第四章 冠された名は
俺たちが走り出した時は既にそう遠くない場所からも、悲鳴や怒声が上がってきていた。
今や京都全体に混乱が波及している。
「とりあえずの難関は大通りだね」
「ああ。できる限り戦わないように、って言っても多少の戦闘は覚悟しておこう」
果琳の言葉に俺は頷く。
蒼龍殿に行くためには八坂神社のある大通りを抜けなければならないが、その大通りの方向から騒ぎが聞こえている。
素通りできるとは思わない方がいいだろう。
「希と望はそのままで大丈夫なのか?」
「はい! 御札がありますから!」
望が文字の書かれた札を着物の袖から取り出す。
「それは?」
「後でのお楽しみです!」
「わかった、楽しみにしておくよ」
そうして話しながら街路樹のアーチをくぐり抜け、街道へ出た時だった。
「−−−−っ!? 上!」
果琳がいち早く立ち止まり、上を見上げながら叫ぶ。
次いで、俺にさえはっきりと分かる、強烈な殺気。
止まって上を見上げたりすればその時点で殺されると判断し、俺は希や望と咄嗟に前へ転がった。
次の瞬間、ゴッッッ!と、莫大なエネルギーを持った何かの衝突音と衝撃に、さらに前方へ吹き飛ばされる。
転がりながらも体勢を直し、その方向を見た俺は自身の目を疑った。
「なんっ、だあれ!?」
果琳を押し潰さんと拳を振り下ろしていたのは、上背が三メートルはあろうかという大男、いや大鬼だ。
隆々とした筋肉を包み込む赫赫たる皮膚に、怒髪天と一対の角、腰辺りから虎のような尾を突き出しているそれは、尾を除けば絵に描いたような鬼そのもの。
だが、望は顔を真っ青にして叫ぶ。
「艮!? 鬼門の鬼まで喚ばれてるの!?」
過剰な反応と思ったが、全くそうでは無かった。
「艮って、あの艮か!? って待て、鬼門の鬼がいるって事は−−−−」
俺は悪い予感を感じ取り、弾かれたように後ろを振り向いて、
「−−−−はは、当たりかよ」
同じく上背が三メートルはある、巻き角に猿の尾を持った鬼と対峙した。
そいつは見ている側の気分が悪くなるほど皮膚が青みがかっており、ニタニタと薄気味悪く笑っている。
「裏鬼門、坤……」
希が身体を震わせる。
出だしから最悪な幻想種と出くわしてしまった。
いや、静さんと遊戯童子が初めから仕組んでいたのだろう。
「序盤から飛ばすなぁ、おい……!」
敵のあまりの規模に笑いがこみ上げてくる。
鬼門、裏鬼門というのは陰陽道、ひいては遥か昔の日本で不吉とされていた方角のこと。
今でこそ方角は東西南北で、暦はグレゴリオ暦だが、遥か昔の日本では方角にも時間にも太陰太陽暦というものが用いられ、十二支がその尺度だった。
子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥。
現在では干支としてその形を残しているそれらが、方角として定められていた時代。
丑と寅の間、今でいう北東方向を鬼の通る道、不吉の方向であるとして鬼門と呼んだ。
丑と寅の間だから艮。
裏鬼門は単純にその逆で、南西方向である未と申の間をそう呼んだ。
未と申の間だから坤。
どちらも強力な力を持つ鬼とされており、いくつもの伝承や逸話があることからも、もはやただの鬼ではなく、概念として顕現する神霊の類に足を突っ込んでいると言われている。
要するに、滅茶苦茶強い。
「ふんっっ! だぁぁぁっ!」
だがその圧倒的な巨体と膂力を物ともせず、裂帛と共に果琳が艮を押し返した。
そのまま回し蹴りを放つが、艮は曲芸じみた身のこなしで果琳の蹴りを避け、数メートルの間合いを取る。
自然、俺たちは艮と坤に挟み込まれていた。
「やばいな……ここで使いたくないが……」
出し惜しみして勝てる相手ではない。
けれど、蒼龍殿に辿り着くまで、恐らく文字通り百の妖怪と対峙することになるだろう。
さらにそれを乗り越えたとしても、瞬間移動を行う静さんと遊戯童子を相手取らなければならない。
……絶望的だな。
あまりの苦難に思わず笑ってしまう。
……それでも迷わない、ここで力を使う。
そう覚悟を決め、刀を抜こうとして、
「貴己、それはダメ。希ちゃん達と先に行って」
果琳に手を握られ、止められた。
「なっ、果琳お前! 一人で相手するってのか!?」
「できるから言ってる。時間が無いから三秒後に動くよ。三、二、一……今!」
有無を言わさず動き出した果琳に、俺は合わせる事しか出来ない。
「っ! 希、望! 突っ走るぞ!」
「は、はい!」
だが、案の定、鬼たちが行く手を阻む。
「ウヒヒ、行かせねぇよぉ〜」
「喋っ……!?」
坤が下卑た笑いを浮かべながら、異常なほど爪の伸びた手を振るってくる。
「邪魔ァッ!」
「ぐはっ」
だが、果琳の飛び蹴りを喰らい、地面を転がっていく。
そして果琳は右爪先のみで地に足を着くと同時に時計回りでターン。
そのまま俺たちのすぐ背後までやってきていた艮の腕を左足の蹴り上げで弾いた。
更に、右腕を蹴り上げられ、艮の体が崩れた僅かな瞬間を見逃さず、懐に掌底を叩き込む。
「吹っ飛べ」
その掌底から魔力を放出し、艮をロケットのように軽々と吹き飛ばす。
「な……」
目の前で怒涛の迎撃が展開され、思わず立ち尽くしてしまう。
「何ボサッとしてるの! 早く行って!」
「っ、悪い! 二人共、いくぞ!」
立ち上がろうとする坤目がけ、再び果琳が飛びかかっていくのを横目に、俺は希たちを連れて走り出す。
「果琳さん、本当に一人で大丈夫なのでしょうか。今からでも戻ったほうが−−−−」
「戻っても足手まといになるだけだ。それに−−−−」
鬼にも劣らぬ筋力。驚異的な体の制動力。重力から解き放たれたような身のこなし。
俺は忘れかけていた。
果琳は魔導の名家の一人娘で、跡継ぎ筆頭。
それも、ただの魔導では無い。
戦闘特化の魔導一族。
保崎家は、魔導の深淵へ至るための研究などは行なっていない。
もっと実戦的なもの、極端な話、人を殺すため、物を壊すための魔導を極める家系なのだ。
冠された名は“狂った穂先”。
そのあまりの戦闘狂ぶりと苗字から、畏怖を込めてつけられたそれを、果琳は存外気に入っている。
あの戦いは、常人がついていけるものじゃない。
果琳と共に戦えば果琳が全力を出せないだけだ。
何より俺は、あの手を信じたい。
「−−−−果琳ができるって言ったんだ。俺はそれを信じる」
できると言った時、力強く握られたあの手は決意の表れ。
だから俺は足を止めぬまま振り向き、叫ぶ。
「果琳! 必ず追いつけよ!」
声は僅かに木霊して、闇の中へ消えていった。
返事は元より求めてなどいない。
そうしていよいよギアを上げて走り出そうとした時、遠く声が返ってきた。
「二十分以内にケリつける!」
あまりにも大胆不敵な勝利宣言。
「言ったなぁ……っ!」
大法螺も良いところだ。
けれど、果琳なら。
「希、望! なんなら果琳が追いつく前に終わらせる勢いでいくぞ!」
「「はいっ!」」
街道を道沿いに走った後、大通りに躍り出る。
既に避難したのか、人は見る影も無く先ほどの騒ぎが嘘のようだ。
だが代わりに、悪夢か何かかと笑い飛ばしたくなるほどの数の妖怪が蠢いていた。
それらは一斉に、目があるものはこちらを見つめ、目がないものは殺気を向けてくる。
意思はいずれも同じ、取って食う。
ただそれのみ。
「ゾンビ映画に入り込んだみたいだ」
場違いにも思ったことを口にしながら、俺は刀を抜いた。
−−−−−−、−−−−。
空気が張り詰める。
妖怪たちがどよめき、一歩、また一歩と下がっていく。
小物はすでに逃げ出していた。
俺は刀を構え、希と望は札を手に、臨戦態勢に入っている。
「足を止めるなよ。全速力で駆け抜けろ!」
呻き、叫び、怒号や罵声。
人で無い者らが様々な声を上げる中、俺は刀を構えたまま大通りを走り出す。
「向かってきた奴から全部、叩っ斬る!」
さぁ、快刀乱麻の決死行を始めよう。