2 それはまるで悪夢のような
とりあえず、大通りから外れて先ほどのような人気の少ない道に入った。この人と一緒に人の群れの中を歩くのはちょっと……いや、かなり勇気がいる。例えるなら、警備員がピエロを連れて歩いているようなものだ。
どうやら彼は、騎士団の横浜支部に用があるらしい。今朝イギリスから帰国して、のままずっと道に迷っている、と言うことまでは聞いた。今はもう昼過ぎだから、彼は随分と長い間道に迷っていたということになる。
タクシーにでも乗ればいいのにと思ったが、それは口に出さないことにした。
「いやあ、よかったよ!まさか騎士団のヒトに会えるなんてね!」
「はあ、そうですか」
「大都会の中で遭難するところだったよ。キミは三等従騎士かい?それともまだ研修生かな。名前は?」
ずいぶんとおしゃべりな人だ。テンションがちょっと怖い。
「小金井樹です。研修生です」
「樹くんか!ボクはリッパ、よろしくね!」
唐突に告げられた名前に、樹は驚いてつんのめるように立ち止まった。え?と言う顔をする彼――――リッパの顔をまじまじと見つめる。
「リッパさん――――ですか」
「うん」
「ご職業は作家ですか。漫画家ですか」
「いや、違うけど」
「……そうですか」
それだけ言って、樹はまた歩き出した。後ろから、不思議そうな顔をしたリッパがついてくる。
芸名か。芸名なのか。いや、むしろそうであってほしい。本名だったら親の精神状態を心配するところだ。漢字はどうやって当てるんだろう。ひらがなだろうか。
そんなことを頭いっぱいに考えながら、見慣れた路地をすいすいと進んでいく。住み慣れた横浜の街を、慣れた足取りでさっさと歩く。
「ちょ、待って!」
気付かない内に早足になっていたらしく、リッパが焦ったような声を上げた。はっとして立ち止まると、小走りで追いついてくる。
「一体どこを通るつもりさ。どんどん狭くなってるよ?」
先ほどから、2人は住宅の裏や人気のない路地などを通っていた。今まさに樹が入ろうとしているのは、利用するのは野良猫ぐらいの家と家の隙間。その狭さと薄暗さを目にしたリッパが、不安そうに眉根を寄せる。
「大丈夫ですよ。近道なんで」
心配するリッパとは正反対に、樹はそれだけ言って隙間に体を滑り込ませた。後ろから、文句を言いつつリッパがついてくるのが見える。
手の甲や肩をコンクリートに擦りそうになりながら狭い隙間を進み、ついに二人は広いところへ出た。
大通りほど広くはないが、車一台ぐらいは通れるであろう幅を持つ路地。古びたコンクリートの地面とさびれた緑のフェンスが立ち並び、どこか昭和めいた雰囲気を醸し出している。
人気は全くない、まさに地元民だけが知る秘密の近道と言ったところだ。
色の少ない静かでさびしい空間に、二人分の足音がコツコツと響く。
「へえ、まだこんな所があったんだ。知らなかったよ」
そう言って、リッパは唇に笑みを浮かべた。
景色を見渡して細められた目はどこか懐かしげな光を宿していて、もしかしてこの人は見た目よりずっと年上なんじゃないか、と樹は不思議な感覚を覚える。
リッパの若い横顔を見てそんなわけないか、と思い直し、樹は道の先に目をやった。
「この道を抜けたら、支部はすぐそこです。ほら、そこの廃工場の前を――」
声が、途切れる。
ぞくり、と言いようのない悪寒が走って、全身の肌が粟立った。
「樹くん?」
突然立ち止まった樹に、リッパが心配そうに声をかけた。
その声が、やけに遠くに聞こえる。
「嫌な予感」と、それ以外に言い表しようもない感覚が脳内を蝕んだ。原因はわからない。ただ、視界に移るのは、ぼろぼろになった廃工場。
――――これだ。
樹の直感が告げた。空気がざらついているような気がして、胸の奥がむかむかする。あの中に何があるかはわからないけれど、視界に入った廃工場に「嫌な予感」の原因があることだけはわかった。
「すみません、リッパさん、ここに居てもらえますか?」
「えっ?」
「絶対に入ってきちゃだめですよ」
リッパの肩に手を置いて、強い口調で言う。
戸惑いながらもリッパが頷いたのを確認して、樹はくるりと廃工場の方に向き直った。
どくどくと、心臓が早鐘を打っている。得体のしれない緊張感にごくっと喉を鳴らして、樹は扉に手をかけた。
ぎぃぃ……と嫌な音を立てて鉄の扉が開く。中に体を滑り込ませると、ほこりっぽい広い空間が目に映った。
工場、と言うよりは大きな作業場のようだ。部屋と呼べるものは少なそうで、扉から数メートル先には、作業で出る塵やごみを外に出さないためだろうか、灰色のカーテンが端から端まで引かれている。
明かりは高い位置にある窓から差し込む日光だけで、工場内は薄暗くて不気味だった。
窓の1枚が割れていて、真下の床にガラスの破片が散らばっている。そのそばにはボールが転がっているから、きっと誰かが間違えて割ってしまったのだろう。
念のため立てつけの悪い扉を閉めてから、樹はそろそろと歩き出した。
どうやら、工場の奥に進むにはあの灰色のカーテンを開けなければいけないようである。何だかホラーゲームみたいで気が進まない。だが、今樹の全身を総毛立たせている原因はあの奥に存在しているらしい。
(しょうがない、やるか)
心の中で自分を奮い立たせ、樹は一歩、また一歩とカーテンに近づいて行った。
進むにつれて、よくわからない吐き気と悪寒は激しくなっていく。そっとカーテンを掴むと、ほこりがもうもうと舞い上がった。掴む手に力を込めると、心臓が痛いほど脈打っているのがわかる。
一呼吸置いてから、樹は一息にカーテンを開けた。
視界に飛び込んできたのは、黒。
「――っ、あ」
そう、それはまるで、悪夢のような。
「あっ、き…」
赤い目玉をぎょろりと動かして、悪鬼がそこにいた。