10 微笑と冷酷
「――っと、危ね」
力を失って倒れそうになった樹の体を、間一髪のところで百舌が支えた。
「で、こいつどうすんの?」
「医務室に運ぶしかないでしょう。…裸足のままここまで来て、相当必死だったのでしょうね」
唐理が冷たい視線をリッパに向けた。リッパは申し訳なさそうに頬に手をやる。
「結構ショックだったんだね…」
「当たり前だろ。そりゃ気絶もするわ」
「起きたらちゃんと謝らなきゃだなあ」
16歳の男子をひょいと背負った百舌を見ながら、リッパは眉を下げて呟いた。
そのとき、コンコン、とノックの音が響いた。
「小金井樹来なかったか?―――って、おお、気絶してんのかよ」
立っていたのは、樹の後をあきらめ半分でのんびり追ってきた無精ひげの医者だった。
「あ、ウキ先生。こいつ大丈夫なの?」
百舌が背中の樹を樹を顎で指し示すと、「ウキ先生」と呼ばれた彼はまさか、と首を振る。
「3日間の昏睡状態から、起きていきなり走り回ったんだぜ?大丈夫なわけねェだろ。そりゃァ気絶もするわな」
「そういやこいつ、足の裏も怪我してるぜ。何か踏んだか?」
「あァ、そうそう、割れたコップの破片な。ったく、余計な傷増やしやがって」
医者とは思えないセリフを吐きながら、ウキ先生はわしわしと頭を掻いた。もともとボサボサだった髪が鳥の巣のようになる。
「悪ィけど百舌、そいつ医務室まで運んでくれ。俺にはちときつい」
「りょーかい」
「じゃ、どーも、お騒がせしました」
そう言って、3人は執務室を出て行った。
2人分の足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
自分とリッパ以外の気配がなくなってから、唐理は深くため息を吐いた。
「悩み事でもあるのかい?」
暢気なリッパに、さらにため息が出る。
「――ほぼあなたのことですよ、白神律破」
ストレスとは縁がなさそうににこにこ笑う律破を、唐理は疲労の濃い目で見上げた。
「飛び級昇進の審議で一年以上本部に拘留されたと思えば、帰国初日に悪鬼に襲われるなんて。おまけに、研修生に守護を受けさせましたよね。適合率もわからないのに上層上位神を呼び出すなんて、正気の沙汰じゃありませんよ」
言葉を切って律破を睨み付けると、彼は悪びれもなくにへらと笑った。
「ユグドラジルが大丈夫って言ってたから、大丈夫かなって」
「馬鹿ですか」
すっぱりと言い切られて、律破が苦笑する。
「しかも、間をおかずに力を使わせて―――」
「ああ、あれはね」
律破の顔から、急に笑みが消えた。
「あれはボクがやらせたんじゃないよ。樹くんが自分の意志でやったのさ。そうじゃなきゃ、さすがにそんな危険なことはさせないよ」
自分の意思、と言う言葉に―――そして何より律破の真剣な声音に―――唐理はわずかに細い目を見開いた。
「守護を受けたての人間が、自分の意思ひとつであそこまでできるものですか?」
地面から、強靭な蔦を生やすなんて現象を。
「さあね」
ボクにもわからないよ、と言って、律破は少しだけ笑った。
神の力の強さは、すなわち意志の強さである。強い意思が、より強力な神力を引き出すのだ。
それを、あの少年がやってのけたと。
(一波乱ありそうだな…)
そう思うと、口から自然とため息が漏れた。
「ねえ唐理、そのことは3日前にもさんざん説教されたよ。今日ボクを呼んだのは違う理由なんだろ?」
重い空気を払拭するように、律破が明るく笑った。
そういえば、と思い出して、唐理はデスクの引き出しを開け、取り出したものをデスクの上に置いた。
それは金色のバッジだった。リンゴの葉とEdenの「E」がデザインされた騎士団の紋章がかたどられ、それを囲むように「Yokohama Third」の文字が飾られている。
「横浜支部3番部隊の隊長記章?」
それがなんであるかに気付いた律破が、驚きを顔に浮かべた。
「そうです。明後日から、神田上等の代わりに3番部隊長を務めていただきたい」
そう言って、唐理はバッチを律破に手渡した。
「別にいいけど…神田くん、何かしたのかい?」
「小金井樹の救援要請を無視しました。そんな上司は必要ありません」
「相変わらず怖いねえ。っていうか、樹くんの上司って神田くんだったんだ」
なんか恨まれそう、と言いながら、律破はバッジをコートの胸に付けた。
「どう、似合う?」
「引き継ぎは早めにお願いします」
「冷たいなあ…」
不服そうな律破を完全に無視して、唐理は立ち上がった。
「ん?唐理もどっか行くの?」
「多大な募金をしてくださっている、信乃瀬製薬の社長と会談です」
「大変だねえ」
他愛もない会話をしながら、2人は一緒に執務室を出た。
「白神上等」
向かう方向が分かれる寸前、唐理が律破を呼び止める。
「やだなあ、律破でいいのに」
「うるさいですよ」
律破の提案をぴしゃりと一蹴して、唐理は冷たく目を細めた。
「あまり問題を起こさないようにしてください。また、本部に目をつけられては敵いません」
対して律破は、愉悦を目にともして微笑した。
「今更じゃない?」
「だから再三言っているんです」
唐理もにこり、と笑う。
「うーん、わかった。善処するよ」
そう言いつつも律破は、その気がなさそうにくすくすと笑った。