6 赤
「樹くん、大丈夫?」
すっかり呆けてしまっている樹に、リッパが声をかける。
と同時に、ガッシャァァン!!と派手な音を立ててバリケードが破壊された。
三人が一斉にドアの方を見る。
崩れて折り重なっている長机に、樹の足もと近くまで吹き飛ばされているドアノブ。ひどくひしゃげたドアとガラスの欠片。がたがたに歪んだ扉の枠から侵入してくる、漆黒と真紅のおぞましい悪鬼。
ひゅっ、と誰かが喉を鳴らす音が聞こえた。
(違う。誰かじゃない、俺だ)
そう思った瞬間、冷や汗が全身からどっと噴き出した。
それでもなんとか、震える手で護杖を掴む。
「樹くん!」
声のする方を向くと、リッパが心なしか青い顔をしていた。頑張れ!と残っている方の手で親指を立てられたが、どうすればいいのか全くわからない。
『ちょっと少年、護杖の変形くらいできるわよね』
できるわけがないだろう。
一度だけ、神田上等がやっているのは見たことがある。銀色の護杖がみるみるまに、荒々しい削りの長弓に変わるのだ。
だが、見たことがあるからと言って、じゃあ俺もやりますなんてできるわけがない。
『…できないの?』
樹の表情から察したのか、ユグドラジルが落胆したようにため息をついた。
そして彼女は、指先だけでそっと樹が構えている護杖に触れる。
『仕方ないわね。今だけ手伝ってあげるわ』
瞬間、体中の細胞が震えた。先ほどのうねりを、無理に体の奥底から引き出されるような感覚。自分の意思に反して体を動かされるというのは、なかなかに気持ち悪いことだった。
しかし、体はじんわりと熱を持ち始め、熱は樹の手のひらに集まり、手の中の護杖が淡く光って形を変える。波打つように変形し、どんどん大きくなり、手にずっしりと重みがかかり、そして……。
ガシャッ、と音がした。護杖の先端が床にぶつかった音だった。
銀色の杖はそこには無くて、あるのは三角錐のような形をした巨大な槍。薄緑色の金属でできた槍が、樹の手の中でピカピカと光沢を放っている。
「…えっ?あっ?」
喉に何かが詰まったように、まともな声が出なかった。驚きすぎて息が止まり、口の中をさらしたまま固まる。
奇跡、と言う単語が頭に浮かんだ。
今までは遠くで見ているだけだったその奇跡が、悪鬼を屠るために焦がれた力が、今、自分の手の中にある。
『少年っ!!』
ユグドラジルの鋭い声が耳に突き刺さった。
我に返って悪鬼を見ると、凶悪な口をがばりと開けて前かがみになっている。咄嗟に横に避けると、脇を黒い風が駆け抜けて壁に激突する。
「っこれ、重っ!」
ガシャンッ、とまた先端が床にぶつかった。持ち上げられないわけではないが、振り回すのは少し無理がある。せっかく武器らしい武器が手に入ったのに、これではまったく役に立たない。
手に余る大槍を抱えてもたつく樹を狙って、悪鬼がまた大口を開けた。
重いせいで回避が遅れ、避けはできるがかなり危ない。変に振り回すと肩が抜けそうで、ろくに反撃もできない。
このままじゃ埒が明かない。疲れきったところを一口で喰われるのがおちだ。
何度目になるかわからない突進を間一髪で避け、樹は助けを求めてリッパを見た。
―――後から思えば、それがよくなかったのかもしれない。
悪鬼が、首を回してリッパを見た。
コウモリの体に不釣り合いな歯をこすり合わせ、シャシャシャッ、と気味悪く笑う。
樹の脳裏に、つい先ほどの記憶がひらめいた。
悪鬼の黒に呑まれる右腕に、沈むリッパの体、噴き出す鮮血と生々しい腕の断面。
冷水を浴びせられたかのように頭が冷たくなる。
また、またああなると思った瞬間、心の底から恐怖が湧き上がった。
死んでいいわけがない。喰い殺されていいわけがない。
こんな得体のしれない化け物に。自分なんかの所為で。
冷たく痺れたままの頭は機能しなかった。ただ、体が勝手に動く。冷え切った体の中で、心臓だけが脈打って妙に熱い。
衝動に任せて、樹は悪鬼に向かって行った。
重さも忘れて槍を振り上げ、コウモリの翼のあたりに思い切り突き刺す。
分厚いなめし皮を貫いたような手応えとともに、酷く耳障りな悲鳴が鼓膜に突き刺さった。
視界いっぱいに広がる黒と、突き刺さって輝く金属的な薄緑。
やった、と思った瞬間、足が地面から離れた。
何を思う間もなく、背中と後頭部が壁に思い切りぶつかった。
目の奥でチカチカと星が瞬き、喉の奥から熱い塊がせりあがってくる。
「――がはっ!」
息の詰まるような痛みを感じてようやく、自分は悪鬼に吹き飛ばされたのだと気付いた。
「樹くん!」
『少年!?』
二人の声がやけに遠くに聞こえる。霞がかったような視界の中で、翼に槍が刺さったままの悪鬼がリッパに近づいていくのが見えた。
床に倒れたまま、震える手を伸ばす。
「…ろ」
殺さないでくれ。
喰わないでくれ。
その人は、何も悪くないんだ。
「…めろ…」
せっかく力を貰っても、俺は誰一人助けられないじゃないか。
死ぬとこなんてもう、見たくないのに。
「…っ、」
樹の手が、強く地面を叩いた。
「やめろっ!!」
悲鳴のような、怒声のような、嘆願のような叫びが空気を震わせる。
刹那、樹の中で熱がはじけた。
部屋全体が揺れ、悪鬼の周りの床がぼこりと膨らむ。
次の瞬間、床を突き破って緑が飛び出した。
蔦だ。
子供の胴体ほどの太さを持つ蔦が、生き物のようにうねって悪鬼に絡みつき、ギリギリと締め付けている。蔦は噴水のようにあとからあとから飛び出し、悪鬼の動きを止めてしまった。
視界に、悪鬼がもがいているのが映る。あの耳障りな声をまき散らし、自分を締め付けている物から逃れようと身をよじっている悪鬼は、首をめぐらせて蔦に噛みついた。
蔦の一本がぶちっ、と音を立てる。続いてぶちっ、ぶちぶちっと焦燥をかき鳴らすような音が響き、樹の顔から血の気が引いた。
駄目だ。殺されてしまう。
「待っ―――」
樹の叫び声は、耳が吹き飛ぶような轟音にかき消された。
赤い光が、空を裂いて目の前を通り過ぎ、悪鬼を飲み込んで爆発する。肌を焦がすような熱風が波のように押し寄せ、樹は思わず目を閉じた。その直後、この世のものとは思えない悲鳴が耳に突き刺さった。
人間の断末魔のような、獣の咆哮のような、長い、長い悲鳴。この世の醜悪なものが凝縮されたような、耳を塞ぎたくなるような悲鳴。
静寂が訪れてそっと目を開けると、部屋は赤い光に包まれていた。
悪鬼の影は無く、代わりに蔦が炎を上げて燃えている。飛び散る火の粉を見て初めて、先ほどの赤い光が炎の塊だったと気付いた。
「…リッパ、さ……」
必死になって体を起こそうともがく。
そのとき、タン、と音を立てて樹の目の前に誰かの足が立った。
「――――――――?」
何か言われている。だが、先ほどの爆音の所為か耳がほとんど聞こえない。
足しか見えていないその人を振り仰ぐと、真っ赤な長髪がひるがえるのが目に入った。
(…助かった)
なぜだか、そう確信する。
そう思った瞬間、ぐらっ、と世界が傾いた。
(あ…)
急速に視界が狭まり、深い穴に落ちていくように暗くなっていく。体から力が抜けて、意識が朦朧となる。
薄れゆく意識の中で、樹は確かにリッパの声を聞いた。
はっきりした声で、いつきくん、と。