鼻の長い男
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最初に見えたのは、黒革靴と、皺の無い黒のスラックスだった。
音も立てずに出現していたそれを見て、ゆっくりと視線を上げていく。
黒のジャケットに白いシャツ。燕尾服というやつだろうか。
両手は白い手袋。手袋はしないもんじゃなかったか、とぼんやりと思った。
更に視線が上がる。
引き締まった顎に、固く閉ざされた口。
シルクハットを被っている。
4、50代くらいに見える。
面長の顔の輪郭に赤みがかった栗色の髪、右目には黒の眼帯をしていて、
露出している左目が丸く、血走って、爛々と輝いていた。
そして鼻が、異様に長い。20cmくらいはあるんじゃないだろうか。
私は息を飲み、思わず一歩下がった。
後ろにあった父の椅子に軽くぶつかり、思わず手桶を落とした。
叫ぶことも出来ず、恐ろしさに震え、歯がかちかちと鳴った。
「失礼。驚かせるつもりではなかったのです」
男は右手を胸に当てて軽くお辞儀をした。
「私はクリスと申します。失礼ですが、貴女がロールさんで間違いないでしょうか?」
言葉も何も出ない。
ただ私は、必死に何度も頷いた。
「登録式で魔力0との判定を受けられましたね?」
ぶんぶん、と頷くしか出来ない。
男は満足したように一つ首肯すると、私の前に片膝をついた。
顔が近くなって、恐ろしさ10倍である。
口調こそ丁寧でも、その血走った視線はしっかりと私を突き刺していて、顔を背けることも出来ない。
「お話の前に、念の為魔力の再確認を致しましょう」
男はポケットから小さな物を取り出した。
それは、チューブの付いていない、聴診器の先端だけのように見えた。
違うのは、聴診器の裏側に半透明の石が付いていることだった。
男は聴診器の側を、ゆっくりと、私の首からやや下、鎖骨と胸骨の交点に向かって差し出してくる。
私はあまりの恐怖に下がろうとしたが、椅子が邪魔で、いや、実際には竦んでしまって動けなかったのかもしれない。
目だけが、男の手が私の胸に近づいてくるのを、じっと追っていた。
そして、聴診器が、私の肌に触れた。
叫びそうになる、泣き出しそうになる、足が崩れ落ちそうになる。
でも、そうはならなかった。
何故なら。
聴診器の裏についている魔石が、まるで裸の豆電球のように、間抜けに光ったからだった。
ぴかっ! って。
「ほほう、これはこれは」
鼻の長い男は、満足げに2度頷くと、すぐに手を戻し、聴診器を胸ポケットにぞんざいにしまった。
何が起こったのか判らない。きっと間抜けな顔を晒していただろう私に、男は宣告した。
「今私が当てたそこに、大きな魔力が感知されました。ロールさん、貴女は魔力0などではありませんよ?」
へ?
なに?
今なんて言った?
「と、言っても突然来た私にそう言われても信じられないでしょう」
ぶんぶん、と肯定する。
「お身内に、いや、貴女が十分信頼できると確信できるような、冒険者の方はいらっしゃいますか?」
ぶんぶん。
「では、その方に今起こったことと、放魔士について調査を依頼されると良いでしょう」
ここに来て、私は初めて言葉を発することが出来た。
「ほうま、し?」
「そうです。貴女は放魔士として、相当な素養がおありですよ?」
但し、と男は続けた。
「決して大っぴらに口外なさらないことを忠告いたしますがね」
男は一つ嘆息すると、続けようとした。
「さて、私が今日ここに来ましたのは、貴女に質問とお願いがあるからです。貴女はさ」
「ロール!言いつけ破ったでしょ!」
それを遮ったのは、扉を荒々しく開いて、怒ってるんだから! と表情でアピールした姉だった。
そして、そうなる瞬間に、鼻の長い男は、音もなく掻き消えた。
「あー、やっぱり! 手桶出してるじゃない!」
「お」
「ロール、あんたなんでお姉ちゃんの言うことが聞けないの!」
「お、おね」
「ダメ、今日は泣いてもゆる」
「お姉ぁぁあああああん!」
私は必死に姉に縋り付いて、泣き喚いた。
「え、え、え、なになに?」
「うわあぁぁぁあああああ!」
その鳴き声に驚いたように、ケヴィンが覗きに来た。
どうやら、家の前で荷物を整理していたようだった。
が、とにかく私には今、何の余裕もなく、縋り付いて泣き叫ぶしか出来なかった。
足も萎えて、ぺたんと座り込みながらも、姉に抱き着く力は緩められず、姉も一緒になってその場に座り込んだ。
「どうしたのロール? なにがあったの?」
「怖かった、怖かったよぉぉおお!」
困った顔をしつつ、取りあえず私の背中をぽんぽん叩く姉。
暫くそうしていた後、振り返って言った。
「ごめんケヴィン、ちょっとうちの母さん呼んできてくれない?」
「判った」
ケヴィンが走り去って行き、姉と私が残された。
「はいはい、なんか判らないけど、お姉ちゃんがいますからね?」
姉に宥められながら、泣き疲れて意識が遠のくまで、私はずっとずっと泣き続けた。