第五章 涅槃寂静の戦い
数瞬の鍔迫り合いの後、鎬の圧迫感と遊戯童子が貴己の視界から消える。
だが、貴己は予定調和と言わんばかりに迷いなくその身と刀を翻し、背後からの一刀を受け止めた。
驚愕の表情を見せる遊戯童子に貴己が冴え渡る一閃を放つが、遊戯童子は貴己の後方へ飛んで一刀を振るっている。
貴己はそれにすら対応して死角からの攻撃をいなすが、刀と刀が触れる寸前、遊戯童子は五歩分の距離を後方へ飛び、鋭く突きを放った。
必死に身を捩り回避を試みる貴己だが避け切る事は出来ず、浅く腹の端を抉られる。
鋭敏化された時間感覚の中、驚くほど簡単に肌は切り裂かれ、一瞬遅れの痛覚が襲うが、遊戯童子は間断なく貴己へ全力の攻撃を放ってくるため、痛みに顔を歪める暇など無い。
視て、避ける。だが、喰らう。
視て、受ける。それでも喰らう。
太刀をその身に喰らう割合はおおよそ五合に一度。
殆ど刃の無い祓魔剣でなければ今頃貴己は斬り刻まれて死んでいる。
だが、いくら一撃で致命傷を負うことは無いといえど、身体にかかる負荷は馬鹿にならない。
常に後手後手の対応を取らされている今の状態では、着実に身を蝕まれていく。
……駄目だ、このままじゃ駄目だ。
視てからでは遅いのだ。
それならばもっと、
早く。速く。疾く。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」
避ける。受ける。いなす。
『何……?』
遊戯童子が声を漏らす。
貴己の動きが突如として変わったのだ。
一秒の間に四度攻撃を仕掛けても、全てに反応される。
更に速く、三方向から零・三秒以内の太刀が放たれたが貴己はそれら全てを受けきった。
−−−−人間の物理限界を突破している。
遊戯童子は俄かに戦慄した。
事実、貴己は人間の物理限界を突破していた。
“剣士は剣を握った瞬間、それの為に身体が切り替わる”と言われている。
これは比喩では無く、一流の剣士はその剣を握れば身体、もとい脳が切り替わるのだ。
ただ相手を殺すため、斬り伏せるために全神経を集中させる。
毛の一本、血の一滴に至るまで、相手を斃す為にその全てを用いる。
貴己は今、無理やりにその状態へと昇華していた。
体躯、思考、意識、その全てが遊戯童子に向けられている。
細身とはいえ一キロ以上あるはずの刀を刀身が霞む勢いで振るい、満身創痍であるはずの身を奮い、推して戦った。
時空の概念も道理も、今この場に於いては存在していないも同義。
分身と見紛うほどに激しく瞬転する遊戯童子に対し、一挙手一投足に音が立つほど貴己が烈しく動いた。
雲耀の域にすら届かんと展開される怒涛の剣戟凄風は火花を散らしながら何百合と続く。
『良いな、良いなぁ! もっと楽しませてくれ!』
まだ余力があるのか、遊戯童子が剣戟の最中、叫ぶ。
だが、貴己には限界が近づいていた。
というより、とうに限界は迎えているはずなのだ。
霞むほどの速度で刀と共に振るわれ続ける四肢は圧迫されて充血し、どす黒い紫じみた血煙を腕や脚の幾箇所からもあげている。
限界を越えて体躯を酷使し、無酸素運動に入った視界は暗く覚束ない中、伝達物質の閃光が光り始めていた。
それでも貴己は戦い続ける。
「お……おおおぉぉぉぉぉっっ!!」
寧ろ刀の冴えは上がっていくようで、貴己は遊戯童子に追随していった。
そして、貴己が遂に初撃以来である反撃の一太刀を振るう。
が、遊戯童子は避けようとはせず、それを手で掴んで止めた。
そう。手で掴んでしまえるほどに、遅々として衰えた剣閃だった。
「はっ、はっ……」
柄を持つその手は既に人の手とは言い難いほど痛々しく、変色していた。
瞳は虚ろで、浅く抉られた幾つもの刀傷や、穴という穴から酸素が無くなりかけたどす黒い血が垂れ流されている。
立っているのが不思議なほどに、貴己は精魂尽きていた。
『あぁ、人とは本当に弱い生き物だな』
遊戯童子が、貴己ほどでは無いが変色した借り物の手を眺め、呟く。
『我と渡り合えたのも一瞬か。ここまでやって、一太刀すら届かぬ気持ちは、どんなものなんだ?』
死力を尽くし、全身全霊で追い縋っても、なお届かぬ事実を突き付けられる絶望は、如何なるものか。
それは奇しくも、初めに相対した位置が入れ替わった状態での問答だった。
だから、貴己はその視線を奥に向けた時、あることに気がついた。
来た時は無我夢中で気にも留めていなかったが、入り口はガラス戸で、外が見えるのだ。
貴己はガラス戸の更に奥を見て、確信した。
「どんな気持ちか……だって?」
力を振り絞り、刀を握り直す。
……まだ大丈夫、刀は振るえる。
「どうとも思わない、初めに聞いてきたのはお前だろう。俺は、お前には勝てない」
『うん……?』
遊戯童子が眉根をあげたが、貴己は鼻血を拭いながら構わず続ける。
「この場所で俺一人じゃあ、何をしたってお前には勝てないよ。−−−−でも、」
笑って言う。
「俺は賭けに勝った」
同時に、ガラス戸が大きく引かれる。
遊戯童子が振り返った先に、希と望が立っていた。
「すみません貴己さん。少し遅れました」
肩で大きく息をしながら望が言う。
「いや全く、ジャストタイミングだよ」
貴己の言葉に、遊戯童子が嘲るように重ねる。
「何を。小娘二人が増えたところで今更−−−−」
「言ったろ。ジャストタイミングだって」
貴己が言った次の瞬間、蒼龍殿の入り口前で突如爆発が起こった。
それはただの爆発ではなく、飛来した何かが弾着したことを示すもの。
爆炎冷めやらぬ中、悠々と蒼龍殿の中へ足を踏み入れたのはカミカガリによる金砂の髪を湛え、赤と緑の異色瞳を輝かせる果琳。
『艮たちはどうした? ……よもや、二匹とも斃したのではあるまいな?』
遊戯童子が尋ねるが、果琳は開口一番、
「あいつら、心臓が四つあるとか聞いてないんですけど。ていうかこの紫の、何?」
そう言って遊戯童子を一瞥し、ただ遺憾の意を示した。
見れば、果琳の服装はあちこちがはだけており、所々が血染められている。
特に、両腕が貴己とは違った意味で真っ赤になっていることが、それでもなおこの場に立っていることが全てを物語っていた。
『…………は、はははははは!』
呆気にとられていた遊戯童子が突然、さも愉快そうに笑い出す。
ネジが外れたように、狂ったように、笑い続けた。
が、笑い始めと同じように突然ピタリと笑うのをやめ、ゆらりと壁際へ移動して果琳たちに歓迎の意を示す。
貴己たちは今一度、遊戯童子と対峙した。
『面白い! これだから人間は面白い! どうしようもなく弱いくせに、平気で無理も道理も飛び越えてくる!』
本当に楽しくて仕方がないといった様子で遊戯童子は語る。
『さあ! 最後の戦いといこうじゃないか! 我を楽しませてくれよ、人間!』
玉響が激しく踊り、静の身体から紫の妖気が迸る。
遊戯童子は果琳たちが来てもなお、彼女たちも含めた上で正面から迎え撃つ気でいた。
「貴己、あれどう見ても静さんじゃなくて何か違うのが中に入ってると思うんだけど」
果琳たちから見れば豹変という言葉では片付けられない静の挙動に、果琳が半ば呆れながら貴己へ問うた。
「遊戯童子だ。すごいぞ、あの紫の玉がある限り無制限の瞬間移動でどんな場所からもこっちを刺せる。俺たちが束になってかかったとしても、指一本触れられないだろうな」
「そっ、そんなの勝ちっこ無いじゃないですか!」
「……本当に勝てないんですか?」
笑いながら言う貴己に、希と望が悲痛な声を上げる。
だが、果琳は一人冷静に貴己を見つめ、再び口を開いた。
「その様子だと、何か策があるみたいだね」
「ああ、十分以内に全員が揃うことに賭けた甲斐があった」
どうぞ話し合ってください、と言わんばかりに余裕綽々といった様子でこちらを待つ遊戯童子を一瞥し、貴己は続ける。
「一人じゃあ勝てない。全員揃っても、まだ勝てない。それぞれにやるべきことがある」
そう言って、貴己は果琳たちにその“やるべきこと”を伝える。
「え……それだけで良いんですか?」