第五章 かぐやの決意
四人の少女たちが現れたその翌日、地下に広がる聖霊騎士団の訓練場には屍の山が積み上がっていた。厳密には各々息はあるものの、汗ばんだ血の気がない顔、濁った瞳で隅に追いやられている。待機命令を受け、訓練を免れた者たちはその様子を、唾を飲み込んで見つめ、さすがに安堵の息を漏らしていた。
訓練を受けた黒服は、一人残らず地に伏した。
待機中の瑞音はかぐやと、その体質から途中で退場させられたユズリと共に、黒服たちや竹中、涙と鼻水を垂らして気絶している吉田の介抱をしている。
残るはエース格、多少疲労の色を見せる加賀と、汗一つない粋の一騎打ちである。
「まったく、この程度で情けない――なぁ!」
飛翔からの急襲、部位発現すら解禁し、粋の鋭い斬撃が閃く。
「……むうっ!」
反射の盾――それは粋の手から刀を容易く弾き飛ばした。
いや、容易すぎる……そう思った時には、甲羅の裏を蹴り上げた粋が身を捻り、天馬の脚力を以って回転蹴りのモーションに入っていた。
加賀は素早く反応し、その剛腕を打ち下ろす形で迎え撃つ。
とてつもない衝突音が鳴り響く。
粋の脚は激突後、弾けたように引かれ、代わりに加賀は首筋に冷たい感触。死角から首元に刃を当てられていた。粋の手元ではワイヤーが煌いている。
「……参りましたな、これは」
加賀は諸手を挙げた。
「ありがとう、加賀さん。良い訓練になったよ」
粋は納刀して頭を軽く下げる。
「いえ、こちらこそ。やはり私自身を含めて、力不足が気になりますな。彼らはもちろん、私とて、もはや君の相手は務まらない」
今日の厳しい訓練は当然、昨日の戦いの結果を受けてのものであった。
「そんなことは……」
「気を遣わずとも結構。世辞で埋められるほど、些細な差ではない。おそらくこの本部内で、君と互角に渡り合えるのは紫電の魔槍だけでしょう……そういえば、彼女と訓練している姿を見たことがありませんな」
加賀は上品なハンカチで汗を拭き、顎に手を当て、頭を捻る。
「というか、そもそも彼女自身が訓練している姿を見たことがないような……」
「ああ、あれは実戦派だから。特性上、寸止めとか手加減ができないから憑装状態だと危ないし、かといって生身で強いわけじゃないし戦闘スタイルも違い過ぎるし……」
「なるほど。まあ、結果を出し続けている以上、無意味な訓練をしろとも言えませんな」
その当人は明るく笑って、自分の部下へ無自覚な鬼の言葉を突き付けている。
「あ、ほらエース格の二人が空いたよ。もう一回手合わせお願いしたら?」
一応親切心からのセリフだが、死力を尽くして扱かれ、指の一本すら動かすことが億劫な現状で、黒服たちに悪寒が走る。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「あ、自分死んでますんで」
「そんなことより疲れたので甘いものが食べたいです。なんか用意しといてください」
ぐったりと伏したまま返答する部下たちに、瑞音はやれやれ、と肩をすくめる。
粋は物足りないと言わんばかりに素振りを始めた。怒りにも似た感情と焦り、そして真剣な目つき、近寄りがたい空気だ。にも拘らず、ととと、と寄っていった瑞音は、普段通りに声をかけた。
「ごめんね、うちの子たちが相手にならなくて」
「いいよ、別に。……まったく、猛流も、せっかく気が向いたのにいないんだから……」
「あー、全治二週間だっけ。強かったもんねー、あの雷歌って子」
先の戦闘で敗れた猛流はそのまま病院に運ばれ、しばらく入院生活を送ることとなった。粋も仕留め損ねた相手だ、これ以上責める気にはならない。
そんな複雑な気持ちでいると、瑞音がししし、と意地悪く笑う。
「それで焦って特訓なんて、可愛いところあるじゃない」
「……あ?」
刀が止まったのも一瞬のこと、再び風切り音が規則正しく鳴る。
「睨まないでよ。でも加賀さんで及ばないなら、もう本部で粋の訓練相手になる人いないんじゃない?」
地方の支部は、あまり人員が割けない代わりに強者を配置している所もある。彼らは担当地域をほぼ一人で支え、決して倒れることは許されない。それゆえ簡単には支部を離れられないが、中には粋よりも実力があると判断されている者もいる。
「うーん、北海道か九州か……でも遠征するには戦力も時間も余裕ないし、来てもらうわけにもいかないし」
「……ねえ、なんか頑なに触れようとしてないけど、昨日の子は?」
粋が答える前に、訓練場の大きく重い扉が開いた。二人の小さな少女たちと、扉を開けた彼女たちの付き人の姿がある。凛火は先頭に立ち、転がっている戦闘員たちを流し見しながら粋と瑞音へと近寄っていく。途中、ユズリやかぐやを視界に捉えたようだが、あまり気にした様子はなく通りすぎる。続く氷花は声こそかけないが、昨日のように笑顔で手を振っていた。
「精が出ますわね、みなさん」
耳に燃え盛る炎を閉じ込めたようなイヤリングを揺らして、少女は年上の、しかし若きエース二人に話しかけた。
「まあね。それより何でここに?」
「出資者として、視察でしてよ」
戦闘員たちの荒い息が小さくなる。そういう立場で来られては、あまり無様な姿を見せるわけにはいかない。
摩擦で何かが焦げた臭いと、汗の臭いが混じった武骨な空気。見るからにお嬢様な凛火だが嫌そうな顔は一切見せない。
「まあ、努力は伺えますわね」
「当然でしょ。誰だって遊びでやってるわけじゃない」
「あら、あまり歓迎されていないのですね」
「当然でしょ。昨日の戦いで加勢じゃなくて停戦させた君たちを信頼してるわけじゃない」
見る者が見ればわかる、いつでも斬りかかれる手の握り。小さな殺気。護衛たちでは気づかない。ただ、彼の姉弟子は小さな手を同じく余している。
「氷花がついていますのに?」
意外、といった様子だが、粋はまた「当然でしょ」と言いたげな間を置いて答える。
「御崎流は武道じゃなくて武術の一門。それも勝つことが全てで、最低限負けないことしか教えられない、人間形成とは無縁の流派だからね。無能な同志は味方にあらず、非情を以って斬り捨てるべし、とか言い出しそうなくらいだし。目的のためなら本当にまったく手段を選ばないあの人達に関しては、身内とか関係ないんだよね」
「粋……こんなにかわいい本人を目の前にして、よくそこまで言えるね」
「いや、だからこそ、ここまでしか言わないんだけど。色んな意味で」
心が死んでいるような、どこか遠くを見るような粋の瞳。込められた深い憂いを感じて、さすがの瑞音もそれ以上は立ち入れなかった。だがそれは近しい者による気遣いであり、凛火が倣う義理はない。
「先ほど少々聞こえたお話ですけれど、わたくしも興味がありますわ。なぜあなたが氷花との稽古を拒んだのか、そして……」
微弱な電流が走ったように静かな衝撃、そしてぴんと張る空気。それが気になっているのは二人だけではない。この広い訓練場に横たわる多数の戦闘員、かぐや、ユズリすらも好奇を滲ませて注目を寄せた。
「――どちらが強いのか」
いつの間にか、そこには椅子が用意されており、凛火は優雅に腰掛ける。白い曲線を描く骨格に赤い布地と金の装飾は、少女の気品を際立たせる。そして傍らに出現した同調の小さなテーブルに置かれた紅茶を口に含み、華やかな香りを楽しんで、すっかり観戦モードである。ゆえに次の言葉は簡単に予想できた。
「戦ってみて下さらない? この子と、今ここで」
「だから嫌だって」
やはり即答である。
「出資者として、あなたの実力を確かめたい――そういう意図であっても、聞いていただけませんの?」
立場の違いから来る、穏やかながら鋭く強い威圧。すでに輪が成され、揃った観客たちからの期待の重圧。刀を手に爛々と目を輝かせる氷花。
簡単に逃げられる状況ではない、が、
「え? うん、嫌だけど」
その程度は全て合わせてもそよ風にすらならない。ユニオン型とも自在に憑装できるエース格の精神力とは、鋼よりも硬く重い。
取り付く島もなく、さすがに凛火も顔には出さないが困った様子である。
そしてこうなってしまっては簡単に折れることがないことを、凛火以外の人間は全員が知っており、彼女も何となく察している。
粋はすっかりやる気をなくして帰りたい気配すら見せはじめた。
それを止められる可能性があるのは、物を申せる親交があり、物を申しても許されるだけの実力があり、その面倒くさい性格を理解し、かつその攻略法を編み出せるだけの頭脳がなければならない。
そんな便利な人物は、割とノリノリで意地悪い笑みを浮かべる。
「もしかして粋、負けるのが怖いの?」
「ん?」
意外と短気でプライドが高い粋に対して、的確に煽ったつもりだった。しかし瑞音は返ってきた反応に違和感を覚える。遅く、あっさりすぎる。もしも発言したのが夕凪であったなら足を思い切り踏まれていたかもしれない煽りに対して、呆けたように小さく声を漏らしただけであった。
やや動揺しながらも追撃を飛ばす。
「こんな小さくてかわいい女の子に、みんなの前で負けたくないもんねー」
「……ああ、まぁそれもあるね」
暖簾に腕押しといった様子で、張り合いがなかった。本人はさらりと言ってのけたが、その短いセリフが周囲に与えた衝撃は計り知れない。
聖霊騎士団最強の一角と名高い天馬の刃が、自ら敗北の可能性を示唆している。それも相手はフリフリの服を着て呑気な顔をした年下の少女である。
「え? 本当に負けるの?」
横からとはいえ雷歌と粋の渾身の一撃を同時に止めた氷花は、モニター越しに目にした者だけではなく聞き及んだ者も含め、誰もが信じられない気持ちをわずかに残しつつも、その実力を疑ってはいない。
しかしそれが実際にどれほどのものなのか、ただの一度では判断できない。
そして天馬の刃に寄せられている信頼は絶大である。
負傷しておらず、一対一であれば天馬の刃は負けない――これまでの実績からそう信じている者も多い。そしてそれは紫電の魔槍とて例外ではない。
「さあ? 最後に戦ってからどれだけ成長しているか知らないし、なんとも。ただ前はほぼ互角だったから、可能性としては充分あるね」
さすがに瑞音も咄嗟に返す言葉が見つからない。
「ああ、でもあれだよ。負けるっていうか、形勢不利になったら撤退するからね。そういう教えなもんで。ただそもそも、勝敗なんてこれと戦うことに比べたら些細なことというか」
「んーっと……?」
誰も理解が追い付かない。
瑞音をもってしても粋の決意は崩せなかった。一部の気を遣う人種は、スポンサーの希望を個人的な感情で断ってしまった事実に狼狽え、凛火の端麗な顔が険しく砥がれていく様を、顔を青白く染めながら見つめている。
「まぁやってみればわかるよ、僕は嫌だけど」
どんな神経をしているのか、粋は凛火に備えられたテーブルと茶器で勝手に紅茶を入れ始めた。あまつさえクッキーに手を伸ばしながら言う。
「加賀さん、やったったら?」
「遠慮しましょう。私の実力は既に把握されていますからな、彼女は望まないでしょう」
昨日の一瞬の交戦、ただそれだけで見抜かれたことを加賀も悟っている。あの戦い、勝ち目がなかったとは思わない。しかし四人のうち、唯一底を見せてしまったことも自覚している。
「聡い方ですわね、お心遣い痛み入りますわ」
令嬢らしい綺麗な一礼。そのまま淀みのない動きで、甲が下を向く独特の指差しを瑞音に向ける。
「あなた、お願いできません?」
「えっ、あたし?」
瑞音はその綺麗な目を大きく見開く。
「ええ。こちらの資料を見る限りでは、エース格の中でも黄焔の獣王と剛力玄武、紫電の魔槍と天馬の刃、あなた方四人の実力は測り切れませんでしたわ。昨日の一件で黄焔の獣王と剛力玄武についてはある程度の目星がつきましたけれど、天馬の刃とあなたについては、まだ底が知れませんもの。彼が断わるというのであれば、あなただけでも協力してくださらない?」
「いやー、そうしたいのは山々なんだけどねー。あたしは基本、電撃の槍をぶん投げてるだけだから訓練するには危ないんだ。それ封じちゃうと持ち味も出せないしね」
やんわりと断ろうとする瑞音に、凛火お付きの黒服から竹刀が差しだされる。
「力の片鱗、それだけでも見せていただきますわ」
炎のような瞳が圧を上げて見据えてくる。
「……えー、こんな可愛い子と戦いたくないなぁ。それにあたし、電撃ないとあんまり強くないし」
断る理由を並べ立てるが、もはや周囲から寄せられた期待や好奇の目を誤魔化すことはできない。凛火だけではない、氷花や聖霊騎士団の戦闘員たちですらそんな眼差しを向けている。
はぁ、とため息が吐かれた。
「いいよ」
瑞音は竹刀を受け取って頷いた。
「電撃は使わないけど、それでいい?」
「ええ。お願いしますわ」
凛火は満足そうに頷き返す。
そして、注目の立ち合いが始まるのだ。
「瑞音、やめといた方が……」
そんな粋の呟きなど、かき消す歓声に包まれて。
広大な地下の一室で、両者竹刀を手に対峙する。氷花は鍔元に右手、柄頭に左手、そして中段と明らかに手慣れた様子である。力の抜けた自然な立ち振る舞いは、呑気な顔に似合わない強者の風格が漂っている。
対して瑞音は鍔元に右手、その真下に左手をつけ、明らかに不慣れな力み具合で八相らしき構えを取る。とても弱そうに見えるが、漲る謎の自信が威厳を保っている。
フリフリの洋服と制服という双方場違いな服装だが、その違和感は気にならないほどの圧がぶつかり合っている。それは、ある言葉の掛け合いでさらに跳ね上がる。
「憑装っ」
弾むように唱える氷花と、
「……えーっと、憑装!」
瑞音はやや間を置いてから元気に声を上げる。
爆発的に高まる霊素。一同が呼吸すらも忘れかけて見入る。粋も凛火の傍で金属の壁に背中を預け、紅茶を口にしながら視線を向ける。
「……あなた、自分は断っておきながら、随分と図々しいのではなくて?」
「そう? 逆に僕が受けるとでも思ったの? さっきも言ったけど、僕は君達のことをまったく信用していない。というか、アイツらと知り合いっぽかったし、ぶっちゃけ疑ってすらいるよ。わざわざ手の内を晒すわけないじゃん」
お互いが感情を沈めて、密かな探り合いを入れる。どちらも隙を見せず、平行線になることはすぐに理解した。
「――まあ、あなたのような方がいなくてはね……」
「でしょ? ここお人好しばっかなんだから」
彼らも見つめる中、戦いは始まる。
瑞音が雑な動きで竹刀を振りかぶり、走る。お互い憑装しているためか、少女が相手でも安心して叩きにいけるようだ。実力からして、おそらく竹刀では傷の一つもつけることはできないだろう。
それでも頭や顔は狙いづらいらしく、
「せぇいっ!」
という掛け声のもとに振り下ろされた竹刀は、袈裟懸けの軌道であり、
「ひゃうん!」
というどこか艶を帯びた悲鳴のような声が上がった。
剣技に自信などあるはずもなく、まさか当たるとは思っていなかった瑞音は、大袈裟なほど慌てた。
「あ、あれっ? ごめんね、大丈夫?」
対して氷花は目をとろんとさせ、頬を赤らめ、呼吸すら荒くして答える。
「えへへぇ、問題ないよっ。続けよぉーっ!」
手合わせを再開するが、瑞音が叩いては謝り、氷花が続きを促すという流れが、何度となく繰り返されるだけであり、幼い少女は反撃どころか防御すらする素振りを見せない。
「ねえ、これどうなってるのーっ?」
年下の女の子を武器で一方的に叩き続けるという図に、もはや泣きそうな瑞音が悲鳴のように叫ぶ。ただでさえ良心が痛むというのに、大衆の前というのもまた居心地が悪い。
「ちょっと粋、この状況すごく嫌なんだけど!」
「知ってるよ。だから嫌だって言ったじゃん、僕」
粋は完全に他人事の様子で紅茶をすする。
一方大衆はというと、いじめにも映りそうなこの状況だが経緯を知っているだけに瑞音を非難する様子はなく、ただただ彼らも困惑していた。
「くそぉ、騙したなぁ⁉」
「いや、何も嘘はついてないけど」
「うそだぁっ! だって強いって言ったじゃん!」
「それは本当のことだよ。まずほら、よく見てよ。これだけ打ち続けても傷一つないでしょ?」
言われてみれば確かに無傷のようだ。しかし憑装下で、それも攻撃者が雷槍を生業としている瑞音の竹刀による打撃では、強さの証明にはならない。
「頑丈なだけなら加賀さんの方が頑丈だよ!」
「……なかなか胸に刺さりますな、その言葉は」
「あ、いや――違っ……」
思わぬところで痛手を負った紳士はさておき、失言をしてしまうほどに動揺している彼女に対し、粋の目がスッと細くなる。
「それから気をつけた方がいい。多分そろそろだから」
「え? なにが?」
動揺しながら、会話をしながら、無抵抗の相手への攻撃――その精彩を欠いた一撃は、意識的に避けてきた少女の幼気な顔面へ滑る。
「あ……っ!」
バシィ! と痛ましい音を立てて、竹刀は氷花の頬を払っていた。
「ご、ごめ――」
謝罪の言葉は、突風のような冷気に凍てつかされ、吹き飛ばされ、最後まで発せられることはなかった。
「さて、どれだけ成長したのやら」
粋が本気で観察の目を向ける。そうして平常心を保っていられる者が、この場に何名いるだろうか。
少年を除けば、その元凶たる氷花自身と、凛火、そして相対する瑞音くらいのものだろう。
他の者は、剛力玄武と呼ばれる加賀ですら、凍り付いたかのように呼吸すら忘れて立ち尽くしている。
静寂な世界で、先ほどまでふわふわしていた少女とは思えないほど冷たく、無機質とすら思える表情と抑揚のない語調で、氷花は呟く。
「任務了解、標的確認……敵、排除します」
「え? ……わっ!」
少女の姿が消えた――と、ほとんどの者は思っただろう。
粋でさえ、傍から見てもなお見失いそうな高速移動。対峙している瑞音は、体感的には更に目に映る……はずだが、それは見ることができればの話だ。
瞬間加速を始めとするあらゆる技術、鍛えられた身体、そして物理法則にも縛られない憑装、それら全てが重なり合った一振りは、絶対零度の刃――わずかに捉えた粋の目には、その様な印象が一瞬にして深く刻まれた。
もしも瑞音がタイミング良くよろけていなければ、目を回すどころでは済まなかったかもしれない。
「勝負あり、ですわね」
あっけなく大の字に転がって首元に竹刀を突き付けられている瑞音は、意識があるのかないのか「ぽえ~」などと意味も覇気もない音を発するのみで、しばらく動きそうもない。
凛火はつまらないとばかりに立ち上がり、聖霊騎士団が一様に呆ける中、退出しようと歩き始める。
「行きますわよ、氷花」
いつも通りふわふわした状態に戻ったらしい氷花は、しかし彼女の声にすぐには応えない。
丸い目は、じっと瑞音の顔を眺めている。
「氷花、どうかなさいまして?」
「え?」
「少々期待外れではありましたけれど、予想通りではありましたわ。今日のところは帰りましょう」
まだ少し瑞音を見つめていた氷花だが、やがて「うんー」と間延びした返事を残して凛火の後をとてとてと追った。
嵐が過ぎ去ったとばかりに、訓練場にはいくつもの溜息が吐かれるのであった。
「あれは一体何だったんだ?」
訓練場から解散し、デスクに戻って落ち着いたところで吉田は粋に尋ねた。その言葉で第一班全員の目が、恐怖や戸惑い、好奇など複雑な感情を帯びて粋を向く。
「さあ? どんな霊素体と憑装しているのか、まるでわからなかったよね」
「それもそうだが、そうじゃない! 手も足も出ないかと思いきや急に別人みたいになって、あんなおぞましい動きを――それについては何か知っていそうじゃないか!」
「あー、あれね……」
現実から逃避をするかの如く、少年はどこか遠くを見る。
「一言で言えば、まぁ……変態なんだよ」
「ええ……?」
「いや、ホントに。痛みを受けると喜ぶんだけど、絶妙な技と加減で負傷は避けるという厄介極まりない能力? なんだよ。一説によると一門の過酷過ぎる修練から身を護るため無意識に身に付けた性質だとか。だからこそ一定量の攻撃を受けて危機を感じると、別人格級に覚醒、御崎流の天才として容赦なく存分に腕を振るってくるという……」
「うわぁ……」
粋の説明で一同は全員ドン引きした。
一見して可愛らしい幼い少女に秘められた性質と能力は、簡単に受け入れられるものではない。
同時に粋が学んだという御崎流というものが、いかに恐ろしいものか、少女の成り立ちと実力から想像してしまう。心なしか、少年に向けられた視線にも腫物へ向けるそれのような色が混じった。
「いや、僕は普通だから。御崎流も三年くらいしかやってないし」
「ははっ、言いよる。お前も大概変だからな」
「ああ?」
余計な一言で吉田が粋の怒りを買ったところで、班全体での雑談はお開きとなった。吉田がそそくさと逃げていき、笹巻と沢峰も事務仕事に戻る。とりあえず仕事のない竹中兄妹とユズリがその場に残った。
ふと三人は、粋の不機嫌顔が一転して、なにか真剣な思慮顔になっていることに気付く。
「性質か……」
少年は呟いた。
「どうかしたんス?」
「あの雷歌とかいうやつ、もしもカウンター一辺倒の戦い方が、戦術じゃなくて氷花の変態みたいに何か別の理由があるとすれば……」
「すれば……?」
「……いやまぁ、どうせ結局はあのクソ厄介なカウンター自体を攻略しないといけないんだろうけど。何かの足しになればと思って」
性質を知っている氷花との手合わせを避けたのは、それが勝機に繋がらないことを理解しているからである。しかし勝ち筋には至らなくとも警戒はしやすい。雷歌の根本を見抜ければ何か糸口となるかもしれない。
意図は竹中にも伝わったようだ。
「なるほど……ユズリちゃん達は関係あるみたいっスけど、覚えてないんスもんね。じゃああの氷花ちゃんでしたっけ、志桜さんの妹さんに聞いてみるのはどうっスか?」
「妹じゃねーよ!」
「いったぁ!」
書類の束が竹中の厳つい頬を打つ。
「そもそも信用できないし、あの凛火とかいう生意気なガキんちょはともかく、氷花が知っていて理解しているとも思えないし。デマを掴まされたり何かあいつらに隙を見せるくらいなら関わらない方がいい」
それっぽく言ってはいるが、納得しきれない様子なのは竹中の妹、かぐやである。黙って聞いていた彼女だが、なるほどと相槌を打つ兄やユズリの横から口を挟む。
「それ、本音は個人的にあの氷花に関りたくないだけじゃないんですか?」
「……やるね。まあそれを否定はしないけど」
「珍しいっスね。普段だったら志桜さん、目的のためならそんなこと気にせず、手段も選ばないじゃないっスか」
「やらないね、なんて言い方はないか。ちょっとは推測してみなよ。僕が手段を選ばないってことは、氷花だって手段を選ばない。それも、もしかすると僕以上に。目的がわからない間は、好みにかかわらず気軽に接触するべきじゃないんだよ」
彼女を知り、判断力に長けている粋がここまで言うのだ。竹中たちはこれ以上押すべきではないのだと思い、追及を止める。なにより志桜粋という少年は私情を大いに挟むが、その場合でも必ず優先事項と折り合いをつける人間なのだと、これまで共に過ごしてきた彼らはよく知っている。
やはり鋭い目で少々黙していた粋は、軽く頭を振った。
「……とはいえ、あれが貴重な情報源であることも確かなんだよね。それを逃す手はないのもまた事実で」
そうして頭に浮かんだ一つの案を、もう一度頭を振ることで払いのけた。
視線や表情などで、それは表に出さなかった。
しかしかぐやの喉が小さく鳴る。
「あの、それなら……」
絞り出すような声は、彼女の決意を滲ませている。
「私が凛火と氷花を探るのは……どうですか?」
少女の口から出てきた言葉は、心理を読まれ希望に沿われたようで、粋が驚きを隠すのには労力が要った。
それから返事を考える前に、竹中が吠える。
「何を言ってるんスか! 危ないから慎重にってことなのに、なんでかぐやが……っ!」
「お兄ちゃんはちょっと黙ってて。それで志桜さん、どうですか?」
サッと片手を挙げて兄を制すと、そのまま強い視線を向けてくる。
一蹴しない、それを好機と見たか、かぐやが畳みかける。
「昨日は戦いを止めて、今日は堂々と視察だけをしに来たということは、きっと今すぐ脅威にはならない……彼女たちにとっての重要人物以外なら、特に。そして私は歳が近くて、また警戒されるような戦力も持っていない。懐に入るのに、これ以上の適任はいないと思います」
「かぐやちゃん……」
すっかりやる気を漲らせたかぐやをユズリは心配そうな目で見つめる。彼女は恐れや緊張を勇気と決意で塗りつぶしながら、とっておきの札を切る。
「あなたと同じ案を思いついて、それを察した私なら、能力も問題ないでしょう?」
「え?」
竹中とユズリはその言葉の意味を理解できず、目を丸くして口を閉ざした。
「…………」
粋は少し頭を働かせるが、この論争は自分がその案を思いついた時点で退路がなくなったのだと、すでに知っていた。それ以上の結論は出てこない。
もちろん同じ案など浮かんでいないと、嘘を盾にすることはできる。
だが、かぐやは粋が黙っているにもかかわらず、それを先に潰しにきた。
「別に誤魔化してもいいですよ。本当のことは私と志桜さんが知っています。嘘で逃げるのなら、私の勝ち、私の判断の方が優れている証明になりますから」
つまり自分以下となった者の判断には従わず、結局自身の考えで凛火らと接触するということである。
迫りくるこの攻撃、別の妙案を出すことでしか跳ね除けられない。しかしそう都合よく良い考えは浮かばない。
「つまり反対されても強行するわけね」
「そうですね。ただ、私はできれば許可してもらいたい。私がこうして話し合っているのは、別に言い負かしたいからではないんです」
「ん? じゃあなんで?」
ここだけが粋にとって謎の部分。
それは、やはり少年にとって思わぬ言葉で返ってきた。
「もしも何かあった時には助けて欲しいから……わがままのつもりじゃなく、所属上正式な仲間ではなくても、ちゃんと仲間として私も一緒に戦いたいからです。それは独断専行では叶わないし、意味がない」
少し前、無謀にも丸腰で戦場へ駆けつけた少女が、そう言うのである。
「以前、私に大人になりきれと言いましたよね。これで足りているとは思いませんけど、そのために考えた私を……」
言い負かすためではないと言ったが、やや鬱憤の晴れた笑顔を見せて爽やかに、穏やかに、しっかりと言い放つ。
「少しだけ尊重してくれると嬉しいわ」
あまりにも自然体で、幼いことなど忘れさせる一言は、ついに粋の首を縦に振らせた。
ここまでの強さを見せつけた彼女ならば、あるいは……。
「わかったよ」
「志桜さん⁉」
「……でもまあ、それは竹中さんも認めてくれたらの話だけどね。さすがに保護者を蔑ろにして進めるわけにはいかないし」
竹中に投げて止めてもらうためではなく、むしろ頷いてあげろと言わんばかりの目で彼を見据える。
任務のためだけではなく、彼女が確実に見せた成長と、そのための努力と覚悟、そして高い能力を、摘んでしまうのはあまりに惜しい。
「俺が決めるんスか? だったら、そんなの……っ!」
「お兄ちゃん。私、無理はしないわ。だけど少しだけ頑張らせて」
圧力をかけるのでもなく、請うのでもなく、ただただ意思を伝える澄んだ瞳はあまりにも大人びていた。
「いや、でも危ないじゃないスか」
「それはみんな一緒じゃない。同い年のユズリだって、もっと危険な立場で危険な任務に就いている。それに比べれば私がやろうとしていることなんて安全だわ。あの子たちが私に危害を加える理由も特にないわけだし」
「そりゃそうスけど……」
心理戦において有利な立場とはいえ粋から一本取ったかぐやに、竹中が敵うはずはない。それでも頑なに反対し続けることで、関係上止めることはできるのだろう。
しかしそれでいいのだろうか。
最初は反対姿勢だった竹中にも迷いが生まれる。
それは理屈を延々と聞かされ続け、ついには粋が折れたこともあるが、それと同じくらいかぐやの意思を汲むべきではないかと思い始めている。
一時の迷いではなく、きちんと考え、覚悟を固めた結論だ。
これを一蹴することは、妹の感情をも無碍に扱うことと同義である。
「くっ……!」
竹中は苦悶に顔を歪める。
かぐやはそれに付け込み媚びるでもなく、ただ大人然として兄の答えを待っている。
「……任せても大丈夫なんでスかね」
チラリと粋に尋ねれば、
「絶対はないよ。だけどできる限りフォローはする」
事が事だけに普段のふざけた様子はなく、真摯に言葉が返ってくる。
竹中は大袈裟なほど何度も大きく深呼吸をし、最後に自らの両の頬を強くはさみ打って顔を上げた。
「……そこまで言うなら、俺も覚悟を決めるっス。その代わり、危ないと思ったらすぐ退くこと! それから些細な変化でも報告と相談をすること! いいっスか⁉」
「もちろん、わかってるわ。お兄ちゃん、ありがとう」
こうして竹中かぐやの戦いは始まったのである。