃろ」

 灯和はげんなりした様子で答えると、これ見よがしに嘆息して続ける。

「ライリーは、世界でも数えるほどしか報告のない人型のラルヴァの一人だ。もっとも今は成れの果てじゃけどな。実体はないし、基本的に響斗にしか認識できん。お前は例外みたいじゃけど」

「でも、今は周りにも見えてるんすよね? 声も聞こえるし」

『そうね。でも、これ説明が難しいのよね』

「ライリーってわりと感覚派だもんなー。それでもうまくいくんだから凄いよな」

『あら、感覚派なのはあなたもでしょう。やっぱり気が合うわね』

「そう言われるとなんか照れるなあ」

「おい脱線するなバカップル」

 うふふあははと微笑み合う二人をバッサリと切り捨てて話を進める灯和。

「ラルヴァのが何なのかはまだわからんから、確かなことは言えんけど、奴らはおそらく、情報を取り込んでそれを再生する『何か』で構成されとる。あくまで仮定じゃけどな。核はその制御装置みたいなものなんじゃろう。ストレージかもしれんが」

「はあ」

「仮にこの説が正しいとすれば、普段のライリーは、その『何か』を周りに認識できんくらいに薄く散布して自分の姿を映し出しとる―――ってとこか。響斗が認識出来るのは肉体を共有しとるからじゃろうな」

「二人とも実体化したりは出来ないんすか?」

「無理だな。詳しい原理は本人にもわからんらしいが、完全に実体化出来る比率? みたいなのがあるんじゃろう。そもそもどっちかに振ったほうが安定するみたいじゃし」

『今は普段より私の比率が高いってことなのかしらね』

「その分俺のほうが薄くなってるのかもなー」

 へらへらと笑って言う響斗。自分のことだとちゃんとわかっているのだろうか。

 実は透けているんじゃないかとまじまじと顔を眺めていた会音は、目が合いかけたので慌てて視線を逸らした。

「じゃあその、ライリーさんのほうが高くなったらどうなるんすか?」

「そりゃあ、肉体の主導権がライリーに移るだけじゃな。試させたことがある」

「外からだと二重人格みたいな感じになるらしいな。俺は覚えてないけど」

「覚えてないって……ヒビトさんは思念体にはなれないんすか?」

「あ、うん。俺はその間意識飛ぶから」

「普段肉体の主導権は響斗のほうにあるといっても、ライリーがそうしとるだけじゃからな。この体の持ち主は今もライリーの方ってことなんじゃろう」

「それって……」

 不安はないのだろうか。

 いくら自由に生活できているとはいっても、他人の気分次第で消えてしまうような希薄な存在であるというのは、不安にならないのだろうか。

 しかも、ライリーが表に出ている間意識がないということは、彼女が何をしていても響斗にはわからないということだ。

 自分の知らないうちに誰かを傷つけてはいないか。

 実は隠し事をされているのではないか。

 そう疑うようになってしまったとき、自分の存在を繋ぎ止めている相手をどこまで信じていられるだろうか。

 視線を上げると、こちらを見ていた響斗と再び目が合った。

――……そんなこと、考えたこともないって目だな。

 不安がないのか、なんて考えたこと自体が馬鹿らしくなってきて、会音は心中で苦笑する。

 そんな後輩の心情を知ってか知らずか、緑メッシュの先輩はあっけらかんとした調子で言う。

「ま、俺は特に気にならないけどな。この体結構便利だぞ。怪我してもすぐ治るし、風邪とか引かないし、生活は普通の人間と特に変わらないしさ」

 それに、とそこで言葉を切って、

「本当なら俺はあの時死んでたはずなんだ。それが、こうしてまだここにいられる。それだけで相当ラッキーだろ」

 カラカラと笑う響斗は、そこで一瞬、ここではないどこかを見つめるように僅かに目を細めた。

「俺がこうなったのは俺の責任だ。ライリーは俺を助けてくれただけなんだから。俺さ、多分怖かったんだろうな。ミフユがいなくなって、トウカも塞ぎこんで、施設の皆も怖い顔ばっかりするようになってさ。父さんや母さんの時みたく、そういうもんなんだって、受け入れることはきっとできたけど、でもそうしたら―――それが当たり前になる気がしてさ」

 金色の目がぼんやりと虚空を映す。

 まるで、目の前に広がる世界の裏側には、かつての時間が今も続いているとでもいうように。

 きっと、ライリーと、灯和と、美冬(みふゆ)と―――4人で過ごした時間は、当時の彼が思っていたよりも、ずっとずっと大切なものだったに違いない。

 仲間達と暮らした施設での穏やかな日常は、かけがえのないものだったに違いない。

 だから、彼は割り切ってしまうことを拒んだ。

 そうやって受け入れてしまったら、あの時間がもう二度と戻らないと認めてしまうようで。

 ゆえに、自分を誤魔化す以外の方法を見失った。

 友人の死を受け入れたと思い込むことにして。

 自分の世界は何も変わってなどいないと、どこも壊れてなどいないと、自分に言い聞かせた。

 そうしなければ、今以上に何かを失ってしまうような気がしたから。

 けれど、そうまでして過去にすがっても、綻びは広がる一方で―――

「で、焦った結果がこれだ。とにかく何かしないと、俺が何とかしないとって、誰も頼らずに一人で突っ走った結果がこれだよ。『一人で抱え込むのは良くない』ってよく聞くけどさ、自分がそうなってるときはわからないんだよなー」

 緑メッシュの少年は、彼にしては珍しく自嘲するような笑みを浮かべる。

 だがそれはほんの一瞬のことで、次の瞬間にはいつもの顔つきに戻っていた。

「きっと、自分がどうすればいいのか、どうしたいのか、誰かと一緒に考えるべきだったんだろうなー。それが出来なかったんだから、こうなったのは俺の責任としか言いようがねえよ」

 まるで他人事のようなその言い方は、もう全ては過去と割り切ったのだと、周囲に悟らせるには十分な圧があった。

 そんな響斗にライリーが静かに口を挟む。

『……ヒビト』

「ん?」

『選んだのは私よ。あなただけのせいではないわ』

「……そうだな。ありがとう」

 響斗は面食らった様子で瞬きを繰り返すと、言葉を選ぶようにしながら小さな声で礼を言った。

「えっと、そういうわけだから、心配そうな顔するなよ。後悔がないって言えば嘘になるけど、なったもんは仕方ないしさ」

 まだ何か言いたげな視線を、手をヒラヒラさせて振り払う。

「もちろん、このままにする気はない。ラルヴァの謎を解き明かして、この悪ふざけを終らせる。俺達みたいな人間をこれ以上増やしたくはないからな。………なんて、一番はやっぱりライリーを元に戻すことなんだけど。それが今、俺が戦う理由ってやつだ。わかりやすくていいだろ?」

 力強く笑ってみせる響斗の横で、灯和が付け加えて言う。

「とりあえず状況は、今も特に変わっとらん。ラルヴァに関する情報も、十分とは言えんし、こいつらを元に戻す方法にいたっては見当もつかん」

「あ、やっぱりヒビトさんも元に戻すのが目標なんすね」

「まあな。言うてそこのアホは、最悪ライリーさえ元に戻ればそれで満足らしいが」

「えー、だってさ、俺は特に困ってないぞ?」

「商店街のおっさん連中にガキ扱いされてすねとったのはどこのどいつだ?」

「あのおっちゃん達のことはいいんだよ。とにかく、優先させるならライリーだろ。……一緒に暮らしてるのに手すら繋げないとかさあ。拷問だよなあ………」

 後半は多分いつもの独り言なのだろう。

 さっき過去を語っていたときより切ない表情なのが何とも言えないが、不憫といえば不憫な話だ。

 それが口に出ている辺りが色々残念だが。

「なんというか……よく愛想を尽かされませんね」

『ある意味こういうところが面白いから気に入ってるのよ』

「今に始まったことじゃないしな」

 昔からだ、と悟りきった表情で灯和が言う。

「そういえば、ヒビトさんって……何歳(いくつ)なんすか?」

 今さらだが、回想の年代もそこそこ前だった気がする。

 外見だけ見れば、響斗の歳は10代後半。まだ少年といっても差し支えない雰囲気だ。

「えっと、もう誕生日きたから……」

「33か」

「33!?」

 予想外の数字に見事に声が裏返った。

 いや、年上だろうなとは思っていたけども。

 ――まあ、そうなるよなあ。

 二の句が継げずにいる会音に、灯和は苦笑を浮かべる。

「ああ。見えんよな」

「てっきり17、18くらいかと……」

 というか、言動だけみると年下かと思うときすらあるのだが。

「こいつあれ以来成長止まっとるからな……。そもそも能力者は普通より若く見えるし」

「そうなんすか?」

 そう言う灯和自体、見た感じでは二十代半ばに見える。

「ああ、あんまり知られとらんけどな。アンチエイジング目的のやつが増えても困るし」

「ですか」

 確かに売れそうではある。

 今や百歳を軽く越えてしまった平均寿命。若々しくありたいという欲望は日々増大している。

 異能の取得方法や維持に関しては企業秘密なのだし、変に探られないためには黙っておくのが得策だろう。

 でないと製薬会社や化粧品会社が殺到しそうだ。

「まあそれはそれとして。年上だからって別に認識変えんでいいぞ。中身は見た目以上にガキじゃしな」

「はあ……そうですか………」

「エノン? 否定してはくれないのか?」

「えっ? ああ、いや、そんな」

 慌てて取り繕おうと口を開く会音。

 しかし、残念ながらぶかぶかパーカーの少年は嘘をつくのが下手だった。

「ヒビトさんはちゃんと大人……です…よ?」

 痙攣(けいれん)するような苦笑いを浮かべて、どうにかフォローしてみるが、誰がどう聞いてもわかるレベルの棒読みだ。

 これにはさすがの響斗も肩を(すく)めるしかなかった。

「うん……ありがとう」

『変に敬われるよりはいいんじゃないかしら』

 言いたいことがないではなかったが、ライリーのフォロー受けて納得しておく。

「そもそも響斗の歳は別に隠しとらんから、皆知った上でああいう扱いなんじゃけどな」

「そうだったんすか」

 じゃあいいか、と結論付ける会音。

 大分このアホ毛の先輩の扱いに慣れてきたようである。

 だが、そんな会音は灯和の次の一言で先ほどとは別種の混乱に突き落とされた。

「ああ、だからそれは別に―――()()()()()()()()()()()()()()()()

「えっ?」

「えっ? って……」

「えっ!? 他のは言ったら消されるんすか!?」

「そうじゃけど……」

「嘘でしょ!?」

 わかっていなかったのか、とでも言いたげな眼差しに、ぽかんと口を開けて固まる会音。

『エノンくんも消されちゃったりしてー』

 再び脳内に現れたメアリーの言葉が前以上の重みでのし掛かる。

 やっぱり藻屑ルートが存在したらしい。

「そんな……本当に消されるなんて……」

「大丈夫大丈夫。喋らなきゃいいだけだ」

「それはそうかもしれませんが……」

「でもうっかり口を滑らしたら―――わかるな?」

 明言はされなかった。

 だがどう考えても希望は無さそうだ。

「や、やっぱりどこぞの湾でドラム缶で藻屑にされるんだ……」

「ドラム缶って、そんな古典的な」

 嘆く会音を、はははっ、と明るく笑い飛ばす灯和。

 だが彼は会音に安心する間など与えず、

「普通に装備無しでゲートに放り込まれるだけじゃって」

「骨すら拾えなくなるやつ!?」

 貼り付いたような明るい笑顔のまま凄いことを言ってきた。

 藻屑どころか、ラルヴァに喰われて何も残らない消滅ルートだった。

「一つましなのは、お前は秘密を漏らさないようにするだけでいいってことじゃな。このアホがうっかり死んでも道連れにはされんから……多分」

「多分って……」

 戦慄する会音に同情するような眼差しを送りながら、苦労性の青年は諦めろとでも言いように、

「まあ、あれだな。今日からお前もこっち側ってことで」

「そんな……」

 君子危うきに近寄らず。

 余計なことに首を突っ込むんじゃなかったと、後悔するがもう遅い。

 そもそも能力的に、何もしなくてもいつかはライリーを見てしまっただろうから、結局巻き込まれる運命だったのかもしれない。

「そんなに気にするなって。なるようになるさ」

 ガックリ項垂れる会音に、能天気な先輩はそう言って笑いかけてくるが、今はそれに感動できる気分じゃない。

「誰のせいで……」

「本当よな」

「えっ、俺のせい!?」

「当たり前じゃろ、何でもかんでもべらべらしゃべりやがって!」

「中途半端に話すのも悪いかなと思って」

「がっつり巻き込むのも悪いわ!」

 わあわあと言い合う響斗と灯和。

 その様子には大人の威厳は欠片も無いが、どこか楽しそうにも見える。

 あたかも学校の休み時間のような空気の中で、大人になっても昔の空気感のままでいられる相手っていいなあ、とそういう友人がいない会音はしみじみと思う。

「いつもいつもその場のノリで行動しやがって! 俺が後始末にどれだけ苦労してると……」

「それは……うん、悪いと思ってるけど。えっと、ごめんな?」

「だから謝るなら疑問形にするな!」

 ――あ、あれ?

「今日という今日はこっちの苦労をわからせてやる!」

「じ、自分ばっかり大変だと思うなよ! 俺だって……えっと、休みの日にいきなり任務行かされてるんだからな!?」

「ああ!? それ俺が今日何徹目かわかって言っとんか!?」

 何か空気がピリピリしてきた。

 そろそろ止めたほうがいいのだろうか。

 会音がオロオロと辺りを見回すうちに、二人の会話はさらにヒートアップしていく。

 もはや殴り合いまで秒読みかと思われたところで、

「ふぅ……いや、一旦冷静になろう。いつまでも昔を思い出しとらんで、いい加減大人にならんとな」

 灯和が細く長い息を吐いて、どうにか落ち着いた声を出した。

 不機嫌そうに寄せていた眉を元の位置に戻しながら、深呼吸を繰り返す。

「それ貸せ。もう空じゃろ。新しいの注いでくる」

 言いながら、三白眼の青年は机の上にあった自分と響斗のカップを持って立ち上がると、ポットのある部屋の奥へと消えていった。

 会音は、途中からすっかり存在を忘れていた自分のカップを手に取ると、申し訳なさそうに中身を口に流し込む。

 ――苦っ……。

 寝不足の灯和に合わせて淹れられたコーヒーは思った以上に苦く、会音は慌てて砂糖とミルクを探した。さっきまで緊張で味などしなかったから、平気だっただけのようだ。

 よく見ると、響斗の前には大量のスティックシュガーとコーヒーフレッシュのからが転がっていた。

 真似をしてどぼどぼと砂糖とミルクを入れていく会音。黒い液体が見る間に不透明な淡い茶色に侵されていく。

 響斗はどこかから見つけてきた茶菓子を頬張りながら、その様子を眺めている。

「トウカの淹れるコーヒーって苦いもんなあ……。あと3倍くらい薄めてもいいのに」

『それじゃあ色がついているだけのお湯よ?』

「うーん……でも俺苦いの嫌だし……」

 いつもなら独り言にしか聞こえない言葉も、ライリーの声があるとちゃんと会話に聞こえる。本人はいつも会話しているつもりなのだろうが。

「そういえば、ライリーさん出っぱなしですけど、大丈夫なんすか?」

「ん? ああ、大丈夫大丈夫。最初のころはすげえ疲れてたけど、今はもう慣れたからさ」

『慣れって大事よね』

 そんな会話を続けていると、ほどなくして、新しいコーヒーを注いだ灯和が戻ってきた。

「ほら、コーヒー」

「ああ、ありがとう」

 カップを手渡す灯和は、先ほどの青筋が嘘のような、爽やかな笑顔を浮かべている。

 が、それを見た会音の背中には、生ぬるい汗が伝っていた。

 異様に爽やかな笑顔が恐怖でしかない。

 怯える会音とは対照的に、何も感じなかったらしい響斗は、例にもよって大量の砂糖をぶちこんだコーヒーにためらいなく口をつけた。

 で、案の定―――


「あ……れ………?」


 響斗の持っていたカップが、音もなく手から滑り落ちる。

 バシャリと水音をたてながら、カップは床を転がり、絨毯にコーヒーがぶちまけられた。

「なんか、体、が……痺れ………」

「ヒビトさん!?」

 床に倒れ込む響斗に駆け寄ろうとする会音。

 その耳が奇妙な音を捉え、動作を停止させる。

「ははははは」

「えっ? と、灯和さん?」

 それは、地の底から響くような低い笑い声。

 見れば、なにやらこの上なく邪悪な笑みを浮かべた灯和が、仁王立ちで響斗を見下ろしていた。

 その目は爽やかさなど欠片もない、(くら)く淀んだ光を宿している。

「冷静に? 大人になろう? んなこと言うとでも思ったか! バーカ!!」

「灯和さん!?」

 横たわる友人をビシィッッ! と思い切り指差して灯和が吠える。

「と、トウカ……これ、何か盛った…ろ」

 ピクピクと体を震わせながら、響斗はかろうじて声を絞り出す。

「痺れ薬だ苦しめ!」

 魔王のような形相でそう言い放つ灯和。

 完全に変なスイッチが入っていた。

 あわあわと狼狽える会音を視界の外に追い出して、緑メッシュの少年の肩口を爪先で蹴りつける。

 決して強い力でないものの、痺れている体に加わる衝撃は、コンボ技として絶大な効果を発揮していた。

「いつも、いつも、いつも、いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも好き勝手しやがって! 巻き込まれるこっちの身にもなれ馬鹿! この馬鹿ッ!」

「灯和さん、ちょっと落ち着……」

 (なだ)めようとする会音の声も、灯和の耳には届いていない。

『あらあら、相変わらず悪口が下手ね』

「ライリーさんも止めて下さいよ!」

 端から見ているだけのライリーはすっかり傍観者気分だった。呑気なものである。

 そうこうしているうちに、いい加減疲れてきたのか、肩で息をし始めた灯和が攻撃を止めた。

 それでも気は収まっていないらしい三白眼の青年は、ダンッ! と床を踏み鳴らすと、

「しばらくそこで悶えてろッ! バーカッッッ!!」

 そう叫んで、部屋を出ていってしまった。

「お、大人げないキレかたしやがっ…て……うぅ………」

 響斗の恨み言を拒絶するように、扉がバタン! と大きな音を立てて閉まる。

 嵐が過ぎ去ったあとの室内には、静寂とうめき声だけが残された。

 たっぷり30秒ほど立ち竦んだ会音は、未だに起き上がれないでいる先輩に言う。

「……大丈夫すか?」

「だいじょばない……しびる…る………」

 呂律の回らない状態で答える響斗。

「あ、気にすんな、よ。トウカ、は、年に1、2回…くらい突然キレ…る、から」

『そうよ。年に1、2回は似たようなことされてるから心配いらないわ』

 そういう問題なんだろうか。

 毎回キレさせるのも、毎回ひっかかるのもどうかと思うのだが。

「というか、毒とか効くんすね」

「これ、多分、トウカのオリジナル……。なんか、正座したあと、の、足のし…びれが、全身に…まわったかんじ……うぅ………」

「はあ……それどれくらい続くもんなんすか?」

 対処に困る、といった様子でとりあえず背中をさする会音。

「ちょっ…今さするのやめ……ああああああ、いてッ!」

 さすれば少しは痺れが和らぐかと思ったのだが、まったくの逆効果だったらしい。

 大袈裟に仰け反った響斗は机の足に頭をぶつけ、頭をおさえようとして肘をぶつけ―――となんだか忙しなくもがいている。

 ――どうしよう。すごく帰りたい。

 とりあえずそこから出ればいいのに、とテーブルとソファの間でうごめく先輩を見下ろしながら、会音はほんの少し悩んだあと、再びソファに腰をおろした。

 途方に暮れる少年の頭上を、終業を知らせる鐘の音が通りすぎていった。

 今日は残業確定である。

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