15 魔神アグニ
『呼んだかァ⁉呼んだよなァ‼』
鼓膜を破らんばかりの大声が響く。
朝霧の頭上に、大柄な男が浮いていた。
振り乱した真紅の長髪に、褐色の肌とギラギラ光る金色の三白眼。上半身は裸で、荒々しくたくましい筋肉があらわになっている。尖った耳はこれでもかと金や黒のピアスで飾り付けられ、鋭く長い爪は真っ黒。
そして何より目を引くのは、通常サイズまで縫い閉じられた耳まで裂けた口だった。
「お前…マジ無いわ…」
朝霧が落胆仕切った顔で頭を抱える。
『呼ばれたから来てやったぜェ⁉このオレ様こそが、〝清浄と烈火の魔神〟アグ』
「うるせえ‼帰れ‼」
樹とユグドラジルは、呆気に取られて朝霧の守護神・アグニを見つめた。
姿形も圧巻だが、何よりテンションがちょっと―――いや、かなりおかしい。朝霧が渋ったのもわかる気がした。
『今日はどれを燃やすんだよマキィ‼そのガキかァ⁉それともそこに浮いてるブスかァ⁉』
『なんですって⁉』
ユグドラジルが目を吊り上げて叫んだ。樹が見た中ではダントツで恐ろしい顔だ。
だが、アグニはそんな彼女の顔を見て高らかに笑った。
『事実だろブス‼燃やしてやろォかァ⁉』
勇者だ。
3人分の心の声が同調した瞬間だった。
ユグドラジルは顔を真っ赤にして、怒りでぶるぶる震えている。
アグニは何とも楽しそうに、その顔を馬鹿にして笑う。
休憩室内は、地獄絵図と化していた。
「あれが朝霧さんの…」
「…そうだ」
そう答えた朝霧は、苦虫を100匹噛み潰したような顔をしていた。
そんな顔をしたくなるのも分かるような気がする。確かにこれは呼びたくない。
『黙りなさい野蛮神っ‼ローカパーラの火天ごときが‼』
『あ゛ァ⁉てめェこそただの木だろォがァ‼』
『私はユグドラジルよ‼世界を支える樹木の女神なんだから‼』
『知るかァ‼名前が長げェんだよ‼』
もはや小学生の喧嘩だ。
(名前が長いって…なんだよ)
耳を塞ぎたいのをこらえながら、樹は2柱の喧嘩を呆れ半分、諦め半分で眺めていた。
こんなのが神様だなんて、今世紀最大の事故だ。これが神だと言うのなら、神田上等なんて靴の裏に貼り付いたチューインガム程の価値しかない。
『だいたい、貴方には神の威厳が無いのよ‼』
『威厳だァ⁉ブスの癖に偉そうなこと言ってんじゃェよ‼』
『私はブスじゃないわ』
「もう止めなよ2人とも」
涼介が爽やかに割って入った。
それだけでなぜか怒鳴り声がぴたりと止む。
「…わあ、神対応」
「違えよ」
感心したように呟いた樹に、朝霧が低く呻いた。
「あれはなあ…」
涼介がにこり、と笑う。
「馬鹿なの?馬鹿なんだよねえ五月蝿いんだよいつもいつも。五月蝿いからその口縫われたんじゃないのねえアグニ?何なら僕が全部縫い閉じてあげようか?嫌なら少し黙ろうかそうしてくくれると手間も省けるし世界も少しは平和になると思うんだよね。ユグドラジルも少しは自重しなよナルシストは見苦しいから。自信があるのは構わないけど口に出すのは不味いよねわかってる?」
「…キレてんの」
朝霧がなげやりに言う。
アグニとユグドラジルはぽかんとしていた。
涼介は変わらず優しい笑みを浮かべている。その口から、今し方とんでもない罵詈雑言が飛び出したとは思えない。
あ、いや、目は笑っていない。目だけはぞっとするほど冷たく、鋭利な刃物のように光っている。
「…ねえ」
涼介が一歩踏み出した。
2柱が怯えたように一歩下がる。
「ごめんなさい、は?」
『『ごめんなさいっ‼』』
南極の吹雪のような声音に、2柱は真っ青になって跡形もなく消えた。
(涼介さん怖っ⁉)
自分が怒られた訳ではないのに、今すぐ逃げ出したい衝動にかられた。
めっちゃ怖い。少なくとも、神を撃退してしまうくらいには怖い。
「今後、あの2人は一緒に呼ばないようにしようか」
涼介に笑顔で言われて、樹はただ無言で頷くことしかできなかった。
「…っと、何の話だったっけか」
気まずそうに朝霧が切り出す。
未だに禍々しい笑顔の涼介からそっと目を反らし、樹はここに来た目的を思い出そうとした。
「あ、護杖でした」
「護杖?ああ、俺が預かってるやつか」
空気が重い。
次に会ったら、―――もう会いたくもないが―――ユグドラジルには絶対にガツンと言ってやる。
「あれ、寮棟の俺らの部屋にあるんだわ。俺らもまだ訓練あるし…とりあえず、次会う時まで俺の使え」
そう言って、朝霧は樹に自分の護杖を渡した。デザインや大きさは樹の物とまったく同じだが、よく見ると傷だらけでよく使い込まれていることが分かる。
樹が傷をじっと見ているのに気づいて、朝霧が少しすまなそうに声をかけた。
「悪いな、10年ものなんだ。傷、気になるか?」
「や、大丈夫です」
答えて、傷の一つを指でなぞる。
重さは変わらないはずだ。だが、なぜか少し重く感じた。
「…では、ありがとうございました。俺はこれで」
護杖をぐっ、と握りしめ、頭を下げる。
頭上で、朝霧が少し笑う気配がした。
「おう。悪かったな、燃やしかけて」
「ユグドラジルに少し言い過ぎたかなあ。次会ったら悪かったって伝えておいてくれる?」
涼介の言葉に苦笑いする。
アグニに悪かった、と言わない辺り、まだちょっと怒っているようだ。
「では、さようなら」
「じゃあな」
「またね」
もう一度頭を下げて、ドアの方に向く。
「…なあ」
休憩室を出ようとしたところで、朝霧に後ろから呼び止められた。
「そういや、名前聞いてなかったよな。名前は?」
確かに、まだ名乗っていなかった気がする。
樹は振り返って口を開いた。
「俺、小金井樹です」
自分の名前が部屋の中に響く。
2人は妙な顔をしていた。
驚いたような、怯えたような、あるいは、何か痛みを思い出したかのような。
「…小金井?」
互いに顔を見合せて、朝霧が呟く。
しばらくの沈黙の後、朝霧がゆっくりと息を吸った。
「なあ、お前…」
緊張をはらんだ声。強張った顔。なぜ、声が微かに震えているんだ?
「小金井梢、って知ってるか?」
からん、と乾いた音がした。
樹の手から護杖が滑り落ちた音だった。
樹が、その目を大きく見開く。
「…にを」
吐き出された声は掠れていた。
樹はふらふらと2人に歩み寄り、朝霧の襟をすがるように掴む。
「兄をっ、知ってるんですかっ⁉」
朝霧と涼介の息を呑む音がした。
それは、今まで聞いたどんな声よりも悲痛な声だった。
掠れて、弱くて、それでいて苛烈な意思を秘めている叫び声。悲鳴のような、懇願のような、魂を引き絞るような少年の感情の結晶。
「…あ、に…?」
朝霧の口から、声がこぼれ落ちた。
襟を掴む手から、震えが伝わってくる。白くなるほどに力を込めた樹の手から、必死さが痛いほどに流れ込んでくる。
彼は必死だ。しかし怯えているんだ。
朝霧と涼介が持っていて、きっと樹が死ぬほど求めたであろう「答え」に。
「梢はっ、俺の兄ですっ!」
血を吐くように、朝霧にすがった樹が叫んだ。
樹の姿が、なぜだか一回り小さく見えた。
弱々しくて、今にも折れて、崩れて、壊れそうな子供。
自分たちでもよくわからない感情の渦に巻き込まれて、2人はしばらく呆然と立ち尽くしていた。