5 三本足の女神
「誰でもいいから、来てくれない?」
軽い言葉で、まるで旧友に頼みごとをするかのように、彼は空に向かって言った。もちろんそこには誰もいない。
さすがの樹も、ぽかんと口を開けたまま固まってしまっていた。
とうとう頭がおかしくなってしまったのか。なぜか満足げなリッパを見て、心の底から不安になる。
刹那、全身が泡立った。
全身の水分が沸騰しているようで、だがまったく熱くない。体を奥底から洗われているようでくすぐったくもあり、また訳のわからない感情に恐怖を覚える。だが何故か、嫌な気分にはならない。
目を見開いてリッパを見ると、彼の明るい緑と目が合った。
彼は、驚きに満ちた樹の表情が面白くてたまらないというように笑う。
ふわり、と薄暗い廃工場に淡い何かが降り立った。
淡いだけの光だったそれは、床に触れた瞬間に形を変える。すらりと細い手が伸び、白い布の衣服がひるがえり、幼げな美しい顔に若葉色の長い髪。
そして、服の裾から伸びる足が三本。
形の良い唇を不機嫌そうに結んで、その少女は廃工場に降り立った。
「やあ、久しぶり。まさかキミが来てくれるとはね」
当然のように、リッパが少女に話しかける。
樹は、声を出すことすらもできずにいた。
突然淡い光が現れて、そしてそれが三本足の少女に変わった。相当なショックだ。何よりもショックなのは、その少女をリッパが呼んだという事実だ。
『呼んでおいて何を言っているのかしら?』
不機嫌そうに少女が応じる。長い睫毛に縁どられた目でリッパを睨んだ後、彼女は樹に視線を向けた。
きれいな顔だ。だがあまり嬉しくない。よくわからない神々しいものに見つめられて平気でいられるほど、樹の心臓は頑丈じゃないしそこまでマヌケでもない。
息をするのも忘れたまま、樹はただ少女を見つめることしかできなかった。
「確かに誰でもいいって言ったけどさ、キミで大丈夫なの?」
『そこのマヌケ面の子供でしょう。器はなかなかよ』
「へえ、よかったね!」
得体のしれない少女にマヌケ面呼ばわりされた。だが、そんなことはどうでもよかった。
(なんでリッパさん普通に喋ってんの!?)
「あ、の…えっ、その人、なっ、」
その人なんですか、と言ったつもりだったのだが、口が上手く動いてくれない。樹の残念な脳みそはキャパオーバー寸前らしかった。
動揺しすぎて挙動不審になっている樹に、リッパが笑いかける。
「紹介するね。彼女は女神・ユグドラジル」
二人の間に、沈黙が下りた。
「…めがみ?」
「そう、女神」
もう、樹は何も言えなかった。
少女が女神だというのには妙に納得したが、なら何でリッパは女神を呼べる。もう、何が何だかわからなくなってきた。
そんな樹の様子もお構いなしに、リッパは話を進める。
「ボクはこの通り動けないし、騎士団の助けも望めそうにない。と言うわけで、キミにどうにかしてもらおうと思ってね。てっとり早く、ユグドラジルの守護を受けてほしいんだけど」
いいよね、と締めくくったリッパの顔を、樹はまじまじと見つめた。それから、女神・ユグドラジルの顔を見る。
本気ですか、と言おうとして、声が出なかった。
エデン神盟騎士団の従騎士は、神の力を借りて悪鬼を討伐する。具体的にどうするかと言うと、神に“守護”か“洗礼”を貰うのだ。
守護とは、神の力をその身に降ろすことである。
いわば、神力と言う水を神の器から自分の器に移し替えてもらうようなことで、従騎士が悪鬼と戦う手段として重宝されているものだ。炎神の守護なら炎を、風神の守護なら風を自在に操り、護杖を武器に変化させて悪鬼を討伐する。だが、水の量に自分の器が見合っていなければ、水は器から溢れ、精神や体を蝕む。
そこで、器の小さい者にも神の力が使えるようにと編み出された方法が洗礼。
神かその守護を受けた者から力の一部を受け取るというもので、人間側の負担もぐっと減る。ただし、力の一部と言うだけあって守護と比べると圧倒的な差がある。とは言っても、神に見合った器を持つ物はほんの一握りだから、従騎士のほとんどが受けるのは洗礼だ。
けれども今、リッパは「守護」と口にしなかっただろうか。
「えっ、あっ、あのっ、」
「大丈夫だよ。たぶんね」
「たぶん!?」
「大丈夫だって!」
全然大丈夫な感じがしない。だって、リッパの背後でユグドラジルが思いきり眉をひそめてるじゃないか。
「よし!じゃあよろしく、ユグドラジル」
樹の抗議など耳にも入れず、リッパがユグドラジルに向かってほほ笑んだ。
ユグドラジルが樹に近づいてくる。樹はただ、足に根が生えたように突っ立っていることしかできない。
『手を出しなさい』
不思議と体が従った。
言われるがままに手を差し出すと、彼女の細い手が樹の指先に触れた。重さも触れた感触も全くないが、何故か指先がじわりと温かくなる。
三本足の女神が、樹に問いかけた。
『私の力を受け取る覚悟が、あなたにはあるかしら?』
一瞬、樹はすべてを忘れてユグドラジルに魅入った。
悪鬼がすぐそこまで迫っていることも、リッパの片腕がないことも、自分の服が血に染まっていることも、自分のすべき決断も、すべてがすっぽりと頭から抜け落ちる。
「…はい」
無意識に口が動いていた。リッパとユグドラジルの口角が同時に上がるのが見える。
瞬間、何かが激流のごとく樹の体に流れ込んだ。
全身の毛が逆立ち、頭のてっぺんからつま先まで熱が駆け巡る。指先から伝わる大きなうねりが、体の中を暴れまわって、皮膚を突き破って奔流のようなものが溢れそうだった。足から体が地面に繋がったかのようで、大地の拍動を確かに感じる。それと同時に、心の底から湧きあがる怖いくらいの歓喜。うれしい。思い切り息を吸い込んで、この心にに溢れる喜びを叫びに変えたい。湧き上がる感情が抑えられなくて、訳の分からないまま自我が飲み込まれるような感覚。ほとばしる歓喜と熱の中で、どうにか意識を保とうと唇を噛む。
やがてその激流のような何かは、樹の体に染み込むように沈静していった。
「――っ、はっ、」
息を吐き出して、ようやく自分が息を止めていたことを知る。
存在そのものを翻弄されるようなあのうねりは消え去り、残ったのはわずかな歓喜と恐怖の残滓だけだった。
すべてが夢の中の出来事だったかのように、頭の芯がぼーっとする。
だが確かに、樹の目の前には指先に触れているユグドラジルが居て、心臓は破裂しそうなほどにばくばくと脈打っていた。