8 腕
小金井樹は、夢を見ていた。
人を追いかけている。とても大切な人だ。
どうしても伝えたいことがあって、どうしてももう一度会いたくて、見えなくなりそうなほどに小さくなった背中を必死に追いかけている。
「―――――――――」
人影が振り向いたような気がした。
目を開くと、明るい光と真っ白な天井が飛び込んでくる。目覚めたばかりなのに、100メートル全力でダッシュした後のように心臓が早鐘を打っていた。
もそもそと起き上って辺りを見渡す。
どうやら、樹は病室に寝かされていたらしかった。
清潔感のある横長の部屋に、樹が使っている物も含めて8台のベッドが並んでいる。仕切りのカーテンはすべて開けられていて、樹以外の病人は居ないようだった。
(……あれ?俺、なんで寝てんの?)
状況を飲み込めずにぼんやりしていると、ガチャリと奥の扉が開いた。
「おっ、やっと起きたか」
無精ひげに、無計画に伸ばされた黒い髪。ひょろりと高い背に白衣を適当に羽織った男が、欠伸交じりに入ってくる。
その男は、呆然としている樹にずかずかと歩み寄って額に手を当てた。
「熱はねェな、うん」
独り勝手に頷いて手を放し、脇の机からコップと水差しを取って水をくみ、樹に手渡す。
飲め、と言われて素直に口をつけると、冷たい水が喉を滑り落ちて行った。
水を飲んで少しは落ち着いたものの、まだ状況がよくわからない。ここで目覚める前の記憶に靄がかかっているようで、うまく思い出すことができないのだ。
「…あの」
「もっと水か?」
「や、違くて…」
なんと言えばいいかわからずにおろおろしていると、男がそういえば、と思い出したように手を打った。
「傷の具合はどうだ?もう治ってるとは思うが」
「…傷?」
「そ、肩と腹」
「…え?」
傷。傷なんて負ったっけか。
確か、いつも通り市内のパトロールに出て、それで…。
突然、頭の中に記憶がフラッシュバックした。
「――っ、あ」
白髪の迷子の人にあったこと。彼がリッパと言う名前であること。2人で廃工場の前を通ったこと。そこで感じた「嫌な予感」と、中で起こったすべてのこと。ぎらりと光る歯、赤い色、腕の断面、恐怖と後悔、三本足の女神と、炎の塊。
樹の手からコップが滑り落ちた。コップは水をこぼしながらベットの上を転がって床に落下し、粉々に砕けて大きな音を立てる。
「おい!?どうし――」
「リッパさんはっ!?」
ぎょっとして樹に手を伸ばした男に、樹は我を忘れて縋りついた。あの瞳と欠けた体がまざまざと思い出されて、自然と呼吸が速くなる。
「リッパさんはどこですか!?あの人はっ、腕がっ、悪鬼がっ!!」
「落ち着けって!リッパなら執務室に居る!あいつは――」
その先の言葉は耳に入ってこなかった。執務室と言う単語だけが、頭の中でリピートされてわんわんと唸っている。
布団をはねのけ、樹はベッドから飛び降りた。
立った拍子にコップの破片を踏んで足裏に痛みが走ったが、そんなこと今はどうでもいい。
男の制止も聞かず、手前の扉を勢いよく開いて走り出す。
(俺は助かった?でもリッパさんは?どうしよう、俺の所為だ!俺の所為で腕が…)
心臓が爆発しそうなほどにばくばくと脈打っていた。途中何人かとぶつかりそうになりながら、必死でそこら中を走り回る。
ただ、リッパの安否だけが脳内を埋め尽くして、他のことは心底どうでもよかった。
息ができない。足の筋肉が震える。
でも止まれない。走るのを止められない。
「あっ、たっ!」
建物中を走り回った果てに、樹はとうとう目的の部屋を見つけた。
上品なあつらえの樫の扉に金の「執務室」と言う文字が箔押しされている。
ノブを回すのもそこそこに、樹はその中に飛び込んだ。
「リッパさんっ!!」
視界の中で、純白の髪がひるがえる。あの緑の瞳が、驚きで大きく見開かれる。
「えっ、樹く――」
勢い余って床に膝をついた樹は、その姿を見て、驚愕に息を止めた。