第九話 : あたし、なんにもできないけれど
「それじゃあ、いきますよぉ~」
三人で裏庭の壁を乗り越えて校舎に近づいたとたん、真歩ちゃんがあたしの腰を両手で挟んだ。そして「よいしょ」といって、あたしをロケットみたいに放り上げた。続けて白宮さんも投げ飛ばし、真歩ちゃんも大きくジャンプ。
三人そろってポンポンポンと、屋上のマットに転がった。さすがにちょっぴりこわかったけど、これで誰にも見つからずに忍びこめる。
「三人とも平気?」
屋上で見張りをしてもらっていた祈里ちゃんが近づいてきた。マットを敷いてくれたのも祈里ちゃんだ。
白宮さんは口をぽかんと開けて真歩ちゃんを見つめている。まあ、真歩ちゃんの力を初めて見たら驚いて当然だけど。
「えっとね、白宮さん。真歩ちゃんは力持ちの妖怪なの」
「そうなんでぇす。わたしは赤鬼さんなのですぅ~」
「よ……妖怪?」
「ついでいうと祈里ちゃんも人間じゃなくて、本の世界から抜け出してきた二次元人なの」
「そういうこと。でも、それはここだけの秘密」
「に……二次元人? それじゃあもしかして、寿々木さんも人間じゃないの?」
「……ごめん。あたしはなんにもできない、ふつうの人間です……」
どうしよう。なんだか自分がダメな子のような気がしてきた。
「と……とりあえず、教室にいこ。先生とお巡りさんは一階を見回りしているはずだから」
「で、でも、屋上には鍵がかかっていると思うけど」
「平気。電子ロックと警報は解除した」
祈里ちゃんは文字の世界の妖精だから、そういうことはとても得意だ。これで誰にも見つからずに三階の教室までいける――と思って階段を降りたら、四階の踊り場をすぎたところで急に祈里ちゃんが足を止めてささやいた。
「待って」
みんなで止まって耳を澄ますと、足音が聞こえる。見回りの先生が階段をのぼってきたのかもしれない。
「……あら? 誰かいるの?」
下の階から声が聞こえた。あの声は三沢先生だ。どうしよう。あたしたちの気配に気づいたらしい。
「そこに誰かいるの?」
ああ、本当にどうしよう。足音がどんどんのぼってくる。だけどいま逃げると足音でバレてしまう。横を見ると、白宮さんは口に手を当てて震えている。祈里ちゃんは淡々とした表情だ。真歩ちゃんはなぜかこぶしを握りしめている――って、え? まさか先生を殴って気絶させる気? そんなことしたら、先生死んじゃわない?
「にゃぁ~ん」
うわ! びっくりした! いきなり鳴き声が聞こえたので振り返ってみると、上の階に猫がいた。白い猫が月明かりの中に立っている。しかもいきなり階段を駆け下りて、そのまま三階に降りていく。
「あら? 猫ちゃん? どこから入ったの?」
「にゃぁ~ん」
「あらあら。人懐っこい猫ちゃんね。それじゃあ、先生と一緒にお外に行きましょうか」
手すりの陰からこっそりのぞくと、先生が猫を抱いて階段を降りていく。助かった。これで見つからずにすみそうだ。あたしたちはすぐに一年A組の教室に忍びこんだ。
「そういえば白宮さん。どうやってこの電子ロッカーを開けたの?」
「これを使ったの」
白宮さんはスマホと電子ロッカーを有線接続して、画面を見せてくれた。そこには何十個もの指紋が表示されている。
「インターネットに指紋の集め方が書いてあったから、その方法でみんなの指紋を集めてデジタルスキャンして、データ化したの。それで、これを指紋読み取り装置に入力すると――」
白宮さんが画面を軽くタップした。そのとたん、電子ロッカーの鍵が一斉に解除されて、小さな扉が次々に開いていく。すごい。あたしと同い年なのに、なんでこんなことができるんだろ――って驚くあたしをよそに、祈里ちゃんが自分の電子端末を取り出して白宮さんに手渡した。
「それじゃあ、これ」
「うん」
どうしよう。祈里ちゃんも真歩ちゃんもぜんぜん驚いていない。白宮さんもふつうの顔で端末にメッセージを書きこんでいる。もしかして、電子ロッカーの解除って、そんなに大したことじゃないのかな……?
「あの、倉隅さん。書き終わりました……」
「それじゃあ貸して」
端末を返してもらった祈里ちゃんが、いきなりものすごいスピードで画面をタップし始めた。早すぎて指がぼやけて見えるほどだ。しかも例の作業を、ほんの十秒ほどで終わらせてしまったらしい。
「終わった」
「あ、ありがとう……」
「それじゃあ、さっそく脱出ですぅ~」
祈里ちゃんが端末をロッカーに戻すと、白宮さんはスマホをタップしてロッカーの扉をすべて閉める。それからみんなで二階に降りて、廊下の端の窓を開けた。そこは中庭に面した窓で、真下には花壇が見える。
「ちょっといってくるですぅ~」
真歩ちゃんが一瞬の迷いもなく、さっさと窓から飛び降りた。
妖怪ってほんとにすごい。音も立てずに着地して、壁と花壇の間に隠してあった大きな脚立を軽々と取り出している。
あたしたちは地上に降りて脚立を隠し、裏庭へと走る。そしてやはり物置の陰に隠してあった脚立で裏庭の壁を乗り越え、学校から脱出した。
お疲れさま――。
え?
みんなで歩道を走り出したとたん、かすかな声が聞こえた気がした。
振り返ってみると、校舎の屋上に人影が見えたような気がする。しかもなぜか、フリル付きの白いドレスが頭に浮かんだ。
だけどたぶん、気のせいだ。
地球を守る魔法少女がこんなところにいるはずがないし、さっきの白猫だってただの猫に違いない。でも――。
「ありがと、美玖ちゃん」
いちおう、お礼ぐらいは言っておこう。
この世で一番たいせつなのは感謝の気持ちだって、兄さんもいっていたから。