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先生先輩

作者: CODEBLUE

帰宅ラッシュにはまだ早い夕暮れ時の空いたバスから降りると、まだすこし冷たい強めの風が、ついこの間しまい込んだマフラーのいなくなった首筋をなでていった。バスの車窓から見えた恩賜公園の桜も駅前通りの街路樹も枝先にすこしづつ若葉をつけ始める頃、高校生活1年目を終えた私は、駅前商店街を抜けていつものルートで塾へと向かった。駅から歩くこと5分ほど。塾の近くの交差点にあるコンビニで軽食と、逡巡してからチョコレートも買って、エレベーターで4階にあがる。受付で先生たちに挨拶して手近な空席ブースに入り、勉強用具を広げて落ち着く。午後3時過ぎ。まだ2時間近くある。

宿題の解答解説と格闘していると、後ろから手元のノートをのぞき込む気配を感じた。

「どう?出来た?」

(先生だ!)

思った瞬間、心臓が跳ねる。すぐに振り向くと、先生もノートから目を外して私の方を向いた。目線が合うと言いたかったことも訊きたいことも吹き飛んでしまう。今日もスーツが似合うなぁ…なんて、どうでもいいことはすぐに思い浮かぶのに。


私は、塾の先生に、片想いをしている。


「バツ多いな…。苦戦した?」

先生は苦笑しながら訊く。ん~まぁ…、とか言いながら、すこし焦ってノートを閉じ、教材やプリントをバサバサ言わせながら一束にまとめる。顔が火照るのがわかる。

(しまった~苦手範囲!バツばっかりじゃん!ハズい…)

「キリのいいとこでよかったのに。ブース、5番な」

はーい、と返事をしながら荷物をまとめて授業ブースに移動する。通りすがりにサンドイッチの包装を捨てて、小走りに先生の後を追う。

横並びに二人で座ると、かなり距離が近くなる。ブースは半個室で、しかもその距離で先生は私の方を向いて座るものだから、膝なんかはしょっちゅうぶつかりそうになる。

「おーい、聞いてた?」

「へ?なに?」

「…あのなぁ、授業中なんだからさ。宿題やってきたノート見せてって」

「あぁ、はい」

さっきしまったばかりのノートを鞄から出して渡す。先生はそれをパラパラめくって目を通していく。…正直、あまりマルはついていない。英語と数学を、ここで週に1回教えてもらいながらなんとか成績を維持している。先生の解説はわかりやすいし、わからないところは何度だって嫌な顔一つせずに教えてくれる。解説してもらった直後に問題が解けなくても、公式を忘れてしまっていても、怒られたことはない。あきれ顔や苦笑いをしながら、「仕方ないなぁ」ってもう一度教えてくれる。秋の終わりごろにこの塾に入ってすぐに受け持ってもらっているが、宿題をサボった一回以外、叱られたことがないくらい温厚で、根気強く勉強に付き合ってくれる。

「ん~…このへん、苦手?13番から全滅じゃん」

「苦手っていうか、このやり方であってると思ってやったら全部違った…って感じ、です」

「そうだな~。全滅はさすがに、寝ながらやったのかと思ったけど。よだれのあとついてるし?」

「違っ…それは水筒のお茶漏れしたやつ…。ていうかそれ前も言ったじゃん!」

恥ずかしさのあまりすこしムキになって否定したのがまた恥ずかしくなってノートを取り上げる。先生は悪戯っぽく笑いながら生徒資料になにかを書き込んで、今日の内容を説明し始めた。


この日の授業も数学と英語を半分づつ教えてもらって終わった。相変わらず優しくて面白くて、わかりやすい。先生自身は有名大学に通っているから、こんな内容は難なくこなしていたのだろうけれど、それを私のレベルまでかみ砕いて他人に教えられるのはすごいと思う。しかもその中にユーモアを交えて興味を引き付けるし、集中が切れる頃合いにちゃんと休憩がてら日常会話を挟み、くだらない話も細かいところまでしっかり覚えていてくれる。年が近いせいか、先生というよりもお兄ちゃんに教えてもらっているようで時々敬語を忘れてしまう。でもそれも特に気にしていないようで、ほかの男子生徒にもタメ口を利かれているのを見かけたことがある。

「生徒と仲良くて悪いことはないだろ。どっちかっていうと先生より先輩って感じだし」

思ったことをそのまま聞いてみたら、さらりと答えるからやはりあまり気にしていないようだ。内心、胸をなでおろす。

「あぁ、そういえばさ」

指導報告書から不意に目を上げると、こちらに向き直って、先生はこれまたあっさりと言った。

「年度末の区切りでバイトやめるから次回の指導で最後になるよ、って聞いてるよね?」


聞いてなかった。そんなのは、知らない。

突然に告げられたことに頭がついていかなくて、逆にいつも通りの調子で、そうなんですか!?と応えはしたもののそのあとは頭が真っ白になってしまって、辞める理由かなにかを先生がしゃべっているのもろくに聞いていなかった。授業後の自習も宿題もはかどらない。先生に会うまでの2時間はあっという間に過ぎたのに、なにも手につかないたったの1時間がとてつもなく、長い。

何十度目かの溜め息をついた時、先生が授業ブースから控え室へ向かうのが目に入った。というか、いつもそのタイミングを見逃さないように目を光らせている。今日は多分、普段よりだいぶあからさまだったと思うけれど。

先生と駅まで一緒に歩きたいから、荷物をいそいそとまとめる。今度は軽い深呼吸をひとつして、手鏡に向かって笑顔をつくる。前髪よし、メイク崩れなし、…涙目はどうしようもないからアクセント。先生が控え室から出てきたのを見届けてブースをあとにする。エレベーター前で追いついて、さっきの笑顔を引っ張り出す。

「あ、またタイミング被りましたね!」


夜はまだ寒い。週末真っ只中の駅前通りは一番人通りの多い時間で、飲み会終わりの社会人から家族連れまで様々な人でごった返している。特に今日は終業式もあったからか、学生が多くいつもより混んでいる。人波の隙間を縫いながら、先生の後について歩く。横には並べないし、話しかけても声は届かない。授業中は真横であんなに近くにいるのに、教室を出たとたんに先生を遠くに感じる。どうせ横にいても、緊張して大した話もできないクセに。

「駅だよね?一本裏入ろ」

振り返って言うと先生は、信号の先をコンビニの手前で曲がって、大通りの裏につながる路に入っていった。

「裏、住宅街なんですね。知らなかったです」

飲食店街の裏路と言うから排気口やゴミ袋の山を覚悟していたのに、予想に反して普通の一軒家が並ぶ街並みだ。人通りはほとんどなく、街灯は点々とあるものの、大通りに比べて暗い。

「ちょっと遠回りだけどね。一人の時は使うなよ?」

遠回り上等だ。むしろ大歓迎。一人の帰り道を心配してくれる些細なことにまで気持ちは舞い上がって、あくまで普段通りに「はーい」と言いながらも笑みがこぼれる。マフラーもないのに、冬の間に体に染みついた顔を埋める仕草でにやけ顔を隠す。薄暗くて助かった。

他愛もない話をしながら先生と横に並んで歩く。ちょうど肩の高さの目線から見上げる先生の笑顔は柔らかく、教室にいる時より暖かい気がする。細身の先生はまだコートを羽織って、両手をポケットに突っ込んでいる。歩いてるのもかっこいいなぁ…なんてバカみたいなことも、ふと頭をよぎる。もう、大好きなんだ。

人混みに阻まれていたから5分歩いてもまだ駅まですこしある。もうすこしだから、なんて言われてへこんでいるのを押し隠していると、横路から大学生くらいの2人組が出てきた。ぶつかりそうになりながら避けて、すみません、とつぶやく。

「もぉ、ゴウくん、ちゃんと歩いてよ!すみません~」

彼女らしき女性が先生と私にペコペコと会釈して通り過ぎていく。彼氏はほろ酔いらしく、女性の肩に腕を回してゴメンゴメンと適当に謝っていた。

「土曜日ともなると飲み勢が多いな~。大丈夫?」

「はい…」

「どうしたの?不機嫌じゃん」

なんでもないです、と言うと先生は気にしながらもそれ以上は訊かない。でもだいぶあからさまに私はヘコんでいる。先生は話題を変えて、微妙な間を埋めてくれた。私もすぐに笑顔を取り繕う。

さっきのカップルは、正直お似合いだったと思う。きっと同じ大学とか同じサークルとかそういう関係から始まったんだろうし、彼氏さんも彼女さんもそれなりの美形で服もオシャレで、しっかりしていた彼女さんのほうもすこしお酒を飲んでいて、頬が上気していた。

(でも私は…)

あらためて自分と先生を見比べてみる。先生は4つも年上の大学生でもう成人しているし、スーツにネクタイ姿でしっかりしているのに、私は未成年の高校生でまだ学校指定のブレザーを着たちんちくりんで、あと数時間もしたら家にいないと補導されるし、先生と一緒にお酒も飲めない。私じゃダメかもしれない。

「お、着いた」

笑顔の裏でネガティブ思考にはまっていると、駅についてしまった。先生といると時間はあっという間に過ぎる。ネガティブになってる場合じゃなかった、もったいなかったな。

「じゃあまた来週ね。次回最終回、乞うご期待!だから」

先生はまたいつもの笑顔で手を振って、改札の方へと歩いて行った。

1人になってからバスを待つ間、先生との会話を反芻して楽しい気分に持っていこうとしたのに、「次回最終回」の何気ない一言が思いのほか深く刺さっていて、バスに乗るなり泣いてしまった。


週に一回ということは月にだいたい四回会える。先生とはまだ、多くて二十回も会っていないはず。なのにどうして、こんなに惹かれるのだろう。

この一週間でだいぶ暖かくなった。風もむしろ心地いい。人々も分厚い上着はしまい込み、春らしい色の服装が行き交う駅前は一層にぎやかになったように見える。ちらほら半袖の人も見かけながら、私は5分ちょっとで塾へ行く。

この一週間で四回泣いた。仲のいい友達に電話して、忘れようと部活に打ち込んで、柄にもなく机に向かってみたりして、家族に不思議がられたりもした。だけどやっぱり、何か月もかけて育ってきた気持ちに一週間で答えなんて出なくて、とりあえず髪を切った。失恋したわけじゃないから長さは変えない。デパートに行って、すこし背伸びしたメイクを教えてもらって、帰りに紳士服売り場にも寄った。苦手なお父さんにもメールして、ちゃんと選んだプレゼントは喜んでもらえるだろうか。

2時間後に先生が来て、いつも通りの世間話と授業。最後だから、と言いつつ普段と変わらないのがすこしさみしいけれど、それが当たり前で、すこし落ち着く。

「じゃ、これで終わりな。おつかれさま!」

「先生こそ、おつかれさま!」

「ホント、疲れたわ~。手のかかる生徒で、なんてな」

変わらない笑顔も、今日で最後。だから私も、変わらない笑顔で。

「なにそれ~ヒドイなぁ!…あ、そうだ、これあげます!」

「おぉ、マジか」

ちょっと驚きながら紙袋を受け取る先生の表情にドキドキしつつ、反応を窺う。

「…あ、ネクタイ?」

「そうです。あと、手紙も」

「開けていい?」

頷くと、先生は丁寧に包み紙を開いた。

「おぉ~。センスいいね!俺、青好きなんだ」

ネクタイを取り出して嬉しそうに眺める先生を見ている今が、きっと私は一番嬉しい。青が好きなのだって知っていた。スマホケースもシャーペンも、青系ですもんね。

「先生に一番似合う色だと思って。絶対着けてね?」

「もちろん。大事にするよ。ありがとう」

「手紙は帰ってから読んでください。なんか恥ずかしいから…」

「ん、わかった。今日の報告書、ちゃんとメッセージ書くから読めよ?」

「いっつもちゃんと読んでますっ!」

普段通りに、授業は終わる。先生に会えるのも、あとすこしの間だけ。


「えぇ~!辞めちゃうんですか!?」

自習ブースで荷物をまとめ終わって待っていると、控え室から大きな声がした。

「声でけぇよ。生徒いるんだから」

控え室から出てきた先生の後ろにはもう1人、スーツ姿の女性がいた。先生の後輩のスタッフの人だ。ときどき土曜日もいるのは知っていたが、時間帯が同じになったので一緒に帰るようだ。

「じゃあ最後に飲みに行きませんか?ほかの先生も途中参加で、お別れ会しましょうよ」

「別にいいって…みんな忙しいだろうし」

「もう連絡流しちゃいました。あ、神田先生が21時からくるそうです!」

「アイツ…暇人かよ…」

2人はお互いに何か言い合いながら、エレベーター前に消えていった。私はそれを他人事のように眺めながら、椅子から立ち上がりさえしなかった。

(あ…私の入る隙間が、ないな…)

私には絶対してくれない言葉遣い。私とはまだ絶対に行けない飲み会の約束。それはやっぱり、年の差のせいなんだろうか。先生にとって私は「生徒」であって、しかもその中の一人でしかないのかもしれない。先生から見れば私は世間知らずの子供なのかもしれない。教室では講師と生徒、外では大人と子供の壁に阻まれて、私は身動ぎすらできない。大人になれば4歳差なんて取るに足らない。でも私たちにとっては、入学した時にはもう卒業している先輩なんて、一生知り合えないのと同じくらいの埋めようのない距離がある。そのめまいがするくらいの距離の先に、先生はいるんだ。先に生まれた人が先生、なんて冗談、いまはもう笑えない。


ここにいても仕方がないし、なにもせずにはいられなくて席を立った。荷物を持って、いつもの癖でエレベーター前に先生の姿を探すけれど、エレベーターはもう1階に着いていた。いつものルートを逆戻りして大通りに出る。相変わらずすごい人だが、一人ならある程度はすり抜けられる。急がないと、もう会えない気がした。いや、会えないのだ。今日、いま、この帰り道で見つけなければ、「先生」でなくなった先生には、もう二度と…。


見つけた。コンビニの手前のあの信号の交差点で、赤信号に捕まって立ち止まっている。相変わらず、大学生の二人は楽しそうに笑い合っていて、私の脚は自然と止まった。いまここで駆け出しても、4年の月日は埋まらない。

信号が青になった。先生たちは人波に押し出されるように横断歩道を渡り始めた。私も人混みに押されるがままに交差点の方へと流されていく。先生の背中が遠く紛れて、見えなくなっていく。私はまだ信号のこっち側で、渡り切ってしまった先生たちを見失う。やっと私が横断歩道に差し掛かった時には人々が歩みを止めはじめて、後ろから押してくる力も大分弱まっていた。

(やっぱり、ダメだったかぁ…)

そう思って、明るく努めようとして、笑えなかった。涙が溢れた。やっぱりダメなんて、そんなのやっぱりダメだった。人目があっても声を上げて泣きたくなるほど、私は先生が好きだった。誰に見られても構わなかったし自分では止められなかったから、うつむいて頑張って黙って、ただ涙をアスファルトに落としていた。視界が滲んで、駅前通りの光がキラキラしていた。

と、突然景色が鮮明になった。瞳を覆っていた涙が、ぶつかられた拍子に全部こぼれたのだった。脇をスーツ姿の男性が駆け抜けていく。一歩前によろけながら顔を上げると、歩行者信号は青が点滅していた。まだ渡れるんだ、とぼんやり思う。そのまま落としかけた視線の先で数人のグループがコンビニに入った。その先に先生が、いた。本当に一瞬だけ開いた空間に、辛うじて見えた。まだ、渡れるんだ。

走った。ほんの十数歩だった。でも多分、私の人生の中で一番長い距離を、走った。遠くに見えていた先生の背中に両手で触れる。勢いそのままに突っ込んで、軽く突き飛ばす。先生はうぉ、と驚いた様子で振り返って、私の顔を見るとすぐに、いつものように笑った。

「なんだよ、ビックリしたな」

「へへ、よかった、追いつけた」


先生と私は薄暗い住宅街を並んで歩いた。先生もコートはしまったようで、今日はスーツのままだ。

「後輩さんは?」

「先に行ったよ。最寄りのJRの駅の方が便利だからって店探しに。俺の送別会やるんだってさ」

「教室でも聞こえてましたよ。先生は?」

「ん?あぁ、コンビニでお金下ろしてたんだ。急な出費だよ~」

イタイイタイ、と先生はいかにもな困った顔をして肩をすくめた。私はそれをクスクス笑う。

「よかったじゃん、いろんな人に惜しまれてさ」

そういえば私の次の授業の子にもなにやら紙袋でもらっていた。きっと誰に対しても、優しくて面白くて頼れる先生なんだろう。

「まぁね。でも受け持った生徒に言われるのが一番うれしいよ」

「え、言ってほしいわけ?」

「お前は別にいいよ」

ツンデレかよ~、とツッコむと先生は声を出して軽く笑ったあと、でも、と続けた。

「ほんとにいいんだ。プレゼントと手紙までくれて、もう充分」

そう言う先生の本当に幸せそうな微笑みを何気なく直視した私は、多分耳まで赤くなって、照れ隠しでうつむく。先生はそんな私に、ありがとな、と追い打ちをかけてから話題を変えた。先生とのいつもと変わらない会話は、先生のいない明日からをひとときだけ霞ませてくれた。

「…やっぱり本当に、辞めちゃうんですか?」

前回歩いて、駅までもうすこしの場所は覚えていたから、そこに差し掛かった時に訊いてしまった。

「そうだね」

「そっか…」

それから無言のまま歩いて、とうとう駅前に出る路の前まで来てしまった。私は思わず立ち止まる。先生は2、3歩進んでから、振り返った。

「どうした?」

「どうしたもこうしたも…」

消え入りそうな声で絞り出した。先生が歩み寄ってきた。先生の靴が視界に入って、目の前にいるのがわかる。

先生がいないのなんて嫌だ。先生がいないと私は2時間前に塾に行ったりしないし、宿題だって忘れるし、成績もきっと下がるし、絶対寂しい。先生がいればいつもの無駄話と面白おかしくアレンジした英語の和訳で笑っていられるし、勉強も頑張るし、私は幸せだ。先生が笑ってる顔も、ちょっと怒ってる顔も、問題を解説しながら流し目でちらっと腕時計を見る仕草も、丸付けをする手の動きも、鼻の頭をちょっと掻く癖も、まだまだ近くで見ていたい。ちゃんとそう伝えたい。どうしても言葉で直接言いたくて、手紙には一番大事なことは書いてない。だから、いま、ここで。

そして、顔を上げた。

…なのに、言葉は出ない。

先生は困ったようにちょっと首をかしげて立っていた。その胸元には、さっき私があげた青のネクタイが、きちっと結んであった。正面から向かい合って初めて気づいた。控え室で締め替えてくれたようだった。

「…あぁ、これ?嬉しくて、着けた。似合ってる?」

視線に気づいた先生がすこし照れくさそうに言って胸を張った。私はなにも言えなくて、ただ、うんうんと何度も頷いた。

「いま、気づきました…」

やっとこれだけ言えた。一番似合う色のネクタイを着けた先生を焼き付けるように見つめていた。

「俺もいま気づいたんだけどさ…」

先生は私をまっすぐみつめて言う。

「今日のメイク、普段より綺麗だな。髪も…切った、かな?」

「ぁあ…これ……似合って、ますか?」

掠れた声を振り絞るように言った。最後の方は聞こえなかったと思う。

「似合ってる。だから、泣いたらもったいないよ」


バスの車窓から見える恩賜公園の桜が咲いた。私は高校2年になった。塾も続けている。新しい担当の先生は女の人で、すこし厳しくなったけれど、ちゃんと自主的に2時間前には着いて、予習するようにしている。この先生は甘いもの好きじゃないから、これからはコンビニでチョコレートは買わない。自分の分だけ軽食を買ったら、エレベーターで4階へ。受け付けで挨拶して、空いている席で勉強用具を広げる。窓際の席はポカポカして、このまま昼寝してしまいたくなるような午後3時。

私は先生が、いや、もう先生ではないから……先生先輩が、好き。

もう会うことはできない。並んで歩くことも、問題を解説してもらうことも、無駄話も、なにもかも、先生が先生でなくなったいまはもう、できない。時々思い出そうとする先生の声は、あんなに聞いていたのにもうおぼろげで。先生に教えてもらった公式もすこしあやふやで。それなのに先生のいつもの笑った顔だけは、いまも鮮やかに映すことができる。数ヶ月で芽吹いた恋は、数か月後には忘れているかもしれない。それでも、きっとその時までは、


私は、塾の先生だった人に、片想いをしている。


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