第一章 旅館にて、それぞれの思惑
その後、果琳はすぐ、
「それじゃー早速、夜になるまで京都の街を巡回だー!」
と、息巻いて出て行ってしまった。
「おーい……」
俺が呼び止めようとした時には、既に一陣の風となって立ち消えている。
そうして呼び止める為に伸ばした手は所在が無くて、思わず手をにぎにぎしてみた。
「はは、果琳ちゃんは変わらないね。本当に炎みたいな子だ」
けれども静さんは特に気にした様子は無く、にこやかにしている。
鼠入れ程度の堪忍袋しかない俺と違い、大空の様に寛大な心を持っているらしい。
まぁ鬼が出るのは夜らしいし、と自分を納得させつつ、俺は気になったことを尋ねる。
「そういえば思ったんですけど、ご先祖様が陰陽師なら、静さん達でも鬼退治くらい出来るんじゃないですか?」
ごく自然に湧き上がった疑問だった。
何せ、希と望は色つきなのだ。
ただの鬼が十匹いたって彼女たちの敵では無いだろうし、何なら百鬼夜行でも出歩いたって無事に帰ってくるんじゃないだろうか。
実際に見たわけでは無いからただの妄想に過ぎないが。
けど、俺がそう思ってしまうほど、彼女たちは強いのだ。
彼女たちの兄である静さんだって色つきではないにしても、俺の及びもつかないほど強いはず。
それでも、静さんはゆるゆると首を振った。
「可能か不可能かで言えば、あの子たちなら可能だ。百鬼夜行だって、二人が協力すれば生還できるだろうね」
と、静さんは先ほどの俺の考えと全く同じ意見を述べた。
しかし、「それなら何故俺たちを」と尋ねようとする俺を手で制した。
「でも、両親がそれを許さない。真っ当な親だったら、娘たちを危険に曝す様な真似はしないよ。それが未成年なら尚更ね」
「……そうか、そうですよね。普通はそうだよな」
言いながらも、恥ずかしくてお猿の様に首を捻っていた。
……俺は何を言っていたんだろう。
果琳と一年間を共に過ごしてきたせいですっかり麻痺していた。
そりゃそうだ。
普通の中高生は自ら危険を冒す様なことはしない。
静さんは淡く微笑みながら、でも、と続ける。
「果琳ちゃんと貴己くんは、言わば武者修行として幻想種に関する依頼を受けているんだろう? そういうのであれば、いいんじゃないかな。うちも父さんが陰陽師をやっていたんだ。でも、魔導に関する稼業はもうやめよう、って急に言いだしてね」
「……それは、何故?」
尋ねながらも、俺は内心迷っていた。
禁忌に触れている、聞いてしまえば後戻りできない、そう思った。
静さんは微笑みを絶やさぬままだったが、俺は気づいた。
気づいてしまった。
笑っているはずなのに、表れているのは凄絶な悲哀。
笑顔とは、実は悲しいという感情を表すための表情なのではないか?
そう思わせるくらいに、自然な悲しい笑顔で、答える。
「僕に魔導の才が無いからだよ」
「…………」
そんなはずないのに、空気が粘ついている様だった。
粘つく空気は俺の喉に、体に絡みつき、俺はどうすることもできない。
ただ目を伏せ、俯くことしかできなかった。
静さんは少しの間、そうした俺を見ていたが、不意にふっと小さく呼気を吐き出すと、立ち上がった。
「ごめんね、暗い話をしてしまって、こんなつもりじゃなかったんだけど。果琳ちゃんが戻ってきたら夕餉を運ばせるから、それまでは寛いでいるといい」
言って、部屋を後にする時、小さく漏らした呟きを俺は何故、聞き取ることができたのだろう。
「何の為に望を−−−−」
その言葉の意味は分からず、俺は未だ喉に絡みつく空気を、口内に溜まっていた唾と共に飲み込んだ。
ぼんやりと言葉の意味を考え出した時、裏の襖から、誰かが音も無く去っていったのだが、俺は気付くことができなかった。
□ □ □
三時間ほどが経ち、日が暮れた頃、ようやく果琳が帰ってきた。
「やばい! やばいよ貴己! 大車輪の本物初めて見た! あんな妖怪本当にいるんだね! 車輪の真ん中にオッサンの顔!」
鼻息荒く、嬉々として話す姿はまるで、年も性別も異なるはずの、カブトムシを捕まえた少年の様だ。
が、これがいざ幻想種に対峙した時は修羅になるのだから何も可愛くない。
「それはやばかった。実にやばい、超やばいな」
果琳の語彙力皆無なワクワク討伐感想スピーチに適当に相槌を打っていると、入り口の襖がコンコンと叩かれる。
返事をすれば、夕食をお持ち致しました、と女性の声。
静さんの言った通り、果琳が戻ってきたらすぐに運べるよう準備していたのだろう。
入室を促すと、失礼します、と襖を開け入ってきたのは、希と望だった。
奥に女将が控えているのが見えたが、正直怖い。
「おおー! 二人が持ってきてくれたの!? ありがと〜!」
「これも仕事の内ですので」
望が小さく言いながら、果琳の前に手早く膳を並べていく。
俺の分は希が並べてくれたが、どこかぎこちなかった。
……まだ、気にしているのだろうか。
夕食はやはりというか、旅館だから当たり前なのだが、和食だった。
和食らしく、小ぶりな椀が幾つもある。
そして、一人用鍋。
それを見て、大騒ぎする輩がいる。
「うわぁ〜!? 見て見て貴己! あの青いヤツだよ!」
「見えてるよ。修学旅行で出てくるんだろ」
そう、黒い鼎の下にある、修学旅行の夜ご飯なんかで必ずと言っていいほど見られる、あの青い固形燃料を果琳は何故か好いている。
理由は「魂みたいに燃えるから」だそうだ。
膳を並べ終わり、部屋を出ていく時、望がちら、とこちらを見た。
「……?」
「……」
何か用? と首を傾げたが、望は何も言わずつい、と視線を逸らし、出ていってしまった。
「……なんだったんだ?」
よく分からなかった。
そんな具合で俺が狐につままれたような気になっている間も、果琳はマイペースにいただきますをした後、「どれから食べようかな〜」と、箸と心を踊らせているが、俺は食事にありつけない。
何故か希が残っているのだ。
俺の真横で。
「……の、希さん?」
「……」
声を掛けても反応する気配無し。
が、瞳を閉じたまま正座していた希は突然、「ぬんっ」という掛け声と共に目を見開き、こちらに向き直る。
「貴己さん」
「は、はい」
「まず、先ほどは妄りに泣き乱れ、ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした」
「いや俺はそんなの気にしてないっていうか、寧ろ俺が謝りたいくらいで……とりあえずそんな畏まらないでくれよ」
そう言っても、希の首が縦に振られることは無い。
……存外、芯の強い子なのかもしれないな。
「先ほど兄からも申し上げたと思いますが、どうか旅館の為、京都の為、よろしくお願いします」
三つ指揃え、頭を下げる。
それだけの動作なのに、俺はすっかり見惚れていた。
ただ綺麗だったというだけでは無い。
その礼には意志があった。
ゆくゆくは旅館を継いでいこうと思っているのだろう。
そんな事、考える様な年頃では無いはずだ。
もっと、自分のことを考える年頃なのに、そうするべきなのに。
瞳は強い意志を持って、礼はその意志が滲み出ているかのようだった。
けれど、勢いよく顔をあげれば、そんなのは微塵も感じさせない、あどけない笑顔をしている。
我に返った俺は咄嗟に「う、承りました」と、怪しい敬語を返すので精一杯だった。
と、片端から椀の中身を絶賛消滅させ途中の果琳が口を開く。
「のひょひひゃふ、ひはんあふはらたひゃひほひゃへっへいへは?」
「食いながら喋るな、行儀が悪い」
俺が咎めると、果琳は手で謝罪の形を取り、もぐもぐごっくんと揚げ豆腐を嚥下し、改めて喋り出す。
「希ちゃん、時間あるなら貴己と喋っていけば?」
「……でも、食事中ですし」
「俺は全然構わないよ。なんなら希も一緒に飯食えばいいんじゃないか?」
「いいねー! みんなで食べたほうが美味しいよー!」
「それならわたし、もう夕食は摂ってしまったので、二人の食事が終わるまでここにいてもいいですか?」
「食事しながらになるけど、それでもいいなら」
「……はいっ!」
それから、俺は果琳を交え、希と色々なことを話した。
終始、希は楽しげに笑っていた。
食事が終わると、希が膳を下げてくれた。
そして部屋を出て行く時、あっと何かを思い出した様に、教えてくれる。
「実はうちの旅館では、いわゆるVIPのお客様専用の貸切露天風呂があるんです。そこの角を曲がって真っ直ぐの所にありますから二人とも、是非利用してくださいね! あ、男女共用なので、順番にお願いします! それでは!」
……この部屋VIP仕様だったのか。道理で広いと思ったわけだ。というかVIPの為なのに男女別々で風呂が無いのは何でだ。
と、一人納得しつつ、疑問は頭の隅に追いやりつつ、果琳に声を掛ける。
「先どっち入る?」
「んー? 先入っていいよー」
間延びした声に、見れば果琳は腕を枕にしてテレビの前で寝っ転がっている。
それはもう、休日のおっさんかと思うくらい、すっかり寛いでいた。
「じゃあ先入るけど…………絶対入って来るなよ」
「入らないよ! 普通私が言うセリフでしょそれ!」
「いやだってお前やりそうじゃん。まぁいいや、先行ってくる。それと、飯食ってすぐに寝っ転がると牛になるぞ」
「んなっ! ならないよ! この、デリカシー無し男!」
反発する果琳に、へいへいと軽く受け流し、貸切露天風呂とやらに向かう。
「ここか」
「貸切」と書かれた看板があったため、分かりやすかった。
濃い緑の暖簾をくぐり、中へ入る。
……少し暗いな。
暗いといっても廊下に比べれば、の話で周囲も見えないほどじゃない。
気にせずさっさと服を脱ぎ、備え付けのタオル一枚を持って風呂への入り口を開ける。
「うおおお……」
目の前に広がる京都の街並みに思わず声が出てしまった。
遠くに寺社仏閣や近代建築の影が入り乱れて見える。
京都タワーも見えた。
こうして遠くから見てみると、明らかに造りの違う建造物が混在している様子は、古都というよりまるでSF世界の都市のようだ。
「風呂もすごいなこれ......」
露天風呂は床が黒い岩盤で仄かに暖かく、備え付けられたシャワーも心做しか高級そうな輝きを放っている。
肝心の風呂はゴツゴツとした、しかし磨きあげられている岩で周囲を囲まれ、まるで知る人ぞ知る秘泉といった赴き。
流石は老舗旅館。
造り込みが違う。
正直いって、興奮する。
早く入りたいと逸る気持ちを抑えて頭と体を洗い、清潔になってから思い切り湯船に飛び込む。
「いい湯だなぁ……」
美味しい食事と、眺めの良い露天風呂。
これだけでも京都に来た甲斐がある。
人心地ついて、頭に血が巡り始めた俺は、今日起こった出来事を思い出す。
鬼の出現。
希との手合わせ。
京都に訪れている異変。
そして、静さんの言っていた、後継ぎの話。
後継ぎの事は、俺にはよく分からない。
祖父の道場だって、親戚の叔父さんが継ぐという話だから俺にはまるで関係が無い。
それに、記憶を失くした後の俺に会いに来た祖父は、
「お前のやりたいことを、見つけていきなさい」
と激励までしてくれた。
けど、中御門家はそう単純では無いらしい。
少し話を聞いた俺ですら分かった。
あのお辞儀を見るに、希はもう完全に旅館の女将を継ぐ気だろう。
陰陽師に関してはどう思っているのだろうか。
静さんは、何か思うところがありそうだけれど。
……そういえば、望はどう思っているのだろうか。
あまりに接点がなさすぎて望のことを忘れていた。
兄が陰陽師を継げないのなら、自分が継ごうという気にはならなかったのだろうか。
「……俺が考えたってしゃーないよな」
これは全て中御門家の人の話だ。
いくら俺が考えたところでどうにもならない。
「そろそろ上がるか」
これ以上いたら逆上せそうなので、風呂から上がろうとした時、カララ、と風呂の入り口が開く音がした。
「果琳、マジで入って来たのかよ!? ……って、え?」
フリじゃなかったんだが!? と思いつつ急いで腰にタオルを巻きつけ振り返ったが、
「……こんばんは。お背中流しに来ました」
そこにいたのは、長い襟足を結わえ、何故か胸元の高さでタオルを巻いた望の姿だった。