11 馬鹿とウキ先生
樹が目覚めたのは、次の日の朝だった。
今度は記憶もはっきりしている。だからと言って混乱しないわけではないけれど、今朝の樹は妙に落ち着いていた。
それは、あきらめにも似た感情だった。
「元気ー?」
目の前には、満面の笑みを浮かべた不老不死。カミングアウトした翌日に、よくもまあ何事もなかったかのように会いに来れるものだ。
「改めまして、白神律破です。実はねえ、横浜支部の特等従騎士なんだよ」
そう言って、律破は名前と階級の書いてある団員手帳を樹の顔に突き付けた。
芸名じゃなかった。おまけに、騎士団の従騎士だった。樹よりも階級が上、と言うか、支部長と同じ階級だ。
(リッパって…こうやって書くのか)
書かれた名前をまじまじと見つめると、ウキ先生が医務室の中に入ってきた。
ウキ先生――本名は浮野原彰彦。ここ横浜支部の専属医師らしい。
ただし、医者とは思えないほど面倒くさがりで適当だが。
「おォ、来やがったな白神律破」
樹のベットに律破の姿を見止めて、ウキ先生は面倒くさそうに頭を掻いた。
「1年ぶりに帰ってきたと思えば、てめェはなんて危険なことをしてくれてんだ。3日間の昏睡で済んだのは奇跡だぜ。普通死ぬわ」
ごめんねー、と軽く笑っている律破の横で、樹はぎょっとして息を止めた。
「えっ、俺そんな危なかったんですか?」
「あァ。なんで生きてんのかわかんねェくらいにはな」
「そんなに!?」
信じられない思いで律破を見つめる。初めて会った頃から薄々思ってはいたが、ずいぶんと適当にやってくれたものだ。
守護を受けた瞬間の、あの自我が激流の中に消えていきそうな感覚を思い出してぶるっと身震いする。
「だがな、てめェもてめェだ、小金井。護杖の変形はまだいいとして、しょっぱなからあんな力使う馬鹿がいるか」
疲れきったようなウキ先生の言葉に、樹は気を失う寸前の記憶を思い出した。
確か、床から緑の蔦みたいなものが突然―――。
「あれ俺がやったんですか!?」
突然の大声に、律破が驚いて体をのけぞらせた。
だが、そんな光景は樹の視界には入っていない。
(確かに、やめろとは思ったけど……)
だからと言って、自分にあんな芸当ができるものだろうか?
「ふつう、守護を受けたら1日は間を開けるモンだ。それをてめェは、数分と経たずに思いっきり使っちまった。てめェは、三途の川に片足突っ込んだんだ。それを忘れんじゃねェぞ」
「…はい」
心当たりは無いのだが、ウキ先生の声があまりにも真剣で思わず気圧される。
自分の意思でやったつもりはないのだけれど。まったくもって。
「で、樹くんはもう大丈夫なの?」
悪びれも何もないような笑顔で、律破がウキ先生に聞いた。
樹は心に芽生えた小さな苛立ちをそっと胸にしまいこむことに成功したが、案の定、ウキ先生はうまくいかなかったらしい。
ごんっ、と鈍い音がして、律破が頭から椅子から転げ落ちる。
「うるせェ!!そこで寝とけドァホ!!」
床に蹲って声にならない悲鳴を上げた律破を、ウキ先生は容赦なく足蹴にした。樹は、その光景を冷めた目で見つめる。
「つか、てめェは小金井のカルテ取りに来ただけだろうが!!それ持ってさっさと帰りやがれ!!」
怒鳴りながら、ウキ先生がカルテを律破に押し付ける。後頭部に一撃を食らって涙目のリッパは、何も言わずにカルテを受け取った。
「なんで俺のカルテを?」
不思議に思って樹が尋ねると、哀れなくらい小さな声で「それはね」と律破が答える。
「ボク、今日から神田くんの代わりに研修生担当なんだよ」
「えっ、そうなんですか?じゃあ、神田上等は―――」
「担当を外れたよ」
「っしゃあっ!!!」
周りに律破たちが居るのも忘れ、思わずガッツポーズした。
なんて最高なんだ。確かに律破は適当だけど、神田上等の逆ギレよりは100倍ましだ。きっと他の研修生も、樹と同じようにガッツポーズするに違いない。
だが、律破とウキ先生の何とも言えない視線に気づいて、樹は慌ててガッツポーズを引っ込めた。
「俺もあんまり好きじゃァねえが、ここまで嫌われてるとはなァ」
神田上等への憐れみを目に浮かべながら、ウキ先生が呟く。
「あの、今のは忘れてください」
「樹くんって…神田くんのこと嫌いだよね」
「そりゃ、大嫌いですけど」
「てめェも結構言うなァ」
自分が死にかけた理由の一端を作った人を好きになれ、と言う方が無理な話だ。通話が一方的に切られた瞬間の、あの絶望感は一生忘れない。それで担当を外されたのならざまあ見ろだ。
樹からにじみ出る不穏な空気を感じ取ったのか、律破はカルテを持ってそそくさと立ち上がった。