13 赤髪のマキ
午後2時頃、ウキ先生から「動き回ってよし」との許可をもらった樹は、朝霧真赤のいるという地下訓練場へと向かった。
入団時に支給された制服は右肩がズタズタな上に血まみれになってしまったので、ウキ先生の手から新しいものを一式貰ってそれを着ている。
悪鬼に突き刺してそれっきり見ていない護杖は朝霧真赤が預かってくれているそうだ。
エデン神盟騎士団横浜支部は、大きく2つの建物に別れていた。
一つは、悪鬼の目撃証言などを聞く受付や医務室、会議室、支部長の執務室、隊ごとのオフィスなどがある本棟。地下に訓練場があるのも本棟だ。
そしてもう一つは、騎士たちの部屋と談話室、食堂、地下には大浴場のある寮棟。
研修生はまだ入居できないが、団員なら誰でも家賃ゼロ円+電気水道代負担なしと言う破格の条件で住める。
部屋は基本2~3人での共同利用だが、准特等以上になれば個室も希望できる。ぜひとも入居したい夢のような住まいだ。
これで高給だというのだから、命の危険――例えば、腕を喰い千切られたり――に目をつぶれば、何と言う素晴らしい職業だろう。
樹が病院着で駆け回ったのは本棟だった。
一般市民も立ち入る受付までは行かなかったものの、とにかくそこら中を走り回った。途中、何回か人にぶつかった気もするし、必死すぎて誤りもしなかった気がする。
その証拠に、さっきから通りすがる騎士や事務員の目が痛い。めっちゃ恥ずかしい。
居たたまれなくなって、樹はそそくさと地下に続く階段を降りて行った。
本棟は基本、飴色の木材と落ち着いた赤の絨毯、柔らかな暖色のランプのアンティークな造りになっている。
西洋的な雰囲気で高級感を漂わせている木製のデスクや金の装飾は、騎士団創設の地・イギリスの様式を受け継いで作られた物だ。
だが、樹が今降りている階段は、鉄とコンクリートが淡白な白色証明に照らされてアンティークのアの字もない。幅も狭く傾斜もきついので、上の広くてゆったりとした階段とは似ても似つかなかった。
加えて、階下から聞こえてくるくぐもった叫び声や鈍い音。改めて、ここは武力組織なのだということを実感する。
ただ階段を下りているだけなのに、なんとなく手のひらに嫌な汗が滲んだ。
階段をすべて降りると、分厚く重々しい鉄の扉があった。
叫び声はすぐそこで、扉越しでも空気の震えや熱量が伝わってきそうだった。
(緊張する……けど、行かないとな。ちゃんとお礼も言ってないし)
朝霧真赤さん、美人かもしれないし。
一度深呼吸をして、樹は重たい扉を開けた。
その瞬間、赤い光の塊が樹の眼前に迫った。
「っうわあ!?!?」
咄嗟に頭を抱えてしゃがむと、脳天をぶわあっ!っと熱風が通り過ぎて行った。そのあまりの熱さに、本能的に床をごろごろ転がって逃げる。
こんなことが前にもあった気がする。あのときは、目の前を通り過ぎただけだけど。
少し悪鬼の気持ちがわかった気がする。少なくとも樹は、今ので10年は寿命が縮んだ。
落ち着くにつれて、周囲のざわめきが徐々に耳に入ってきた。
恐る恐る背後を振り返ると、黒こげになった扉の奥の壁。
一歩間違えたら、樹がああなっていたかもしれない。今更ながら、冷や汗がだらだらと頬を流れる。
床に倒れたまま呆然としていると、誰かが慌てたように樹に駆け寄ってきた。
「君、大丈夫!?どこか燃えてない!?――ってああ、髪の毛焦げてる!!」
整った顔立ちに泣き黒子、優しげな瞳の青年が、慌てて叫びながら樹の頭に手を置いた。
冷たくて気持ちいい。でも、あんた誰だ。
「ちょっとマキ!?何でドアに撃ったの!?」
優しい青年が自分の背後に怒鳴った。
(……マキ?)
聞き覚えがある。と言うか、樹はその人を探しに来たのだ。なのに何故、燃やされかけているのか。
「いや、マジで悪かった。まさか人が出てくるとは…」
聞こえてきた声は、予想に反して低かった。
ハスキーボイスとか、そういうレベルではない。
それはもう、男性的に低かった。
優しい青年の背後から、声の主が顔を出した。
赤みがかった茶色の長髪を中ほどの高さで一つにまとめ、両耳には黒いピアス。鋭い瞳に、どこか粗暴そうだが整った顔立ち。
美人だ。願望通り、美人なのは間違いない。
でも、男だ。
「悪かったな、怪我は―――あ」
「あ」
2つの口が、同時に同じ音を吐き出す。
名前は確か、朝霧真赤だったはずだ。真赤。マキだ。
だが、優しい方の青年にマキと呼ばれて尚且つ今樹を燃やしかけた真赤は、男だった。
「朝霧さんですか…?」
「あん時の研修生…?」
またもや同時に呟いて、2人はぽかんと口を開けたまま固まった。
まさか、命の恩人に焼死させられかけるという形で再開するとは思わなかった。だが彼も、助けた研修生を燃やしかけることになるとは思わなかっただろう。
「…えーっ、と?」
何も知らない青年が、困惑気味に声を上げた。
「君は…マキが助けた子、でいいのかな?とりあえず場所移そうか」
言われて周りを見ると、訓練場中のすべての視線が樹に集まっている。
たった今死にかけたのだ。そりゃ目立つ。
立てる?と聞かれて、樹はよろめきながら立ち上がった。まださっきのショックが抜けきらないが、腰は抜けていないらしい。
優しい青年は、ふらつく樹とまだ混乱気味の朝霧を連れて、ドアから向かって右側にある休憩室の中に入っていった。
地下訓練場は、床から壁、天井に至るまでコンクリートがむき出しの無骨な造りになっている。破損と修理のサイクルが激しいので、装飾するだけ無駄なのだ。
だがこの休憩室は、白い漆喰壁に木製のベンチが幾つか、給水機が壁際に備えつけてある平和的な雰囲気。
青年は、ベンチの一つに2人を座らせた。
「火傷とかしてない?頭はとりあえず冷やそうか」
頭に青年の手が乗せられる。先ほどよりもさらに冷たい。
気持ちいいが、人間の手としてはぞっとするような冷たさだ。
「あの、たぶん大丈夫なんで」
「そう?」
若干怖くなってやんわり断ると、青年の手は離れて行った。
「あっ、僕は風祭涼介だよ。涼介って呼んでね」
「よろしく、お願いします…」
3人の間に沈黙が下りる。
お礼を言いに来ただけなのに、なんだこの気まずさは。
「いや、その…悪かった。まさかあのタイミングで来るとは…」
「…や、大丈夫です。…えっと、この間はありがとうございました」
ついさっき殺されかけたばっかりなので、何だか釈然としない。
その雰囲気を感じ取ったのか、青年―――涼介が朝霧にさらに追い打ちをかける。
「なんでドアに撃ったの?馬鹿なの?階段のところの壁焦げたけど、あとで支部長になんて説明するつもり?」
声が冷ややかだ。それはもう、手と同じくらい冷ややかだ。さっきまでの優しさがどこかに飛んで行ってしまったみたいに怖い。
そのまま言わせておくのが怖くなって、樹は慌てて話題を変えた。
「そっ、それにしても、びっくりしました。朝霧さんのこと、女の人だと思ってたので…」
ぼっ、と音を立てて朝霧の手が燃えた。
「……あ゛?」
恐ろしく低い声が返ってきた。手の炎が不穏に揺らめいて、室内の温度がぐんと上がる。
…人の手って、燃えていいんだっけか。
どうやら樹は、知らないうちに朝霧の地雷を踏み抜いてしまったらしい。
「誰が…女みてえな…名前だって…?」
そこまで言ってない。
だが、完全にキレている朝霧にそんなこと言えるはずもなく。
下手に動くと焼却されそうな気がして、樹はピクリとも動けなかった。
「や、あの、ごめんなさい…?」
声を絞り出すと、さっきのこもった目にぎろりと睨まれた。
正直、めっちゃ怖い。でも、今ここで目を逸らしたら間違いなく右手の炎で燃やされる。
樹は耐えた。頑張って耐えた。朝霧の右手で、真っ赤な炎がゆらゆら揺れる。
しばらくして、
「…チッ」
朝霧が舌を打って視線を外した。炎が肌に吸い込まれるように消える。
緊張が解けて、樹は大きく息を吐き出した。
「マキはね、名前のことでからかわれるのが嫌いなんだよ。心の底からね」
涼介が場を和ませるように明るく言う。
「俺…からかいました…?」
「いや、からかってはないよね」
涼介にすっぱりと言われて、朝霧はまた忌々しそうに舌を打つ。
「っせえ。イラついたんだよ」
「横暴だなあ」
本当に横暴だが、涼介は慣れているらしい。笑って流す。
ちょっと雰囲気がましになったので、樹は気になったことを聞くことにした。
「あの、朝霧さんは神の守護受けてるんですか?」
「あ゛?」
前言撤回。雰囲気はすこぶる悪い。
(やばい、燃やされる…?)
だが、朝霧は別にキレなかった。どうやら、不機嫌そうな返事を返すのが彼のスタンスらしい。
「まあな」
そう言って彼は樹の前に手を出す。
ぼっ、と音を立てて指先から炎が上がった。驚いた樹が短い悲鳴を上げて飛び退くと、朝霧は意地悪くにやりと笑う。
真っ赤な炎だ。普通にライターをカチリとやってつける炎よりも、赤く輝いている気がする。
あの日、廃工場で見たのと同じ炎だ。
樹がじっと炎を見つめていると、炎はさらに明るく燃え上がった。
「熱くないんですか?」
「俺は熱に強い。守護の影響でな」
なるほど、守護にはそんな効果もあるのか。
いまいち実感はわかないけれど、樹も人とは違う体質になっているのかもしれない。
「お前も守護受けたんだろ?あの規模は洗礼じゃねえよな」
指先の炎を消しながら、朝霧が聞いた。
そういえば、あれ以来ユグドラジルを見ていない。足が三本ある幽体の少女が毎日隣に居ても困るが。
「もう守護受けたんだ、すごいな。名前は?」
「えっと、ユグドラジルです。三本足の―――」
そこで、樹の声は途切れた。
背筋を、泡立つような感覚が這い上がる。
この感覚には覚えがあった。正直、あまり嬉しくない思い出だ。
朝霧と涼介が、樹の背後の何かを見て目を見開き、固まる。
樹は、ゆっくり後ろを振り返った。
優しい青年(仮)の手が冷たいのには理由があります。