1 エデン神盟騎士団の少年
道端でうごめく、真っ黒でぶよぶよした物体。目も口も何もないけれど、それはたしかに動いていて、ちょっと気持ち悪い。
人通りの少ない道で立ち止まり、小金井樹は少し顔をしかめた。
この少年・小金井樹は、取り立て特徴のない平凡な人間であった。今年の春に十六歳になったばかりの、お人好しで少し大人しいだけの少年。顔もいたって普通で、身長も平均値とほぼ変わらない。
ただ、十六歳の日本男児の「平凡」サンプルのようなこの少年にも、ふたつだけ「平凡」とは言えない部分があった。
一つは、樹の視線の先にある黒い物体が見えるということ。
そしてもう一つは、彼が、その物体を討伐するための組織〝エデン神盟騎士団〟に属していることである。
軍服のようなデザインの青い制服に身を包んだ樹は、爪先でちょんちょんと黒い物体をつついた。物体は樹の爪先から逃げるように変形し、うめき声ともつかない声を漏らす。
この物体は、騎士団が〝悪鬼〟と呼ぶ生命体である。人の負の感情、恨みや嫉妬、怒りなどが形を成したものであるといわれ、力の強いものは様々な形に姿を変える。
エデン神盟騎士団は、この悪鬼を神の力を借りて討伐するのだ。
樹はまだ研修期間中の身だった。神の力なんて持っているわけもなく、それどころか「神の力ってどんな?」というレベル。だが、悪鬼は発見したら即討伐するのが騎士団の規則である。危険な仕事ゆえに退団者が後を絶たず万年人手不足のため、たとえ入団して一ヶ月足らずの研修生であろうとも、それが免除されるわけではない。
仕方なく、樹は腰にたずさえた白銀の杖を引き抜いた。装飾も何もないシンプルなそれは“護杖”と呼ばれる特殊な物で、悪鬼を祓う力を持つ。
護杖を悪鬼の頭上に高々と掲げた樹は、一息にそれを悪鬼に突き刺した。いやに弾力のある感触が手に伝わってくるとともに、悪鬼がグエッと声を上げる。
そして、悪鬼はさらさらと塵になって消えた。
何度やっても慣れない。やはりこのぶよっとした弾力と断末魔は生理的に辛いものがある。
鳥肌の立った腕をさすりながら、樹は早歩きで小道を抜け大通りに出た。
真っ青な制服の樹は人混みでは目立つかと思いきや、別にそうでもない。
ここ横浜のような大都市には、当然負の感情も多く悪鬼も多く出没する。その被害を最小限に抑えるために日夜騎士団員が巡回しているから、青い制服姿は特に珍しいものでもないのだ。
街中に警備員が立っていても誰も何とも思わないように、騎士団員のことを特に気にする人もいない。
騎士団の横浜支部に向かって歩きながら、樹はスマートフォンを取り出して電話を掛けた。相手は、樹たち研修生を受け持っている上等従騎士。
「もしもし、神田上等ですか?研修生の小金井です」
【…なんだよ】
樹の上司・神田幸久は不機嫌そうな声で返事をした。その声を聞いて、事務担当の松崎さんが「神田上等、四十五過ぎてから急に機嫌悪い日がふえたのよね」と言っていたのを思い出す。
「悪鬼を一匹討伐したので、報告を」
【ああ!?そんなことで電話したのかよ!?】
案の定電話口で怒鳴られ、思わず耳からスマホを遠ざけた。通行人が一人、うるさいとばかりに眉をひそめて通り過ぎる。
「や、でも、悪鬼を討伐したら上司に」
【んな規則はどうでもいいんだよ!忙しいときに電話してくんじゃねえ!わかったらさっさと帰ってこい!いいな!?】
八つ当たりのように怒鳴り散らされ、電話は一方的に切られた。
「…なんなんだよ」
空中に向かって愚痴をこぼしながら、スマホを乱暴にポケットにしまう。
イライラを発散するように、樹はずんずんと歩き出した。
神田幸久と言う男は、それはもう嫌な人物である。樹たち研修生にとっては、本当に天敵のような存在だ。事務担当の松崎さんの言うとおり、機嫌の悪い日が多いし、しかもその発散を部下に当たり散らすことで済ませているから余計タチが悪い。
帰らないと。帰ったら怒られるんだろうな。帰りたくないな。
決心のつかない家出少年のようなことを考えながら、樹は歩き続けた。
そこかしこを覆う人の声、喧噪。肩をかすめる他人の肩、青信号の点滅、宣伝の文句に溢れた電光掲示板。人の波の間を、すり抜けるようにして進む。
脳内で文句もひとしきり言い終わって無心で歩いていた樹は、突然、誰かに手首をつかまれて立ち止まった。ぎょっとして振り向くと、そこには、
「ねえ、キミ」
視界に白が飛び込んできた。
髪だ。
真っ白な髪を長く伸ばした人が、樹の手首をつかんでいる。
「キミ、エデン神盟騎士団のヒトだよね?」
長めの前髪の下から、明るい緑色の瞳が顔を出した。外国人……ではないように思える。肌はその髪と同じぐらい白いし、面白いぐらい顔は整っているし、樹よりも拳一つ分くらいは高い。だが、どことなく東洋人っぽい。
性別……は、ちょっとわからない。背が高い女の人かもしれないが、美形の男の人かもしれない。
樹にはちょっと理解できないデザインのコートはやけにだぼだぼで手が隠れてしまっている。胸元には、瞳と同じ色のガラスが嵌ったループタイをしていた。
「…ねえ、ちょっと?」
そこでやっと、樹は声をかけられていることに気付いた。
目の前にいる人物は現代の人混みに紛れるにはあまりにもちぐはぐすぎて、思わずぼーっとしてしまった。
「あっ、すみません。何でしょう?」
「だから、エデン神盟騎士団のヒト?」
今気づいたが、声は男のものだった。と言うことは、男性か。
「そうですけど…」
そう言うと、白髪の男性はぱあっと顔を輝かせた。ものすごく嬉しそうだが、その顔が自分の目線よりも高いところにあることと、相手がどう見ても成人しているようなので、いまいちリアクションに困る。
「じゃあキミ、ボクを横浜支部まで案内してくれる?」
「…はい?」
「よろしく!」
わけがわからず、樹は立ち尽くした。
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