第四章 カミカガリ
東山頂上、将軍塚。
蒼龍殿の大舞台にて、静は一人佇んでいた。
眼下には百鬼夜行を迎えた京都の街並みが広がっている。
京都の街は既に幾つかの場所から黒煙が上がっており、混沌を極めていた。
昏い笑みを浮かべていた静だが、異変に目を眇める。
……妖怪たちの侵攻が抑えられた。
父が陰陽連を動かしたのだろう。
遊戯童子を取り込んだ時点で静はこの展開を予測していた。
しかし、もはや誰にも止められないのだから、と特に手を打つような事もない。
事実、静は百鬼夜行を止める術を知らなかった。
現れる妖怪を全て倒せば止まるかも知れないが、雲霞の如く何処からともなく現れ続ける妖怪共を殲滅できるはずもない。
だから静は、己を倒そうとして向かってきているであろう存在に思いを馳せていた。
彼を殺し、七年前の自分をも殺す。
そうして、新たな自分として生まれ変わるために。
……だから、早くここまで来い。
そんな殺意を胸に秘め、山の麓に目を向けた時、
「あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっ!!!!!!」
遠く、果琳の叫び声と同時に炎の柱が舞い上がり、天を貫いた。
「なっ……!?」
静が空を見上げながら驚きの声を上げた瞬間、天高く衝いていた炎の柱が弾ける。
だが、それだけでは終わらない。
叫び声が上がった場所を基点として、火焔の津波が凄まじい勢いで京都全体に広がっていくのだ。
原初の灯火によって、夜の闇が払われていく。
「……は、はは。あっはははははは!」
文字通り京都が火の海となっていく様子を見た静は哄笑する。
百鬼夜行を止めるために街一つを犠牲にするとは、本末転倒どころの話ではない。
「そんな方法で百鬼夜行を止めようだなんて気でも触れたか! ……ん?」
だが、それがただの自滅行為ではないと静が気づくのに時間はかからなかった。
静は己の目を疑ったが、紛れもな事実として、それは目の前で起こっている。
「そんなことが、できるのか……?」
静が困惑の声を上げた、少し前に遡る。
□ □ □
「躱体……陽炎」
「オラァッ!」
果琳が呟いた瞬間、艮の剛拳がその首を撥ね飛ばした。
頭を失った体が力無くその場に頽れるが、体は地に臥すと雲散霧消し、夜闇に搔き消えてしまう。
更には、どこからともなく現れた果琳が視覚外から攻撃を仕掛けてくる。
そんなことが既に六度、繰り返されていた。
「アアアアッッ! うっぜえなあッ!」
艮が苛立ちの咆哮を上げながら腕を真横にスイングするが、果琳は屈んで回避。
腕が頭上を通過すると同時に、屈んだ状態からサマーソルトキックを放つ。
魔力放出により勢いと回転を跳ね上げて放たれたそれは、炎の弧を描きながら艮の顎を蹴り飛ばすが、艮は多少ぐらついたのみで決定的な一打には至っていない。
「うっざいのはそっちもだってのっ……!」
即座に距離を取り、果琳は首筋に流れる汗を拭いながら、そう毒づいた。
人間であれば絶命する負荷を五回は負わせているはずなのに、倒れる気配すら見せない。
対して果琳は一撃でもまともに喰らえば終わり。
蚊が潰されるように一瞬で死んでしまう。
艮もそれをわかっているのだろう。
こちらを心の底から舐め腐っているのが嘲るような表情からもありありと伝わってくる。
事実、向こうがこちらを殺す為に必要とする労力は虫叩きにも等しいのだ。
魔力感知に長けているからこそ、果琳には分かってしまう。
艮が秘めている魔力量は計り知れない。
彼我の実力差は、比べられぬほど隔絶されてしまっている。
実力差、などと言い飾れる物ではない。
勝てる勝てないの話をする以前に、次元が違うのだ。
人類と類人猿は似て非なる物で有り、そこには決定的な違いがあるように、目の前の相手と自分とでは、そもそもが違うことを果琳は理解していた。
……それでも、引くわけにはいかない。
啖呵を切って言い放った二十分は、当に過ぎてしまっている。
貴己たちには悪いが、間に合いそうもない。
思いつつ果琳は今もなお、艮と坤を相手取りながら大立ち回りを演じていた。
そして、次の一手を考えたところで果琳はあることに気づく。
……坤が消えた?
あまり人を見た目で判断するようなことはしない果琳だが、あれだけは別だ。
ニタニタとせせら笑うあの顔面は、自分は何かしますよと初めから告げている。
初めのうちは二匹揃って果琳に向かってきていたはずだが、いつの間に消えたのか。
探知しようにも、周囲に幻想種の反応がありすぎて−−−−
「−−−−まさかっ!?」
果琳は今一度自分の状況を確認し、戦慄した。
いつの間にか、夥しい数の妖怪どもが、こちらを睨め回している。
周囲の景色を見るに、初めに対峙した場所から離れて大通りに面した所まで出てきていた。
必死に立ち回るうち、いつの間にか誘導されていたらしい。
だから、果琳は自分が嵌められていることを察知できなかった。
「……あぁ、必死に頑張ってきた奴が、どうしようもない状況に絶望して見せるその表情、いつ見てもいいなァ」
ガシャン、と瓦屋根を踏む音がして、見ればにやついた顔の坤が果琳を見下ろしている。
「神霊のくせして随分と狡い手を使うのね」
「おいおい、やれ鬼だ悪魔だ、神だ天使だって言うがなァ、それはお前らが勝手に決めてるだけだぜ? 俺たちは呼ばれたらその場で好きなように好きなことをするだけさァ」
坤は大げさに肩を竦め、そんなことを宣った。
……なるほど、話をする意味はなさそうね。
なまじ言葉が通じてしまうからついうっかり喋りかけてしまった。
自分と相手が違うことはつい先ほど自覚したばかりのはずなのに。
果琳は気合を入れ直し、深呼吸をして自分を落ち着かせる。
「お前はどうしてやろうかねェ。あの貧弱な野郎の前でお前を犯してやるのもいいかもなァ。もしくは豚にその綺麗な首を食わせる様を見せてやってもいいかなァ」
坤は既に勝利を確信しているのか、度し難い妄想を本人の前で垂れ流す。
果琳本人はなんと言われようと毛ほどの嫌悪も抱くことは無かったが、
「お前を頼って逃げるしか能が無かったアイツがどんな顔をするか楽しみだなァ」
しかしその言葉は、果琳の逆鱗に触れた。
「頼って逃げるしか、能が無かった……?」
揺れた果琳が一歩前にでる。
同時に、その体から紅緋の何かが迸り、ゆらりと後を曳く。
それは可視化できるほどに果琳を覆う外魔力だった。
「あァ……?」
妖気と形容できるほどに濃い魔力を放つその姿に、坤は怪訝な表情と共に声をもらしたが、顔を上げた果琳を見てその表情を一変させる。
「お前……笑ってんのかよォ! この状況で!? 狂ってやがる!」
面白くて堪らない、といったように手を叩く坤を見据え、果琳が声を上げる。
「一つ、言っておくことがある」
「あァ? なんだ、何でも言ってみろよ」
「貴己は、私を頼って逃げた能無しなんかじゃない」
それは淡々と当たり前の事実を述べるように。
「逆だよ」
絶体絶命のはずの状況で、微笑みながら、
「こんな私を信じてくれる、とても優しい素敵な人」
果琳は、そう言った。
「そうかい。じゃあ死にな」
興味無しといった様子で坤が手を上げるのに合わせ、それを合図として妖怪たちが一斉に果琳へ向かっていく。
空も地も、どこにも逃げ場は無い。
飛ぶ物、這いずる物、浮く物、走る物、全てが迫り来る。
それらを前にして、果琳がいよいよ微笑みを消した。
けれど、動かない。
そうして無数の妖怪が果琳を無情に喰らおうとしたその瞬間。
「−−−−カミカガリ」
小さな呟きと共に、半球状の爆炎が妖怪たちを飲み込んだ。
「あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっ!!!!!!」
次いで轟いたのは此方から彼方まで届く、その大絶叫。
絶叫に呼応する様にして天高く舞い上がった炎の渦は不意に弾け、今度はその勢いを横に拡げる。
赤の波濤となって、京都全体を飲み込み始めたのだ。
叫びと共に生み出された紅蓮の大渦潮は、あっという間に全てを飲み込んでいく。
ともすればそれは全てを灰燼に帰す、理性の皮を脱ぎ捨てた獣の咆哮だったのか。
だが、渦中にいる果琳は獣の様に猛る事なく、静かに佇んでいた。
−−−−髪が、燃えている。
長く伸びた髪は黄金の焔に包まれ、端から光り輝く灰となって消えていく。
その姿は、ひどく神々しい。
獣性など微塵も感じられず、寧ろ超然として、艮と坤をその視界に収めていた。
「おいおい……なんだこりゃァ。神業かよ」
あまりの出来事に、坤は思わず瓦屋根の上で笑った。
坤のいる家屋には何も変化がない。
それどころか、見える範囲全てがただ赤い炎に包まれているのみ。
何も燃えていないのだ。
否、自分たちは燃えている。
「あちぃッ! 一体どうなってやがんだッ!」
艮が吠えるが、炎の中でも平然と立っている。
鬼門の鬼だからこそ無理やり弾き返せているが、適当な幻想種なら為す術もなく燃やされるだろう。
事実、この場には艮と坤を残すのみとなっていた。
「何なんだそりゃァ……」
坤の問いに、果琳は短く答える。
「カミカガリ。あなた達を倒すための、最終手段」
カミカガリ。
それは現代では禁忌とされている神降しの一種。
髪を贄の篝とし、神憑る。
今、果琳はその身に神を降ろしていた。
坤が神業と言ったが、まさにその通りである。
「すげぇなァ、まるで煉獄の炎だ。……だがなァ」
坤の言葉に合わせ、家屋や電信柱、看板の陰という陰かから妖怪が湧いてくる。
「生憎と、こっちは地獄から来てるのさ。地獄送りにされたって幾らでも出てくるぞォ?」
文字通りその命を灯火と投げ捨てながら、吶喊してくる妖怪たちに、果琳はもはや一瞥もくれていない。
「−−−−雷霆」
呟いた瞬間、果琳の姿が掻き消えると同時に、何かが弾ける音が断続的に発生する。
そして、稲妻が一瞬遅れて地面を這う様に駆けていく。
横から横へ、通常ならば有り得ない閃光の軌跡。
だが、有り得ないのはそれだけではない。
さらに一瞬遅れ、軌跡の元にいた妖怪が頽れ、灰と化し、塵芥となって消えていく。
それは一撃百斃の鏖殺劇。
果琳が雷霆となって駆け抜けた後は文字通り、何も残っていなかった。
「さぁ、勝負をつけましょう」
決然と言い放ち正対した果琳に、二匹の鬼が獰猛に笑う。
そして、再び時は戻り貴己たちの元へ。