9 不老不死の男
腕が、ある。
「…あっ、えっ?」
リッパの右肩からコートに包まれた腕がすらりと伸び、袖口からは白い手が顔を出している。もちろん、反対側の肩には左腕がちゃんとある。
「起きたんだね、よかった!もう大丈夫なのかい?」
混乱して口もきけない樹をよそに、リッパはそれが当然だとでもいうように笑った。
「立てる?」
目の前で、確かに、リッパの右腕が悪鬼に喰い千切られるのを見た。
それなのに彼は、失くしたはずの右手で樹の手を取って立たせる。
わけが、わからなかった。
「…っ、っ?」
喉が絞まってうまく声が出ない。声が出たとしても、何と言っていいかわからなかっただろう。
樹の脳裏にはまだ、流れ出た血の赤がちらついているというのに。
「っう、で…」
「腕?」
辛うじて絞り出した声に、リッパが首をかしげた時だった。
「あなた、きちんと説明していないんでしょう」
背後から聞こえた声に、え?とリッパが振り返る。
入ってきたときには夢中で気が付かなかったが、執務室にはリッパのほかに2人の男が居た。微笑を浮かべてデスクに座っているのが支部長、その隣に立っている黒い長髪が確か副支部長だ。
「腕を喰われたのではなかったですか。それを見ていたなら、今のあなたを見て混乱するのは当然です」
そう言って、支部長の唐草唐理は樹に笑いかけた。
何を言っているのかわからない。
何が起きているのかわからない。
説明っていったいなんだ。
なんでみんな平気な顔をしているんだ。何もわからない。
でも、どうやらわかっていないのは樹だけみたいだ。
「あっ、そうか。言ってなかったっけ」
そう言ってリッパは暢気に笑う。
おかしい。こんなの絶対におかしい。なんで笑ってるんだ?
だってあんたは、腕を片方失ったはずなのに。
「ボクね、不老不死なんだ」
緑の目が、きらりと光った。
「どんな傷でもすぐに治る。だから、腕がなくなっても大丈夫なんだよ」
そう言って、彼は右手をひらひらと振った。
不老不死ってなんだ。治るってなんだ。
不老って確か、年を取らないことだっけ。
不死って確か、死なないことだっけ。
冗談だろ、と思った反面、どこかで納得してしまっている自分に驚いた。
(だから、あんなに冷静だったのか)
血だまりの中で笑っていたリッパを思い出す。失血して真っ白になった顔で、他人の傷の心配なんかして。
「ふろう、ふし」
「そうだよ、ボク、死なないの」
リッパが、子供を諭すように優しい声音で言う。
その言葉は、面白いくらいにすとん、と樹の心に落ち着いた。
「死な、ない…」
「うん、死なない」
死なないならもしかして、中身はすごいおじいちゃんなのかも。そんなくだらない考えが頭をよぎった。
瞬間、今までの自分の必死さが馬鹿らしくなってくる。
(そっか。大丈夫なのか)
ほ、と安堵の息をつく。
緊張が解けてアドレナリンが切れたのか、裸足で駆け回った足の裏がずきずきと痛みだした。頭にも鋭い痛みが走って、それと同時に世界がぐらりと傾く。
そのまま、樹は気を失った。