第二章 黄色い百合
黄色い百合の花言葉は...
挨拶はこの辺にして、それではご覧下さい
すっかり日が暮れて薄暗くなった中、旅館までの街路樹のアーチを歩いて行く。
街灯は無いが、道の端にそれぞれ等間隔で置き行燈が設けられている。
石畳の道というのも相まって幽杳とした雰囲気が醸し出されているが、暗さはそこまで気にならない。
今日の夕飯は何だろうね、などと他愛無い話を果琳と交わしながら歩き、旅館の門扉が見えてきた時、何やら門の少し前で言い争っている人が見えた。
言い争っている、というほど激しくは無いが、良い雰囲気で無いのは確かだ。
目を凝らすと、それは意外な人影。
「兄さん、どうしてわかってくれないんですか。僕は……」
「わかっていないのは望だよ。僕は君たちに対して悔恨なんて持っちゃいない」
「それならっ……それなら何故そんな顔をするんですか! どうして、何も言ってくれないんですか!」
「それは−−−−ああ、貴己くん、果琳ちゃん。お帰りなさい」
引き返そうかと思っていたが、それより早く静さんに気づかれてしまったらしい。
この距離で手を挙げて挨拶されてしまっては無視するわけにもいかず、俺と果琳は気まずくなりながらも近付いていく。
「すみません。なんか、盗み聞きみたいなことしてしまって」
「いやいや、他愛無い話さ。望、二人を部屋まで案内してあげなさい。それじゃあ僕はこれで」
「は、はい……」
そう言って足早に去っていく静さん。
俺たちはその背中を見送ることしか出来なかった。
「……望くん、大丈夫?」
果琳が遠慮がちに声を掛けるが、望は俯きながら唇を噛み締めている。
前髪で隠れた望の目は、こちらからは窺い知ることは出来ない。
そうして、無言で歩き出す望の後を俺と果琳は何も言わず付いていく。
……静さんが出ていくのを止めようとしていたのだろうか?
重く、暗い雰囲気のせいで尋ねられなかったが、徐に望が口を開いた。
「すみません。見苦しい所を見せてしまって」
「ん……兄妹喧嘩なんて良くある事だろ。まぁ静さんと望が、っていうのは驚いたけど」
するなら希と望じゃないか、と言おうとしたけれど、何だかそれも想像出来なかった。
「喧嘩、ですか。……兄さんは、喧嘩とすら思ってくれてないと思います」
望はぽつりと呟き、胸の内を吐露する様に喋り出した。
「昔は、もっと仲が良かったんです。七年前なんかまさに、喧嘩するほど仲が良いなんて言葉が当てはまるくらいに毎日喧嘩して、その分笑い合ってました。でも、僕らが大きくなるにつれて、周りが見えるようになっていって。段々と自分たちの関係の歪さが分かってきて。いつの間にか、親しく話すことさえ出来なくなってました」
紡がれる声の末端は、俄かに震えていた。
「僕には、どうしたらいいかさえ、もう分かりません」
「……」
言いながら、なおも歩いていく。
門をくぐり、旅館へ続く庭の間を歩いていく。
柵から幾らか溢れ出た、枯山水の玉砂利を踏む音が良く響いた。
「そうしている内に、何だか希とも、前と同じようには話せなくなって。互いに自重するようになったと言いますか」
旅館の中へ入り、廊下を進んでいく。
「だから、貴己さんと果琳さんが七年ぶりに会いに来るって事を知った時、二人なら何とかしてくれるんじゃないかなんて期待してしまっていたんです」
そうして部屋の前まで辿り着き、振り向いた望は笑っていた。
けれど、その笑顔は昨日、静さんが見せたそれを彷彿とさせるもので。
ともすれば、それは救いを求める声なのかも知れない。
「…………」
俺は言うべき言葉を探す内、黙り込んでしまっていた。
「勝手にそんなこと言われて、迷惑ですよね。すみません。今言ったことは忘れてください。すぐに夕食を運んできますね!」
望はそれを否定的沈黙と受け取ったのか、なおも笑顔のまま立ち去ろうとする。
その姿を見た俺は、
「−−−−望、手合わせの約束まだ果たして無かったよな。今日でいいか?」
「え……? はい、構いませんけど……」
「それと、修練場を開けておいてもらえるよう伝えてくれ」
「は、はい。分かりました。ひとまず、夕食をお持ちしますね!」
言って、タタタと小走りで去っていく背中を見送った。
「はぁー……」
大きく息を吐き、壁に寄りかかる。
重力に任せ、ずるずると床に座り込む。
「貴己、何であんなこと言ったの?」
それまで静観していた果琳が、純粋な興味を瞳に宿して問うてくるが。
「俺にもわからない。ただ−−」
別段、励ましのつもりで、だとか、気分転換のため、と言うわけじゃ無かった。
ただ、去っていく望を見て、
「−−−−−−思ったんだ。何とかしたいって」
望だけじゃない。
静さんだけでもない。
希だって、彼らの両親だってそうだ。
彼らを取り巻く、複雑な事情を、どうにかしてやりたかった。
段々と澱が積み重なって、気づけばその中に埋もれていて、身動きが取れないような。
言葉に出来ない呪縛のようなそれを、何とかしてやりたかった。
だからと言って、何か案があるわけでもない。
こんな状況でも、望とも手合わせをする事で何かわかるんじゃないか、なんて俺自身が期待紛いの事を勝手に思っているだけ。
そんな俺を果琳は何も言わず、ただ見ていた。
いつもそうだ。
実質的な問題は果琳が解決してくれる。
けれど、人間関係については一歩引いた場所で見ているだけ。
昔、と言っても一年ほど前、俺が記憶を失ってまだ一ヶ月も経っていない頃、初めて果琳の魔導依頼に同行した。
依頼内容は、天狗に攫われた子供の救出。
記憶を失ってから初めて幻想種に出会った俺は、何も出来なかった。
酔ったかのような赤ら顔に、濁った鋭い眼付き、筋骨隆々とした身体で、けれど赤茶けた袴と共に、ふわり木の葉のように舞う。
それら全てが異質で、眼前まで迫った時も、逃げなければなんて考えが浮かばないほど頭の中は真っ白で、足は竦んで動かなかった。
しかし、傷一つ負わなかった。
結果から言えば、果琳が一人で天狗を倒したのだ。
烏のような鋭い黒爪が俺に届く寸前、真横から飛来。
そのまま、文字通り一撃で天狗を殴り殺した。
そうして動けないでその場にへたり込む俺を置いて子供の元へ行けばいいものを、何故か果琳は後のことは全て俺に任せた。
言われた時は、単に面倒なことをさせられていると思っていたのだが、子供を両親の元へ連れ帰る時ですら、果琳は立ち会わなかった。
“実質助けたのは果琳なのに、これだと正当な謝礼を受けられないぞ”
と、俺は何度も言ったが、果琳は決して首を縦に振らなかった。
“御礼を貰うためにやってるんじゃないもの”
そう薄く微笑んで言った後、こうも付け加えた。
“誰か一人、私のやったことをわかってくれるなら、それでいい”
それからも、果琳は頑なに人間関係の事は触れようとせず、俺に任せてきた。
今回もそのつもりなのだろう。
というより、もしかしたら最初からそれが目的だったのではないか、とすら思える。
言及したとて、果琳は決して真実を言わないだろう。
だから俺は最初から真実を確かめる気など無い。
「……そっか」
「そうだ。とりあえず、今は飯食お−−−−」
小さく呟いた果琳に、そう言って立ち上がろうとした時、
「−−−−それは昨日、望ちゃんと一緒にお風呂に入ったから?」
「なっ……!?」
思わず果琳の方を見ると、したり顔で笑っている。
「果琳、なんでそれを」
「何でも何も無いよー。昨日望くんが私のことを呼びに来たって言ったでしょ? その時に全部聞いたんだよ。望くんからね」
「……そうか。そうだよな」
言いながら俺はガックリと項垂れる。
果琳は元から全部知っていたはずだ。
だのに、それを半ばドッキリの様な形で示してきた。
……中々に底意地が悪いな。
思わず苦笑してしまう。
と、俺があしたのジョーばりに燃え尽きていると、果琳が耳元まで顔を寄せて、声をかけてきた。
「貴己が色んな人に好かれるのは嬉しいけど、私だって嫉妬するからね?」
「……っ!?」
蠱惑的な声に、思わず鳥肌を立てながら果琳を見れば、先ほどのしたり顔は何処へやら、満更でもない様な表情で、僅かに頬を朱に染めていた。
「……」
「……」
無言で見つめ合うこと十秒。
段々と近づいた互いの手が、触れ合った瞬間。
コンコンと襖が叩かれた。
「すみません、夕食をお持ちしました! ……ってお二人とも、どうされたんですか?」
「何でも無いよ! ちょっとプロレスごっこがしたくなってね!? 今貴己にチョークスリーパーかけてるところなの!」
「へー……ってそれ気絶してませんか大丈夫ですか!?」
「だ、だずげ……げほっ、ごほっ。はぁっ、危なかった……」
一瞬意識が遠のいて本気で死を悟ったが、(多分)誤魔化せたので良しとしよう。
「だ、大丈夫ですか」
「大丈夫大丈夫。そういえば、修練場は開けてもらえるって?」
「はい。先ほど許可を貰ってきました」
「分かった。それじゃあ、何時頃ならいける?」
「恐らく十一時ごろだと思います。準備が出来次第、こちらが迎えに行きますね」
「分かった。それじゃあ、飯にしよう」
「わーいご飯だー!」
「今日は鰆の西京焼きです。お口に合えば良いのですが……」
「果琳は味付いてりゃ美味いっていうから大丈夫だよ」
「失礼な! 何でもじゃ無いよ、醤油バターが特に好きだよ!」
「嫌いなものは無いのな……」
そうしてやんややんやと騒ぎながらも、俺の胸中には、望の笑顔と言葉が渦巻いていた。
夕食を食べ終わり、風呂にも入ってしまい、ぼーっとテレビを見ていると、あっという間に時間は過ぎた。
十一時を少し過ぎた頃、小さく襖が叩かれる。
襖を開けると、宣言通り、紺の道着と黒の袴に身を包んだ望がそこにいた。
「すみません、お待たせしました」
「いや全然。それじゃ行こうか。−−果琳は来ないのか?」
休日のおっさんと化している果琳の背中に声をかけるが、無言でひらひらと手を振るのみ。
勝手に行ってこい、という事なのだろう。
俺は肩を竦め、望と修練場へ歩き出す。
「そういえば、希は?」
「夕方頃から見ていませんね。大方、裏の倉庫で何かやってるんだと思います。兄さんが昔よく倉庫で古い書物を読んでいて、希はその真似をするのが好きだったんです」
「なるほど」
俺は神妙に頷いてみせたが、その実、胸中は穏やかで無かった。
……互いの行動を把握していないのか。
それほど互いを尊重し合っていると言えば確かにその通りなのだろうが、彼女たちはまだ中学生だ。
ここまで離れてしまっていて良いのだろうか、そんな疑問は拭いきれない。
修練場へ着いた。
望が扉の鍵を開け、中へ入っていく。
俺も後に続き、望の木刀を借り、希と対峙した位置についた。
「望も何も使わないんだな」
「貴己さんたちのモットーと似たようなものです。徒手空拳で戦えるよう訓練されてますから」
言って、望は息を一つ吸うと、
「始めます」
左半身を前に、右手を腰の位置で留める、空手でいう溜めの姿勢を取った。
「どんとこい」
ルールは希との時と同じ。
危険と思われた場合は即座に中断、どちらかが降参を認めるか戦闘不能になったら終わり。
「……纏影膂破印、急々如律令!」
望が言葉を発すると、影が何処からともなく望の元へ集結し、その足元から無数の黒い蛇のように立ち昇った。
「呪印か……!」
呪印とは、いわば物理的な自己暗示のようなもの。
精神では無く、身体に細工を施し戦う、魔導の一種。
なるほど、黒の魔法を応用すれば影も操れるのか、などと悠長に関心している場合では無い。
恐らくあれに触れれば身体能力は極限まで低下して、雁字搦めにされ一瞬で戦闘不能になるだろう。
希とは違い、目に見えるだけマシ、と思いたいが、無数の黒蛇のような影が瀑布のように押し寄せてくるのかと思うと、それはそれで絶望感が半端では無い。
……どうしようか。
と、具体策を考えた時だった。
ガララ、と修練場の扉が開く、幾らか重い音が背中越しに響いた。
先ほど行かないというジェスチャーをしていたはずなのに、今更になってきたのか。
「果琳か? 今始めたばかりだから入るなら早く−−−−って、え?」
振り向いた先にいたのは、俯き、幽鬼の様に揺らめく希の姿だった。
一つ、解説をば。
急々如律令...中国漢代に、公文書の末尾に添えて、急々に律令のように行え、の意を示した語。 陰陽師の場合、魔を祓う際の呪文の結びとして唱える語。滑舌が悪いと言い難いです。