7 執務室の冷酷
夕日が差し込む横浜支部の執務室にて、二人の男が向かい合っていた。片方は飴色の木で作られたデスクに座り、もう一方はその前に直立不動で立っている。
「神田上等」
座っている方の男が静かに言った。
色素の薄い髪にいつも穏やかに細められている瞳、柔らかな微笑をいつも浮かべている彼が、横浜支部支部長の唐草唐理特等従騎士。27歳と言う若さで支部長の座に就き、もう3年も東日本の従騎士たちの頂点に立っている。
そして、日本随一の天才と呼び声高い彼と対峙して真っ青になっている丸顔の中年の男は、日々樹たち研修生を虐げている神田上等だった。
「悪鬼討伐報告の電話に怒鳴り散らした挙句、救援要請を聞きもせずに一方的に切ったとお聞きしましたが」
変わらず微笑んでいる唐理だが、その言葉には棘が見え隠れしている。
「おかげで研修生が一人、神力適合率検査も済ませずに上層上位神の加護を受けてしまいました。彼はまだ昏睡中だそうです。どうなさいますか?」
神田は答えることができなかった。緊張で喉がからからに乾いていたのだ。
だが、唐理は返答など期待していないとでもいうように息を吐いた。
「降格、及び守護の剥奪も考えました」
神田がひゅっと息をのむ。
その光景を静かな目で見つめてから、唐理は一呼吸おいて話を続けた。
「ですが、あなたの守護神・ケンタウロスとその神力はなかなかに需要がありますので、それらはやめておくことといたします」
神田は、それを聞いてあからさまに肩の力を抜いた。丸顔には脂汗が浮かんでいる。地位への執着も一緒に。
神田の安堵した表情を見て、唐理は優しく微笑んだ。
「三番部隊隊長の降格で手を打つことにしましょう。いいですね?」
神田の顔から一切の血の気が失せた。金魚みたいに口をパクパクさせ、理解できないといった風に唐理の顔を見つめている。
だが、そんな彼の姿を気にも留めず、唐理は左手で執務室のドアを指し示した。
「どうぞ、ご退出ください」
気配が冷たい。目が笑っていない。
何も言うことができず、神田は呆然としたまま唐理に背を向けた。ドアに向かってよろよろとおぼつかない足取りで歩き、何度かテーブルやソファーにぶつかる。そうしてやっとドアにたどり着き、神田上等は執務室から出て行った。
しばらく神田上等が出て行った後のドアを見つめて、唐理は疲れたように息を吐き出した。
神田幸久と言う人物は、正直に言って人の上に立つ器ではない。部下を見捨てるような上司に、誰が付いてなど行くものか。特にこのような危険な職場では、ダメな上司はすぐに見限られる。
それに、実際のところ彼は戦闘において、他の部隊長に大きく劣る。
それでも三番部隊長の座に堂々と座り続けていたのは、彼が単に先代支部長時代からの古株であったからだ。
だが、それも今日限りである。
元々、唐理も神田上等を長い間のさばらせておく気など毛頭なかった。彼が昇進して帰国したら、何かしらの理由をつけて隊長の座から彼を引きずり下ろそうとしていたのだから。
つかの間の休息を取ろうと、唐理は椅子の背もたれに体を預けて目を閉じた。
だが、数秒もたたないうちにドアは無遠慮に開かれる。
入ってきたのは、長く黒いくせ毛を一つに束ねた男だった。すらりと背が高く、その眼は切れ長で鋭い。
彼の名前は、有栖川百舌。かの名門・有栖川一族の末弟であり、横浜支部の副支部長である。
そして彼は、唐理の十年来の相棒でもあった。
部屋に入ってくるなり、百舌は呆れたような視線を唐理に向ける。
「おい。何だ、あれ。魂抜けちまってたぞ」
あれ、とは神田上等のことだ。放心したまま帰ったのだろう。
「さあ、どうしたのでしょうね」
「どうせ、お前がなんか言ったんだろ?一体、なんて言ったらああなんだよ」
「三番部隊長降格、とだけ」
「それはきっついな。特にあれには」
ま、当然の報いだけど、と付け加えて、百舌はデスクに近づいた。そして、手に持っていた一束の書類を唐理に差し出す。
「例の研修生と廃工場の調査報告書」
書類の一枚目には、まだ幼さの残る少年の写真が貼られていた。
「では、彼がユグドラジルの加護を受けたという研修生ですか」
「そうだ」
「それで、容体は?」
「まだ昏睡中。ウキ先生の話だと、起きるまでにまだ時間がかかるかもしれねえって」
頭上に百舌の声を聞きながら、唐理は渡された書類をめくった。
「…あの工場ですか。確か、労働条件が酷いと噂がありましたよね」
「その通り。出没した悪鬼は、そこの工場長への恨みで形成されてた。構成・純憎悪、形状・コウモリ、2メートル級、推定喰数・5人、以上からレベルはCだ。本当、研修生が死ななかったのは奇跡だったぜ」
「そうですね」
書類を速読し終え、もう一度一枚目に目を戻す。
と、唐理の視線が研修生の名前の欄で止まった。
「…名前」
「あ?」
「この研修生の名前……小金井樹?」
その名を聞いた瞬間、百舌が目を見開く。
「小金井だぁ?」
唐理は、百舌に一枚目の書類を突き出した。百舌は眉根を寄せ、名前と写真を交互に見比べる。
「…まじか。小金井っつーと、“養老神域事件”の小金井梢か?」
百舌がぽつりと呟いた。
「よく見りゃ似てんな。どういうことだ?」
「…さあ」
顔を見合わせ、二人はもう一度書類に目を落とした。写真の中の少年は、緊張気味にこちらを見返している。
「とにかく、話は彼が目覚めてからですね」
そう言って、唐理は書類を見たまま目を細めた。